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フェアリー・キス ~人間になった妖精(わたし)は人間社会になじめますか?~  作者: 白亜 愛
2. Les Jours avec Jack à Barcelonnette 〜ジャックとの日々〜
20/42

20 小麦の香り

 焼きたてのパンの匂い。

 わたしは鼻から息をうんと吸った。

「いい匂いね」

 ジャックがわたしの真似をする。

「そうだね」


 わたしたちが足を止めたのは、一軒のパン屋の前だった。

「入ってみましょうよ」

「お姫様の仰せの通りに」

 おどけてジャックが扉を開けると、チリンとベルが鳴った。


 店に入った途端、焼きたてのパンの匂いに包まれる。

「いらっしゃいませ」

 熟れた小麦色の髪の女が出迎えた。わたしと同じくらいの年に見える。

 店番の娘らしいが、入ってきたわたしたちをちらと見ると、すぐにそばにいた男と話し始めた。


 わたしはその男をじっと見つめた。

 ジャックと同じような黒い髪の男だ。でも、ジャックの黒髪が深い闇のような色で、重みがあるのに対し、この男の髪は、水に溶いた墨のような透き通った感じのする黒髪だった。ジャックは整っているが柔和な顔立ちだし、この男は野性味を感じさせる顔だった。狼を連想させる。

 なぜだろう、その男のことが気になった。全く知らない人なのに。

 なんだか、妖精みたいな感じがするのだ。顔立ちは全然整っていないし、雰囲気もどこかとっつきにくく、とても妖精とは思えない。なのに、にじみ出るオーラみたいなものが、妖精を感じさせる。妖精の羽ばたき、森の澄んだ空気。

 けれどその不思議な男はパン屋の女と話すのに夢中で、こちらを見向きもしなかった。


 店内は狭く、色が違うだけのパンがいくつも並んでいた。たぶん味も違うのだろうが、わたしには色以外に何が違うのか分からない。


 ふとパン屋の女が話を中断して、店の奥から新しいパンを持ってきた。店先で嗅いだ匂いは、これだったのだ。

 わたしたちはまだあたたかいパンを買って、店を出た。




 それから、服屋にも連れて行ってもらった。

 そこで驚いたのは、わたしがここ数日着せられていたような、細かい刺繍とフリルとレースでできたような素晴らしいドレスは、この町の基準ではないということだ。

 よくて、わたしが今日来ている、地味なドレス。

 それ以外は、葉っぱを取り損ねた妖精が落ち葉で作ったような、土色の服ばかりだった。


 わたしは首をかしげながらジャックに尋ねた。

「あれが普通なの?」

「ああ。君に来てもらっているのは、どれも社交界に着て行けるようなドレスばかりだよ」

 てっきりあれが普通だと思っていたら、そうじゃなかったみたい。

 裕福なのは、ジャックくらいなんだわ。やっぱり王様ってだけある。

 わたしは店内の粗末なドレスを見ながら、したり顔でうなずいた。



「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

 太陽が沈むまであと数時間、というところでジャックが声をかけた。

「え? もう?」

 日が沈むまで、まだしばらく時間がある。まだ明るいし、今日はこんなに暖かいのに。

「もう一通り見ただろう?」

「全然よ!」

 わたしは頬を膨らませた。


 いろいろな店を見て回るのも楽しかったけど、足の裏に土の道を感じるのが楽しかった。最初は歩くこともままならなかったのに、それを楽しめるようになるなんて、わたしもずいぶん成長したものだ。

 それに、他の人間の住む家。

 外からしか見ていないけど、ジャックの家の十分の一かと思うほどに小さいのだ。もちろん、馬なんていない。改めて、ジャックがお金持ちでこの町の王様だということがわかった。


「あのあたりは、まだ見ていないわ!」

 わたしはひときわ住宅がひしめき合っている、細くて暗い道を指さした。

 途端、ジャックが険しい顔になった。

「あそこは……」

「ね、いいでしょ?」


 今まで馬鹿にしていた人間だったけど、こうして人間の町を歩いていると、とても楽しい。全然違う生物だと思っていたけど、ご飯も、服も、家の作り方も、類似点が多いのだ。わたしは、人間たちにいたずらではなく、手助けをする妖精の気持ちが少しわかった気がした。


 ジャックが探検する気満々のわたしをたしなめる。

「あそこは危ないところなんだよ」

「危ないところ?」

「ああ、そうさ。町の人はいい人ばかりだけどね、世の中には悪い人もいるんだよ。そういう輩は、ああいう暗い場所を好むのさ」

 ジャックが「ああいう暗い場所」と言って、私の指さしたところに目をやった。家々が林立しているため影にはなっているが、まだ日は高い。


「でも、まだ明るいし、全然暗くないわよ?」

 わたしは興味津々でその通りを見た。

 悪い人って、どんな人なのかしら?

 妖精の中に悪い人はいない。悪いことをするといえば、たいてい森の動物たちだった。わたしたちの畑を荒らすのだ。

 人間が言う「悪い人」の想像が全くつかない。


「ね、ダメ?」

 もう一度ジャックを見つめると、ついに彼は観念したようにため息をついた。

「綺麗な場所じゃないよ」

 それを聞いてちょっと後悔したけど、行くと言ったのはわたしだった。

「ええ」


 ジャックに手を引かれて、恐る恐る路地に入っていく。

 それまでは太陽に照らされていたのに、一歩踏み入れるだけで陰になる。家々が折り重なるようにして建っていて、太陽の光をさえぎっているのだ。

 影に入って、一気に気温も下がる。わたしは身震いして、「怖いところね」とジャックの手をぎゅっと握った。


「言っただろう。引き返すかい?」

 ジャックが子供をあやすみたいに言ってきかせる。

 わたしは子供じゃないわ。

 むきになって、進むと言ってしまった。

 でも、それもすぐに後悔に変わる。

「一体どこまで続いているの……?」

「さあ……私もここに足を踏み入れるのは数年ぶりだからね、覚えていないな。もしかしたら、道が変わってるかも」

「そんな!」

 自分の町なのに把握してないの!?


 狭い道に、野良だと思われる痩せっぽちの犬がうろついていた。わたしにむかって、ぐるるるとうなる。

「きゃっ……」

 動物相手なのに、なにを言っているのかわからない。

 怯えたわたしは小さく悲鳴をあげてしまった。


「ジャッ――」

 ジャックにしがみつこうとした瞬間、わたしはぐいと後ろに引っ張られた。

 何? 誰!?

 ジャックが驚いた顔でわたしを、違う、わたしの後ろを見ていた。

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