40 妖精は嘘をつかない
嗜虐的な笑みを浮かべたマールムが胸部に手をやった。
「嫌、やめて! ジャック、助けて!」
「っはは、お前も馬鹿だなあ。誰も助けになんてこねーよ」
笑みを一層深め、ドレスが乱暴に脱がされようとした――その時、馬車の外で鈍い音がした。
険しい顔でマールムが振り返った。
「あ? なんだ」
その隙に彼から1mmでも離れようと、わたしは体を反らす。馬車は狭いし、手足は縛られているし、できることはこれくらいしかない。
マールムは警戒をにじませ、馬車の扉の向こうに耳を澄ませている。
外にはトビアスがいたはずだ。
はっと一抹の期待が芽生えた。
まさか、誰かが助けに来てくれたの?
でもこんな時間に、一体誰が?
「助けて! 誰か!!」
懸命に声を張り上げたわたしの口を、マールムが手でふさいだ。しかし馬車の外ではそれきり音もしない。
じっと気配をうかがっていたマールムが、ついに耐えきれなくなって外へ出た。
「おい、トビアス!」
勢いよく扉を開けた瞬間、彼は腹をくの字に折った。
「てめぇっ……」
うめいたマールムに、彼を攻撃した何ものかの声がわたしの耳にも届いた。
「うちのリオーナが乱暴な扱いを受けているようだったのね」
雷に打たれたかのような衝撃に、わたしは芯から震えを感じた。頭の中が彼のことでいっぱいになる。
その声は。
「ジャック!」
わたしは嬉しさのあまり、涙が出そうだった。
「っ……つけてやがったのか!」
身動きが取れないので、彼らが何をしているのかは分からなかった。ただ、また鈍い音がして、どちらかがどさりと倒れたようだった。
「ジャック? 大丈夫なの?」
どっちが負けたの?
ここでジャックがやられたら終わりだ。どうか勝ったのはジャックであって。
そのわたしの願いは叶えられたようだった。
リオーナ、という優しい彼の声が聞こえ、手足の縄がほどかれた。
目の前には、別れたばかりの彼の姿。
「ジャック……!」
月光を浴びた彼は、必死な顔をしていた。荒い呼吸。はらりとひと房、前髪が落ちている。
そんな姿がどうしようもなく救世主を彷彿とさせ、たまらずわたしは彼に抱き付いた。
「わたし、ジャックと結婚するわ!」
気がつけば、泣きながら思いの丈を叫んでいた。
やっぱりジャックのもとを離れるんじゃなかった。相手が妖精だからって油断していた。そうだ、人間にさせられた妖精なんて、普通の妖精であるはずがないのに。
最初からジャックを選んでいればよかった。色々あった。ジャックにひどいことをした。なのに助けに来てくれた。どうして。
でもそんな疑問より、気持ちが先行した。溢れんばかりの嬉しさ。
恐怖から解放された安心とジャックへの思い、自分を責める気持ちから、わんわん泣いていると、彼がわたしの背中に手を回してぎゅっと抱きしめてくれた。
その優しさがまた、わたしの心を締め付ける。
「ごめんなさい、ジャック。あの人たち、わたしの知り合いなんかじゃなかったの……!」
「それは分かっていたよ」
「えっ?」
予想もしていなかった答えに驚き、わたしは体を離してジャックの顔を見つめた。
「リオーナ、君は妖精なんだろう?」
「え?」
ジャックの言葉に、頭の中が真っ白になった。
どうしてそのことを。
もしかしてこれは夢かしら。彼の声が遠くに聞こえた。
「妖精の君に、人間に知り合いなどいるはずがないからね」
確かにわたしはヘマばかりやっていたけど、ぎりぎり「変な人間」でいたつもりだった。そもそも常識的に考えて、妖精が人間に紛れて暮らしているなんて誰も考えつかないだろう。それなのにジャックはわたしが妖精だと断言してみせた。
どうしよう、ジャックに妖精だということがばれてしまった。今までたくさん、あの町の人たちに嫌な思いをさせてしまった。妖精に対するイメージを悪くしたのは、わたしの行き過ぎたいたずらのせいだ。
今度こそもう、ジャックのもとにはいられない。ううん、でも、もっと早くに正体を伝えておくべきだったのかもしれない。彼がそれを聞いてどうしようと、伝えるのがわたしのジャックに対する誠意だったんじゃないだろうか。
呆然としたわたしを、ジャックがもう一度抱き寄せた。彼の声が耳朶にかかる。甘い。
「ネイサンに聞いたんだ」
「ネイサン?」
あの褐色肌の執事?
