第136話 崩落と逃避 1
禍々しい力が何かに呑まれるように、突然失せた。もう何十年と側に張り付いていたような悪寒が薄れるのを感じる。
遂に元凶が......バケモノの本体が結界の波に埋もれたのだ。六国の全霊を以てしても斃すことができなかった敵、"クロッカス"。それを結界が呑み込むまでの間、食い止め続けた者がいる。
「......そう......彼、最期の最期でやったのね」
男は呟いた。
世界を救うことは叶わなかった。勝利したとも言えないだろう。しかし、遂に息の根を止めることができたのである。
これは"魔法使いの始祖"でさえなし得なかった偉業。
いや、彼の結界があってこその偉業なのだから、それは少し違うものなのか。何れにせよ、結界がこの世界を全て呑み込むまで、残り僅か。そうすれば、危険要素を外に放たなくて済む。
だからこそ罪悪感が募る。その僅かな時間だけでも足止めをしたかった。
「......ごめんなさい......どうか間に合っ......て」
揺れ動く結界の中、男は――引き千切られた翼竜の首は、静かに息を引き取った。
◆
「あぁ、あぁ。待っていました。ずっとずっと貴方を待っていました」
懐かしい雰囲気。綺麗に伸びた黒の長髪が揺れ、ガラス玉を嵌め込んだかのような瞳が光を反射させる。
その容貌はまごうことなき――
「エスペルト......なのか?」
「えぇそうです。私ですよ。さぁ――」
エスペルトは手を差し出す。
「こちらへ。良かった、貴方がいれば救える。死んだ彼らも、滅びゆく世界も、そして貴方の隣で死を待つレティシア・ウィンドベルも。全部全部救える」
ゼデクはどこか違和感を感じながらも、エスペルトの方へと歩みを進めた。グレンジャーの話によると、こちらの彼は死んでいる筈だが、どうやら嬉しい誤算だったようだ。
彼ほど頼もしい存在はいない。いつだってゼデクは彼を頼りにして来た。
そしてそれはこれからも同じ。
彼は育て親で、ゼデクの目標に必要不可欠な存在で、いつだって協力してくれた。
彼が自分に助けを求めるのであれば、当然それに応えたい。
一歩、一歩、足を前に進める。
「貴方さえいれば......貴方さえいれば」
彼はエスペルトだ。見間違えることもなくエスペルト・トラップウィットだ。
だと言うのに......この違和感は、悪寒は一体なんなのだろうか?
「貴方の力さえあれば、貴方を救える――」
「......え?」
刹那、彼に振るわれた刀がゼデクの喉元にまで伸びていた。何故――? ゼデクは理解できないまま呆然としていると......
「近付いちゃダメっ!」
光り輝く盾がエスペルトの刀を弾く。月桂樹の紋様が浮かび上がる、円盤状の盾。"王花の盾"だ。
その間に、ゼデクは我に帰る。急いで間合いを取ると、レティシアがエスペルトを防ぐように割って入った。
「......彼は、あのエスペルトは......むっすり君の知る人間じゃない」
「い、いや、でもレティシア! アイツは絶対エスペルトだ!」
「そうですよ。さぁ、私を救ってください。貴方が全てを差し出せば、全てを救うことができ――」
「貴方は黙っててッ!」
レティシアが術式を唱えると、光弾がエスペルトを襲った。
「エスペルトッ!」
ゼデクの不安は杞憂に終わった。アイゼン・フェーブルを彷彿させる鋼鉄の壁が光弾を尽く防ぐ。
「......むっすり君、先に行ってて。このままじゃ間に合わなくなる」
「何言ってんだ! アンタたちを置いてなんか――」
瞬間、ゼデクは言葉を止める。エスペルトの背後が深緑の光に覆われた。
グレンジャー・レーヴェン。
彼は不意打ちに近い形でエスペルトに殴りかかる。"命の鍵"の力、生命力エネルギーで加速した拳がエスペルトに迫った。
「......視えていますよ、グレンジャー」
亜高速の一撃を掻い潜るように避け、エスペルトはグレンジャーの胴体を真っ二つにする。
「......"カルヴァリン・オブ・レーヴェン"」
すると今度はグレンジャーの下半身が粒子となり、一筋のレーザービームを放った。爆風を利用しながらも、上半身をゼデクの元へと強引に運ぶ。
「お、おい! アンタ大丈夫か!」
「......心臓と頭が残ってれば問題無い、じき再生する。それより目の前に集中しろ」
煙の中、鋭い閃光が煌めいた。
「させないッ!」
彼の斬撃を再びレティシアが受け止める。
「......すまない遅くなった。まさか、他の処理に追われてここまで遅れるとは」
「白々しい。このタイミングまで姿を隠していたのは"教皇"との計画の内でしょうに」
「はっ、胡散臭さも度が過ぎると笑えない冗談になるな」
"命の鍵"。その圧倒的な生命力が、所有者の身体を修復する。
「グレンジャー?」
「あぁ、レティシア。お前たちは先に行け。ここは暫くの間、俺が受け持つ。急がないと......」
背後で轟音がする。何かを察したのか、不快感を隠さず舌打ちをするグレンジャー。
「......間に合わないか」
「強者......強者はまだ健在かァァァァァッ! 手合わせを願いたいッ!」
嫌な声がした。巨大な影が場を包んだかと思うと、男が地面を鳴らしながら着地する。
"巨人"スペシオサス。今、バケモノたちの中で、最も鉢合わせたくない存在。彼がここにいると言うことは......
