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39 戦慄


 馬車が走り出すと、思った通りの乗り心地だった。体に響いて辛いはずの揺れが、むしろ心地よい。


 パイゼン家というのはどこにあるのだろう。どのくらい乗っていればいいのか。ジャックのようにパリにも邸宅を持っているのなら、そう長くはかからないはずだけど。

 ほとんど勢いだけでついてきてしまったが、わたしは彼らのことを何も知らない。かといって馬車は奇妙な静寂に包まれており、口を開ける雰囲気ではなかった。


 どれくらい経ったのだろう。けれどさほど時間が経ったようには思えない時、突然馬車が止まった。

「着いたのね?」

 わたしの声は安堵と歓喜で弾んでいた。

 いくら乗り心地が良いとはいえ、誰も話さないままなので苦しくなってきたところだったのだ。

 到着した喜びと、口を開く糸口を見つけたことで、気分が浮き立つ。ついでに馬車を降りようと腰も浮いた。


 しかしマールムもトビアスも降りる様子を見せない。その上、無言を貫いていた。

「何か言ってよ」

 社交界の時と様子が違って、わたしは不安になる。

 さっきはあんなに喋っていたのに、どうして今は何も言わないの?


 するとマールムが手で顔を覆い、くくっと笑った。

「まさかこんなに上手くいくとはな……」

 打って変わった低い声に違和感を覚える。


「何の話?」

 なにか変だ、とわたしは身構え、それを見たマールムがさっと手をふところに忍ばせた。

 そこから取り出したのは――

「家族ごっこはもう終わりだ。大人しくしろよ?」

「っ!」

 彼が向けた短剣を見て、体から力が抜けた。


「剣……どうして……!」

「やっぱり刃物は怖いよな?」

 もう一度腰を落ち着けたわたしに、マールムが満足そうに笑った。微笑みなどという優しいものではない。もっと凶悪ななにかだ。

 マールムが短剣をもてあそぶ。粗末な剣だ。彼の服装に似つかわしくない、なんの装飾もない、最低限の刃物としての役割しか持たない剣。


「なんの冗談? それをしまって」

 でも、わたしには十分すぎる威力を持っていた。

 ずり、とお尻を動かして後ずさると、隣に座っていたトビアスにぶつかった。

 いきなり武器を取り出した上に、豹変したマールムを見ても、平気な顔をしている。


「トビアス、これはどういうこと?」

「どうと言われてもな……」

 詰問したわたしは、彼の右手に握られた短剣を視界にとらえたとたん、勢いを失った。

 短剣。それも二本。ただただ恐怖に目を大きく見開き、わたしは動けない。

 わたしの今にも気絶しそうな様子を見たマールムが笑った。

「脅しがいがあるってもんだ」

 歯の根が合わなくなり、がちがちと音が鳴った。


 わたしの怯えをマールムが説明してくれる。


「妖精界には刃物なんてないからな。ましてや向けられたことなんてねぇよな。まあ、人間でも刃物を向けられたらどいつだって怯えるけどさ」

 にや、とマールムが唇を歪める。

 そこでやっと、自分が窮地に立たされていることを理解した。


「わたしを……養子にするんじゃなかったの?」

「はっ、まさか」

 答えたのはトビアスだった。


「お前みたいな女は売って金にするに決まっているだろう」

「う……嘘」

「嘘じゃないさ」


 トビアスが剣先をわたしの頬に当てた。蒸し暑い馬車の中で得られる、唯一のひやりとした感触だった。


「ひぃっ」

「おいトビアス、傷つけるなよ。価値が下がる」

「分かっているさ」


 その言葉から、わたしに手を出す気がないのは分かった。でも剣を向けられた状態で安心することなんてできない。

 なんとか勇気を振り絞って、騙したのね、とマールムをにらんだ。でもたぶん、わたしが思っているよりその目つきはなまくらだ。


「マールム、人間だったのね」

「ん? 俺はれっきとした元妖精だぞ。どうして俺が人間にさせられたか教えてやろうか? 人間界で言う「犯罪」に手を染めたからだよ」


 そう言ってマールムは誇らしげに笑った。一体何をやったのか想像もつかなかったが、ぞっと鳥肌がたった。マールムが具体的に何をしたか語る前にトビアスが口をはさむ。

「おしゃべりは後でいいだろう。乗り換えるぞ」


 短剣を突き付けられたまま、馬車を降りるように言われる。

 乗り換えて……どこに連れていかれるの?


「わたしがいなくなったら、ジャックが黙ってないわよ」

 口をついて出たのは、はったりだった。でも、養子に行ったわたしの行方がわからなくなって探しに来てくれればいいなと思ったのは真実だ。


 マールムが鼻で笑い、あしらった。

「おいおいお嬢ちゃん、お前には身寄りなんてないんだろ? ないから俺らについてきたんだろ? そんな奴の行方を気にするやつがいるっていうのか?」

 残念ながら、彼は理性的なようだった。彼の言う通り。

 わたしはぐっと奥歯を噛みしめ、さっきとは一変しておんぼろの馬車に乗り込んだ。


「そんでな、パイゼン家は実在するが、不幸なことにうんと田舎にある家なんだよな。お前のためにそんなところまで来るやつはいねーよ。もし来たとしても、その時にゃ手遅れだろうな。まっ、せいぜい身の上を嘆くことだ。今日のお前の宿はここさ」

 マールムが親切にわたしの危機的状況を教えてくれた。

 手足を縛られ、わたしは芋虫のような状態で床に転がされた。


 くたびれた馬車には似つかわしくない、宝石が縫い付けられたドレスが、馬車内をいっぱいに満たしていた。

「おっと、ドレスが邪魔だったな」

 そう言って、マールムがわたしのドレスに手をかける。

「脱がすだけにしておけ」

「わかってるさ、そんなこと」

 慰めにもなんにもならない会話がなされた。

「やめっ……!」



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