魔王を倒したその後で。
「やめろおおお!!」
薄暗く狭い洞窟に、少年の叫び声が響き渡った。真っ黒な髪の毛から、二本の捻れた角が生えた少年。彼は今鍾乳石の先端から滴る水たまりにひれ伏し、その二本の角ごと頭をブーツで踏み付けられていた。彼の全身に刻み付けられた切り傷からは大量の血が流れ出し、本来透明なはずの鍾乳洞の水をどす黒く濁している。
真っ赤に染まった両目と、尻尾についた魔眼で、少年は自分の頭を踏みつけている人物を睨みつけた。その人物は鮮やかなブロンズを靡かせ、エメラルドの装飾が施された大剣を振りかざしながら、勝ち誇ったように叫んだ。
「観念しろ! 魔王!」
「ぐ……!!」
「魔王さま!!」
今まさに決着をつけんとするその二人の後ろで、少年と同じように二本の角を生やした少女が悲痛な声をあげた。長年仕えた魔王に駆け寄ろうとする黒髪の少女を、周りにいた少年少女が必死に止めた。
「待つんだ、エルザ!」
「もう大丈夫よ、貴女は魔王に操られていただけ。もうあんな思いをしなくてもいいの……」
黒い布のオーブや、頑丈そうな鎧に身を包んだ魔法使いや戦士達の制止に、エルザと呼ばれた少女は必死に抵抗した。
「あんな思いって!? 貴方達こそ、いきなりこっちの世界にやって来て私達の何を知ってるの!? 私達、洞窟の中で魔物達と仲良く暮らしてただけなのに……!」
「その魔物が問題なんだ」
エルザは戦士の片腕に抱きかかえながら、なおも抵抗を続けた。その片隅に立っていた、右手に分厚い本を抱えた青年が、片眼鏡を光らせながら落ち着きを払った低い声で諭した。
「魔物は人間を襲うだろう。魔物は知能も低い。君たちが野放しにした魔物のせいで、近隣の村に多大な被害が出ている。黙って見過ごすことはできないな……」
「そんなこと言ってヨハン、賞金に目が眩んだだけでしょう?」
ヨハンと呼ばれた青年の後ろで、鎖帷子に身を包んだ少女が揶揄うように笑った。
「な……何を馬鹿なことを言ってるんだ、ミナミ! 私は教会職として、神の名の下にだな! 貴女と違って、そんな邪な気持ちは欠けらも……!」
「はいはい。そこまで。子供が聞いてるわよ」
黒いローブの女性が呆れたようにヨハンとミナミを窘め、やがて真剣な表情でエルザの顔を覗き込んだ。
「エルザ。貴女は言葉もしゃべれるし、私達人間に近い。魔物のルールだけに縛られて、こんな窮屈な洞窟の中に引きこもって生きていく必要はないの。一緒に外に出ましょう。私達、きっと友達になれるわ」
「と、ともだち……?」
至近距離に近づかれた女性の笑顔が、エルザには何だか不気味に映った。その表情の向こうに、剣を構える勝者と、ひれ伏す敗者の姿。そして、先ほどの戦闘で元の大きさの倍以上に抉られた洞窟の壁が見えた。
戦いは一瞬だった。一瞬だったが、それは凄まじい破壊力だった。結論から言うと、魔王は突然やって来た『主人公』を名乗る謎の男にあっという間に破壊の限りを尽くされた。彼と一緒に来た『チート能力』と呼んでいたが……エメラルドの剣士は、エルザには馴染みのない、見たことも聞いたこともない不思議な魔法を使った。魔物達の中では一番の剣術使いで、敵うもののいなかった二本角の魔王・エルムは成す術もなく全身を切り刻まれ続けた。
エルザはやがて、小刻みに震えだした。魔王さまと一緒に、年月を数えるのに使っていたつらら型の砂時計……。魔物達と月明かりに照らされながら、遅くまで語り合った寝床や小窓……。大好きな人参スープのお鍋に、集めた人骨で作ったテーブルや椅子の数々……。
その全てが、突然やって来た謎の正義の集団に一瞬で蹂躙されてしまった。
「エルザちゃん? 大丈夫?」
「う……!」
黒いオーブの女性が、紫の瞳を妖しげに光らせた。エルザはもう一度ひれ伏す魔王をちらと見て、震える声を絞り出した。
「お願い……! 魔王さまだけは、助けてあげて……!」
「……! 逃げろ、エルザ……!」
彼女の声が届いたのか、魔王が唸り声をあげた。傷だらけになりながらも、芋虫のように蠢き抵抗を続ける魔王のその背中に、青年は躊躇なく剣を突き刺した。
「ぐああああっ!!!」
黒い血しぶきが、雌雄を決した二人に噴水の如く降り注いだ。