わたしはいつもジャックの傍に気配を殺して立っている男を思い出す。
彼も妖精だったのだろうか。綺麗な顔立ちではあったけれど、マールムに会った時のような、「仲間」の感覚はなかった。
わたしの疑問を察し、ジャックが穏やかな声で説明してくれる。
「ある日妖精が見えるようになったそうだ。君が来て、しばらくしてから。それで私に教えてくれた」
「それって、じゃあ、一体いつから……?」
「君が初めてネイサンに会った時だよ」
そんな。それっていつ? 確か、お母さまと一緒に晩餐をとったときだったかしら。そんなすぐに?
だとすると、ジャックはわたしが妖精だということを知っていてわたしを養い続けたのだ。
「そんな……なら、どうして……」
「それは……」
絶句するわたしにジャックは言い淀み、矛先をわたしへと向けた。
「さっき、私と結婚すると言ったね?」
「えっ?」
わたしは慌てる。喜びのあまりそんなことを言ったような気もする。
「き、気のせいじゃないかしら」
目を泳がせて、今度はわたしが話を逸らす番だった。
口をついて出た言葉。そんなことを言うなんて、自分でも信じられなかった。それに、助けに来てもらってありがとう、結婚してくださいなんて、虫がよすぎる話だ。
いまさらだけど、自分勝手な女だと思われたくなかった。聞かなかったことにしてほしい。
結婚なんてできる間柄じゃないのに。ジャックはただの保護者だから。
自分に言い聞かせると、なぜだか胸が苦しくなった。
「でもジャック、どうしてここにいるの?」
まさか助けが来るなんて思っていなかった。
わたしの疑問に、こともなげに彼は答える。
「あの馬車をつけてきたのさ」
「どうして……」
なんのために?
さっきから、わからないことだらけだった。
「君の身に何かあったら、と思うと、そうせずにはいられなかったんだ」
そう言ってたジャックが、抱きしめる腕に力を込める。
「もし何も起こらなかったら、君をそのまま手放そうと思った。それが本物の家族でなくとも、君が選んだ家だ。離れていても、元気でいてくれれば、と自分に言い聞かせた。
でも幸か不幸か、こんなことになってしまった。辛い思いをしただろうね……でも、私はリオーナ、君を――」
わたしの耳元に顔をうずめ、言葉をつむぐ。
ジャックの声が空気を震わせた。
「手放したくない。一緒にいてくれないか」
言葉を理解するより先に、脳天から足のつま先まで、びりりと痺れが走った。胸いっぱいに幸福感が溢れてこぼれそうになるのを、驚きと「まさか、そんなわけない」という自制の気持ちがおさえつけた。
「さっき結婚すると言ったね? その言葉は本当か? 本心でなくとも、せめて君の面倒を見させてほしい。身寄りがないのは確かなんだろう? もし、あの言葉が本当なら……」
ジャックが言い終わる前に、わたしは彼の胸を押しのけて腕の中から逃れた。
「リオーナ……」
悲しみをたたえた目で、ジャックがわたしを見つめた。
でも、よく見て、わたしの目を。
「本当よ」
ジャックのこと、許せないと思った。彼もこんなわたしの相手をするのがもう嫌になったんだと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
それがわかったわたしは、薄々気づいていた自分の気持ちを解放した。
「あの言葉は本当よ」
ずっと好きだった。早とちりをするところ。民を率いる立場にあるのに少し抜けたところ。でもちゃんと責任感のあるところ。妖精みたいな顔、宝石みたいな目、今宵は後ろに撫でつけられている柔らかな黒髪。
ううん、そんなんじゃない。
ただ、彼がわたしの名を呼ぶのが好きだった。
彼に呼ばれるだけで、わたしの名前が特別な何かになったように感じられた。彼の呼ぶ声が、人間になったわたしを支えてくれた。
彼に見放されるのが怖かった。「記憶喪失」という名目で彼の庇護下に置かれ、じゃあ記憶が戻ったらどうするのって不安だった。
「リオーナ」
「好きよ、ジャック」
解放した彼への思慕をたたえたわたしの目を見て、彼がはっと息を呑んだ。
それから目元にしわを寄せて微笑み、まぶたを閉じ、彼が顔を近づけてくるのがとてもゆっくりに見えた。
彼の柔らかい唇がわたしの唇に触れて、離れた。
ジャックのエメラルドグリーンの瞳が、愛というきらめきをはらんでわたしを見つめていた。
「結婚しよう、リオーナ」
「うん」
幸せの欠片が、目尻からこぼれ落ちた。




