35 パリへ
ジャックは例の事件による新しい仕事に追われ、パリ行きはさらに三日後に伸びた。
今度こそ最後の三日だ。
結局、お祭りの夜の事件は何も進展がなかった。被害者である女性は記憶喪失で、加害者と思われる男性はすでに死んでいた。しかも他殺ではなく、獣に殺されたらしいときた。目撃者もおらず、わたしたちにできることはなにもなかった。
いや、一つだけある。心に深く傷を負った女性をこれからどうするか、ということだった。
彼女はこの先、この町を出るらしい。
町には事件の記憶が残っているからだ。
町にいることで何か思い出すかもしれない。普通なら喜ぶべきことだが、彼女の場合、失った記憶を取り戻してもいいことはない。
むごい経験をした彼女に新しい良い人生を送ってもらいたいというジャックと彼女の両親の願いが一致した。幸いというか、彼女は美しかったので、貴族の養子に出されるらしかった。ジャックの采配だ。
貴族の養子か。わたしと同じだなと思った。
町へ出ると、わたしがパリに行く話が出回っているようで、もう会えないのかと色々な人に尋ねられた。どの人もさして交流はなかったはずなのに、みんな残念そうな顔をしていた。知らないうちに、ジャックの客人として顔が売れていたようだった。
パリ行きの前日、ジャックが画家を呼んだ。わたしの肖像画を描くらしい。
一日で描ききることができるのかしら。
等身大以上もあるキャンバスに向かう画家の前に、わたしは立っていた。
「ずっと同じポーズでいなくちゃいけないの?」
立っていることに疲れたわたしは、様子を見に来たジャックに尋ねた。
「疲れたのかい? そのままでいた方がいいけれど……」
彼が画家を見やると、画家が言葉を引き継いだ。
「楽にしてくださって構いませんよ」
最初から聞いておけばよかったわ。
「コレット!」
椅子を持ってきて欲しくてコレットを呼んだが、ジャックがそれを制した。
「椅子でいいかい?」
そう言って椅子を持ってきてくれた。
どうしてこんなに前と同じ態度で、いや、前以上に優しくしてくれるのかしら。
「どうして絵なんて描くの?」
「それは……」
わたしの疑問に彼の目が泳いだ。
なにかしら、と気になったが、返事はあらかじめ用意してあったかのようによどみなかった。
「もうすぐ君はここを出ることになるだろう? つかの間、この屋敷に滞在した美しい姫君を、せめて絵に残しておこうと思ってね」
家宝にしようか、とジャックがおどける。
「もう、ジャックったら」
彼をたしなめながらも、わたしは頬が赤らむのを止めることはできなかった。
ジャックとの溝はなくなったわけじゃない。お互いに距離感を探っているような状態だった。でもこれでもうお別れかと思うと、今までのことには目をつぶってもいいか、くらいの気持ちにはなっていた。
わたしはこんな関係になってしまったことを後悔していた。こんなふうにぎくしゃくしたかったわけじゃない。
彼の謝罪を突っぱねたわたしが今更何を、と彼は呆れているだろう。それでもまだわたしは妖精としてのプライドを傷つけられたことを根に持っていた。今更謝れないという気持ちもあり、結局つかず離れずといった距離感でいる。
でも、そうか。
ジャックにとってわたしは、もうすぐいなくなる存在。
だけど、パリへ行っても、わたしの知り合いなんているわけがない。
身元が不明なのが判明した時、ジャックはわたしをどうするんだろう?
前に、最悪の場合この屋敷に置いてくれる、と約束してくれたけど、最近のこの雰囲気からして、反故になったと考えていいはずだ。
優しい彼のこと、約束を守ってわたしを引き取ってくれるかもしれない。
でもそれは申し訳なさすぎるし、そもそも今はジャックと同じ空気を吸うのさえ気まずい。彼も同じように感じているはずだ。もう彼と一緒に住むのは無理だ。
となると、わたしはパリで新しい家族を見つけなければいけない。もしかしたらそれは義理の親や保護者ではなく、夫なのかもしれない。
出発当日。
馬主は執事のネイサンが務め、馬車の中はわたし、コレット、ジャックの三人が乗っていた。
わたしが森から追放されて、ジャックに助けてもらった時のことを思い出す。あの時にはじめて馬車に乗ったんだった。今回の馬車はクッションがたくさん敷き詰められていて、お尻が痛くなることはなかった。
旅路は順調だった。
ただ、ジャックとの会話は少なかった。
もっぱらコレットとの会話にいそしみ、たまに、ジャックが馬主を交代してネイサンが馬車の中に座ったり、主従二人して馬車の外にいることもあった。
旅路は順調だった。
川を越え、南へ進む。
パリ。
神々の愛した、芸術の都へ。