「思い知ったか、魔王め! 転生して、チート能力を手にいれた僕に勝てると思ったら大間違いだぞ!!」
「……!? ……! ……さっきから何を言ってるんだ、貴様……!?」
「アハハハハ! 気持ちいい! 最高の気分だ! 長い間虐げられて来た、あっちの世界の鬱憤が一瞬で晴れたよ!」
息も絶え絶えになった魔王の上で、青年が勝ち誇ったように笑った。彼の仲間達も笑った。エルザには、何故彼らが笑っているのか分からなかった。洞窟に反響する笑い声の中で、エルザと魔王の顔だけが青白く染まった。
「ま……そう言うことだから。今回はあの子に免じて命だけは許してやるよ」
「魔王さま……!」
「エルザ、逃げ……!」
口を開きかけた魔王に、青年が再び剣を突き刺した。
「……!!」
「しつこいな。勇者さまが助けてあげるって言ってるんだから、感謝くらいしろよ。殺すぞ?」
凍てつくような青年の無表情が、薄れゆく魔王の意識にこびりついた。彼の仲間達が、満足げな笑顔で二人に近づいた。
「心配しなくても、エルザちゃんは私達がちゃあんと世話してあげる。きっとエルザちゃんも、そのうち私達に感謝するようになるわ。『勇者さま! 魔王なんかに誑かされていた、私の洗脳を解いてくださってありがとうございます!』ってね。エルザちゃんは、可哀想にまだ外の本当の世界を知らないだけ……」
「貴方達だって……貴方達の知らない世界だって、この洞窟にはあったのよ……!?」
エルザが戦士の腕の中で必死に踠いている。魔王は、だんだんと白くぼやけていく視界の中で、その姿から目を離せずにいた。
「ま、どっちみち主役の能力でハーレムの仲間入りなんだがな。抵抗するだけ無駄なんだよ」
「行こう。ここのミッションはクリアした。早く宿に帰って報酬を受け取らなくっちゃ……」
「次どうする? 予定より早く魔王倒しちゃったけど、もうこの世界やることなくね?」
「後から考えましょうよ。そんなことより、私、早くお風呂に入りたいわ。……覗かないでね、ヨハン」
「誰が……!」
青年がようやく魔王から足を退けた。楽しげな声が、置き去りにされた魔王から遠ざかっていく。やがて静寂が訪れた。最早原型を留めていない洞窟の中で、魔王はだが、まだ生きていた。肺からヒューヒューと漏れる呼吸音と、やけに耳障りな心臓の鼓動が彼の鼓膜の奥にこびり付いて離れなかった。
負けた……。
その言葉が、禁じられた時の流れの中で、長年洞窟に君臨して来た彼の頭をぐるぐると回り続けた。
負けた……。
突然現れた旅人ごときに、仲間すら守れず敗北を喫した。
勇者……? 転生……? 主人公……?
良くわからない……。全くわからないことだらけだ……。
強かった。それだけは確かだ。奴らには、奴には傷一つつける暇も与えてもらえなかった。
良くわからないが、とにかく命だけは助けられた……。
…………。
……助けられた?
……助かった? これが?
仲間を殺され、根城を壊され、エルザを奪われ……。
この状況の、一体何処が助かっているんだ?
彼は歯を食いしばった。全身から流れ出した血液の量は凄まじく、最早自力で立つことさえ困難だった。
(この屈辱……!)
喉元で固まりつつある血を吐き出し、彼は必死に全身を引きずり洞窟の出口を目指した。
彼の目が、静かに、深く赤く染まっていった。そして彼は、地の底よりも暗い魔物の住んでいた洞窟の中で誓った。
この屈辱が。
誇りを踏みにじられる痛みが。仲間を奪われる苦しみが。
居場所を失う悲しみが。立ち上がれない悔しさが。
奴らには到底理解し得ない、無縁のものだと言うのなら。
或いは分かっていながら、行われたのだと言うのなら。
たとえどんなに奴らが強かろうと、どんなに奴らが正しかろうと。
何と汚名を着せられようと、何度敗北を味あわされようと。
必ずやエルザを取り戻し……この世界にやって来た主人公とやらを、殺してやる!!……と。
この作品はoga様(https://mypage.syosetu.com/738283/)の「一日でファンタジーを書こう」の企画に参加した物語です。oga様、素敵な企画をありがとうございました。