「......彼は」
レティシアはそれ以上続けなかった。足止めを買って出たレゾンたちは既に脱落しているのだろう。
時間にして、十数分。たった2人で良く持った方だと言うべきだ。むしろあの2人でさえ長く持たなかった。それだけ"巨人"という存在が如何に危険であるかがわかる。
確信した、今の自分たちでは絶対に勝てない。それが頭を過ぎった瞬間、足が震えた。
「......時間がありません。このままでは貴方は何もかも失います。さぁ、私の手を取りなさい。そうすれば皆、助かる」
満を辞してエスペルトがゼデクを惑わす。彼が言うことは酷く魅力的だった。彼の言うことは何だって信じたかった。
でも、ゼデクにはわかる。何となくだが、今の彼は間違っている気がする。彼は確実にゼデクを殺そうとした。
だが、それ以上に状況が逼迫していた。心が折れかけていた。今は彼の力が必要なのだ。ひょっとしたら自分では計り知れない事情がエスペルトの中にあるのかもしれない。
そんな甘い考えが頭の中を過ぎる。少しでも目の前の恐怖から逃れたかった。何かに縋りたかった。
「......教えてくれ。アンタの身に何があった? 本当にそれは正しいことなのか? 俺は極力、アンタを信用したい! みんなが納得する理由をここで教えてくれ!」
「みんなが、ですか。貴方はそうやって欲張る。想い人も、仲間も、私も、そこにいる偽りの彼女すらも、全部全部捨て切れない。何一つ手放すことができない。そしていつか、優柔不断な貴方は全てを失う」
エスペルトはただ手を伸ばす。
「先ずは一切を捨て、私を選びなさい。信じなさい。そうすれば、貴方の望む物は全て手に入る」
ただ自分を選ぶようにと、同じ言葉を繰り返す。思わず手を取りたくなった。もう自分ではどうしようもない気がしてきた。
だってエスペルトだ。エスペルト・トラップウィットだ。
彼が嘘を付くはずがない。自分を利用するだけ利用して捨てるなんて真似するはずがない。
自然にエスペルトへと伸ばそうとした腕。それをレティシアが掴んだ。
「私は助からなくても良い。どうなっても良い。でも......あの人の言うことだけは呑んじゃダメ」
彼女は真反対のことを言う。この絶望に浸されて尚、最愛の人間が、待ったをかけるのだ。
「どうすれば――」
「行くぞ強者ォォォォォォォォォ!」
「来るぞッ! 極力俺が何とかするが全ては捌き切れんッ! 今は自衛に集中しろッ!」
ゼデクは何とか意識を保った。今、呆然としていてはそれこそ全てを諦めなければいけない。まずは生存を優先するべきだ。
だが――
「......なっ!」
皆して膝を突いていた。急に身体が重くなったのだ。地面にヒビが入る。まるでここだけ重力が何倍にも高められたように。
「逃げること能わずッ! 観念しろ、これは試練だッ! 強者よ、見事その牙を俺に突き立ててみろッ!」
ゼデクたちを見下ろす"巨人"は、隕石の如き拳を握りしめた。




