20 小麦の香り
焼きたてのパンの匂い。
わたしは鼻から息をうんと吸った。
「いい匂いね」
ジャックがわたしの真似をする。
「そうだね」
わたしたちが足を止めたのは、一軒のパン屋の前だった。
「入ってみましょうよ」
「お姫様の仰せの通りに」
おどけてジャックが扉を開けると、チリンとベルが鳴った。
店に入った途端、焼きたてのパンの匂いに包まれる。
「いらっしゃいませ」
熟れた小麦色の髪の女が出迎えた。わたしと同じくらいの年に見える。
店番の娘らしいが、入ってきたわたしたちをちらと見ると、すぐにそばにいた男と話し始めた。
わたしはその男をじっと見つめた。
ジャックと同じような黒い髪の男だ。でも、ジャックの黒髪が深い闇のような色で、重みがあるのに対し、この男の髪は、水に溶いた墨のような透き通った感じのする黒髪だった。ジャックは整っているが柔和な顔立ちだし、この男は野性味を感じさせる顔だった。狼を連想させる。
なぜだろう、その男のことが気になった。全く知らない人なのに。
なんだか、妖精みたいな感じがするのだ。顔立ちは全然整っていないし、雰囲気もどこかとっつきにくく、とても妖精とは思えない。なのに、にじみ出るオーラみたいなものが、妖精を感じさせる。妖精の羽ばたき、森の澄んだ空気。
けれどその不思議な男はパン屋の女と話すのに夢中で、こちらを見向きもしなかった。
店内は狭く、色が違うだけのパンがいくつも並んでいた。たぶん味も違うのだろうが、わたしには色以外に何が違うのか分からない。
ふとパン屋の女が話を中断して、店の奥から新しいパンを持ってきた。店先で嗅いだ匂いは、これだったのだ。
わたしたちはまだあたたかいパンを買って、店を出た。
それから、服屋にも連れて行ってもらった。
そこで驚いたのは、わたしがここ数日着せられていたような、細かい刺繍とフリルとレースでできたような素晴らしいドレスは、この町の基準ではないということだ。
よくて、わたしが今日来ている、地味なドレス。
それ以外は、葉っぱを取り損ねた妖精が落ち葉で作ったような、土色の服ばかりだった。
わたしは首をかしげながらジャックに尋ねた。
「あれが普通なの?」
「ああ。君に来てもらっているのは、どれも社交界に着て行けるようなドレスばかりだよ」
てっきりあれが普通だと思っていたら、そうじゃなかったみたい。
裕福なのは、ジャックくらいなんだわ。やっぱり王様ってだけある。
わたしは店内の粗末なドレスを見ながら、したり顔でうなずいた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
太陽が沈むまであと数時間、というところでジャックが声をかけた。
「え? もう?」
日が沈むまで、まだしばらく時間がある。まだ明るいし、今日はこんなに暖かいのに。
「もう一通り見ただろう?」
「全然よ!」
わたしは頬を膨らませた。
いろいろな店を見て回るのも楽しかったけど、足の裏に土の道を感じるのが楽しかった。最初は歩くこともままならなかったのに、それを楽しめるようになるなんて、わたしもずいぶん成長したものだ。
それに、他の人間の住む家。
外からしか見ていないけど、ジャックの家の十分の一かと思うほどに小さいのだ。もちろん、馬なんていない。改めて、ジャックがお金持ちでこの町の王様だということがわかった。
「あのあたりは、まだ見ていないわ!」
わたしはひときわ住宅がひしめき合っている、細くて暗い道を指さした。
途端、ジャックが険しい顔になった。
「あそこは……」
「ね、いいでしょ?」
今まで馬鹿にしていた人間だったけど、こうして人間の町を歩いていると、とても楽しい。全然違う生物だと思っていたけど、ご飯も、服も、家の作り方も、類似点が多いのだ。わたしは、人間たちにいたずらではなく、手助けをする妖精の気持ちが少しわかった気がした。
ジャックが探検する気満々のわたしをたしなめる。
「あそこは危ないところなんだよ」
「危ないところ?」
「ああ、そうさ。町の人はいい人ばかりだけどね、世の中には悪い人もいるんだよ。そういう輩は、ああいう暗い場所を好むのさ」
ジャックが「ああいう暗い場所」と言って、私の指さしたところに目をやった。家々が林立しているため影にはなっているが、まだ日は高い。
「でも、まだ明るいし、全然暗くないわよ?」
わたしは興味津々でその通りを見た。
悪い人って、どんな人なのかしら?
妖精の中に悪い人はいない。悪いことをするといえば、たいてい森の動物たちだった。わたしたちの畑を荒らすのだ。
人間が言う「悪い人」の想像が全くつかない。
「ね、ダメ?」
もう一度ジャックを見つめると、ついに彼は観念したようにため息をついた。
「綺麗な場所じゃないよ」
それを聞いてちょっと後悔したけど、行くと言ったのはわたしだった。
「ええ」
ジャックに手を引かれて、恐る恐る路地に入っていく。
それまでは太陽に照らされていたのに、一歩踏み入れるだけで陰になる。家々が折り重なるようにして建っていて、太陽の光をさえぎっているのだ。
影に入って、一気に気温も下がる。わたしは身震いして、「怖いところね」とジャックの手をぎゅっと握った。
「言っただろう。引き返すかい?」
ジャックが子供をあやすみたいに言ってきかせる。
わたしは子供じゃないわ。
むきになって、進むと言ってしまった。
でも、それもすぐに後悔に変わる。
「一体どこまで続いているの……?」
「さあ……私もここに足を踏み入れるのは数年ぶりだからね、覚えていないな。もしかしたら、道が変わってるかも」
「そんな!」
自分の町なのに把握してないの!?
狭い道に、野良だと思われる痩せっぽちの犬がうろついていた。わたしにむかって、ぐるるるとうなる。
「きゃっ……」
動物相手なのに、なにを言っているのかわからない。
怯えたわたしは小さく悲鳴をあげてしまった。
「ジャッ――」
ジャックにしがみつこうとした瞬間、わたしはぐいと後ろに引っ張られた。
何? 誰!?
ジャックが驚いた顔でわたしを、違う、わたしの後ろを見ていた。




