幼女神の執心
清流を背にした吹き抜けの造りになっている大神殿は涼やかな風が心地良い。こんな天気の良い日は近くの花畑で日が沈むまで寝転ぶのが気持ち良いだろう。
既に早い者勝ちで絶好の場所をキープしている神々を横目に見ながら、男神ヘルメスは日陰になる樹木の下に二人分の場所をとり、大神殿へと足を向けた。
そろそろあの引きこもりを外に引きずり出してやらねば。
広い廊下を真っ直ぐ進み、やがて見えてきた大広間を抜け、さらに奥へと進んで行くと次第に廊下は薄暗くなっていく。
まるでこの先にいる者が外部からの干渉を拒んでいるような陰湿な空気が立ち込めている、そんな気分にさせられる廊下を、しかし彼は堂々と清々しい表情で軽快に進む。
もうこの空気には慣れた。
本当は慣れてしまうまであいつを放っておきたくはなかったのだがな、と小さく嘆息してやがて辿り着く。
神殿の最奥部(といっても、隅の隅という意味で)その扉には『立入禁止! 入ってきた奴は許さない!』と乱暴な文字の貼紙。
許さないからどうするというのだ。
相変わらず語彙の乏しい奴だと頭を抱えたくなる。とはいえ、この貼紙に偽りはなく、以前この部屋への侵入を試みた愚かな男神が神殿を半壊させるほどボコられた。
本来なら神通力であっという間に修復できる被害だが、最高神の言いつけで半壊した神殿は悪戯に扉を開けた男神が自力で直すことになり、つい先日その修復が完了したところだ。
次はボコられる程度で済まないかもしれない。ヘルメスはそんな危険な乱神の部屋をノックした。
返事はない。
当然か、どうせ誰がやってきても同じく反応はないだろう。それがたとえ最高神であっても。
もう一度ノック。もちろん反応はない。
ため息混じりにやれやれと苦笑したヘルメスはノックの嵐を浴びせる。
これを聞いて無反応を貫けるものか!
すると扉の奥でバタバタと怒りにまかせて床を叩くような足音が近づいてきて、内側からドンッと重い一撃が返ってきた。
ようやく返事をしてくれたな。まだ餓死していないようで少し安心した。
「やあロキ。ご機嫌いかがかな?」
「なんだ、ヘルメスか。たった今、君のせいで最悪な気分になったところだよ。一体何の用だい? ボクは忙しいんだ。手短に頼むよ」
扉越しののんびりとした台詞にどの口が忙しいと抜かすのかと口角が引き攣ったが、ヘルメスは笑顔を崩さずに穏やかな声で応じる。
「今日はとても良い天気だぞ。たまには外に出てきたらどうだ? いつまでも部屋の中にいては体を壊してしまうぞ」
「外に出たら元気になるという根拠なんてないだろう? それに外には害虫がうじゃうじゃいるじゃないか。ボクは一生、この部屋で自堕落な生活を送ると決めたんだ。誰にも迷惑はかけないから放っておいてくれよ」
自堕落な生活を送っている自覚はあったのだな。とはいえ、ロキが部屋に引き篭ってから既に百年が経つ。
天界での時間なんてものはあってないようなもの(神は殺されない限り不死身だから)だが、ロキを溺愛するあまり引きこもりを容認し、侵入者を裁いた最高神ゼウス様に命令されてしまってはヘルメスも頷くしかなかった。
つまり、ゼウス様は自分が許可を出した手前、今さら出てこいとは言えなくなってしまい、神の中でロキと一番仲が良いヘルメスを遣いに出したというわけだ。本来ならば天の使いというものは天使が担当するものなのだが、最高神の指名を受けた以上、ダメ元でもロキを外へ誘うという使命は果たさなければならない。
結果がどうあれ、自分はできる限りのことをしたという体裁はとらなければ。
「ロキよ、部屋に篭って一体何をしているのだ? ゼウス様が心配されている。せめて何をしているのかだけでも教えてくれないだろうか?」
「下界を観察しているんだよ。なかなか面白い人間を見つけたんだ」
扉越しにまるで人間の子が観察日記を自慢するような嬉々とした声が聞こえた。
「ふむ、人間の観察……? それは百年も見入るほど面白いものなのか?」
そもそも人の子は百年も生きられるほど寿命が長かっただろうか?
すると、今まで開放されることがなかった扉が静かに向こうから開いた。
ひょっこりと顔を出したのはまだ幼さが残るが、美麗な顔立ちをした少女。これでもヘルメスとそう年は離れていない女神だ。
「み、見たい……?」
ぶっきら棒を装いながら、しかし今にもにやけてしまいそうな顔を必死に堪えているのが分かるくらい小さく唇を震わせるロキにヘルメスは表情を緩める。
「ああ、見せてもらおうか」
――これは、愚かな人間たちの生き様。
神々が見守った、やがて英雄と呼ばれる者たちの物語。