16 初めての乗馬
その次は厩だった。
草と、馬の糞の匂い。生きている動物の香り。
懐かしい、自然の香りだった。
中には馬が三頭いた。そのうち二頭は、あの日わたしを救ってくれた馬車を引っ張っていた馬だった。お礼を言おうと思っていたのに、すっかり忘れていた。
わたしはジャックの「危ないから」という制止を振り切って、二頭に近づいて、顔を寄せた。
「この前はありがとうね」
『いえいえ。まさかこんなところで、妖精さんと会えるとは思いませんでしたね。人間はめったに感謝してくれないので、そう言ってもらえるだけで嬉しいです』
「謙虚なのね」
馬の言葉にくすりと笑うと、ジャックが不思議そうな顔で、
「君は馬とも会話できるか? それともそこに妖精がいるのか?」
馬との世界から一気に引き戻される。
やってしまった。
「いっ、いえ、なんとなーく馬が謙遜したように聞こえて……」
「リオーナって、不思議な子だなあ」
「え、えへへ」
笑ってごまかす。
せっかく馬と話せたのに、周りに人間がいるといちいち突っ込まれて、ろくに話すことができない。動物と心も通わせられないなんて、人間って不便な生き物なのね。馬とも話せないのに、よくもまあ手なずけられるものね。逆に感心してしまうくらいだ。
馬を見上げ、懐かしげで物ほしそうな顔をしていると、ジャックが声をかけてくれた。
「乗ってみるかい?」
「え、いいの?」
それを聞いてわたしはぱっと顔を輝かせたが、すぐに不安になる。
わたし、人間の姿で馬に乗ったことなんて、ない。
妖精だった頃は、馬に限らず、様々な動物に乗せてもらうように頼んで、振り払われないようにたてがみにしがみついて乗っていたのだ。
でも、人間の乗り方はそうじゃない。馬の上にまたがるのだ。
「ああ、だけど、ちゃんと乗れるかしら……」
「大丈夫、私にまかせなさい。おい、アドルフ。鞍をつけろ」
上目遣いで胸の内の不安を伝えると、彼はわたしを安心させるように力強く首肯してくれた。
アドルフと呼ばれて出てきたのは、あの日馬を従えていた、鼻のひんまがった馬主だった。
厩を出て、散歩しながら馬を待つ。屋敷の裏は、馬のためだろうと思われるちょっとした草原のような庭だった。その先は街道につながっていた。
「あの馬、名前はなんていうの?」
「ヴィッテスさ。気性が穏やかで、乗りやすい馬だよ」
「確かに、そんな感じがしたわ」
「リオーナ、馬は好きか?」
「もちろん」
鼻歌でも歌いたい気分で草原を歩く。ここもいい匂い。森からは遠いはずだけど、馬がいるおかげか、生きた自然の香りがした。
「なら馬の肉はどうだい?」
突然話が変わり、何のことかと眉をひそめた。
数秒遅れでジャックの言わんとしていることがわかって、わたしはさっと青ざめた。
「わたし、動物の肉なんて食べないわ」
一歩後ずさる。
やっぱり人間って野蛮だわ。馬の肉を食べるなんて……そんな発想どこから出てくるのよ。
「君が肉を食べたくないのは、私も承知しているよ。しかし、食べなくては君の健康に差しさわりがあるんだ」
さもわたしのためだと言うように雄弁を振るうジャックに、負けじと言い返す。
「今までそんなこと、なかったわ」
「肉の代わりになる食べ物もあると聞く。しかし、このあたりではその作物が取れないんだ」
わたしは押し黙った。肉の代わりだかなんだか知らないけれど、今まで森に生えている植物だけで生きてきた。今更肉を食べろと言われても嫌だし、食べなくても大丈夫だってことはわたしがこの身で体験済みだ。
「君には健康でいてもらわなくては困るんだよ」
それってわたしが、どこかのお金持ちの令嬢かもしれないから?
ジャックが言っていたことを思い出して、そう言い返したかった。
わたしが令嬢じゃなかったら、どうでもいいんでしょ?
そう思いながらも実際は黙り込んだまま、アドルフがヴィッテスを連れて来て話は終わった。
「リオーナは馬に乗ったことがあるのかな? これがきっかけで、何か思い出すかもしれないね」
「そうかもね」
記憶が戻るかどうか、そればっかり。
わたしって、もしかしてお荷物なんだろうか。
身元の知れない女なんて、さっさと誰かに送り届けておしまいにしたいのだろうか。
わたしは仏頂面で、ジャックの手を借りて彼の前に座った。
その瞬間にはっと視界が開け、心奪われる。
馬に乗るって、こんな感じなのね。
目線が高くなったのは久しぶりで気持ちが良かった。妖精はどこにでも飛んでいけたけど、人間は羽がないので視界に変化がなく、見る景色が変わらないのだ。
「高いけど、大丈夫かい?」
飛び慣れたわたしに対する的外れなジャックの心配に、わたしは声を上げて笑った。
「よろしくね、ヴィッテス」
『はい』
ジャックが前に座るわたしを両腕で抱きとめながら、脚でヴィッテスの腹を叩いてわたしたちは歩き始めた。
馬に乗るという行為は、思っていたより体力を使った。全身が揺られて、体が落ちそうになるのだ。ジャックが後ろで支えてくれるとはいえ、飛べないこの身で高い場所にいるというのはなかなかスリリングで、落ちないように踏ん張るのが大変だった。
「また全身が痛くなっちゃうわ」
「でも、そのおかげでリオーナにも体力がついてくるんだよ」
「あら、そうなの?」
確かにここに来て一日目は立っているのも辛かったのに、今では普通に歩ける。
「馬も、慣れたら長い間乗れるようになるよ」
「だといいんだけど」
わたしはジャックの手を借りて、ヴィッテスから降りた。
足元がふらついたところを彼に抱きとめてもらう。
「明日は町に出ようか」
「町に?」
「ああ。私の町を見てほしい。というか、町に出て君がなにか思い出さないかな、と思ってね。今日屋敷を案内したのも、いろんな経験をすれば、それがきっかけにならないかなと思ったからなんだ」
「またその話?」
ありもしない記憶の話に、そろそろ嫌気がさしてきた。
「そんなことをしても、簡単には思い出さないわよ」
彼が勝手にわたしを記憶喪失に仕立て上げているだけだし。
「君にとっても大切なことなんだよ。体力がついたらパリへ行こう」
「パリ、ね」
「乗り気じゃないみたいだね」
顔ににじみ出ていたのだろう。正直、わたしは乗り気じゃなかった。
だって、そんなところに行ったってわたしの知り合いはいないから。無駄足だ。それどころかわたしの故郷から、この森から離れることになるのだ。
「でも、もし君が記憶喪失じゃなかったとしても、君をパリに連れて行ったと思うよ。あそこは素晴らしいところだよ」
素晴らしいところ、ね。
わたしは心の中で嘆息し、冷めた目を闇に染まりゆく空に向けた。
こんなに近くにいるのに。
わたしが今一番帰りたいのは、あの市壁の向こうの、妖精たちの森だった。




