渡されなかった肖像画
「あのクソ画家が!」
夫の罵声が部屋に響いた。
やれやれ、またのようね。
妻はため息をついたが、表情には現さないよう極力つとめた。代わりに、後ろに控えている召使いにこっそりと指示を出す。召使いの方も慣れたもので、すぐに厨房からワインを持って戻ってきた。
「あなた、そんなに怒ってはいけないわ。どうかこれでもお飲みになってご機嫌を直してください」
「おお、ありがとう」
夫はわずかに唇の端を緩ませ、ワインを飲み始めたが、眉間の皺が消えることはなかった。しばらく沈黙が漂う。夫が発する不機嫌なオーラに耐えきれず、妻は沈黙を破った。
「あなた…そんなに怒っていらっしゃるのは、やはりあの肖像画のせいですか?」
夫はぼそっと、「ああ」とだけ呟いた。これは大層ご機嫌斜めだ。15の年で結婚してから連れ添って10年。相手の呼吸が読めるようになるのに十分な月日が経っていた。
「私がお前の肖像画を依頼して一年だぞ?本来なら、アンドレアが生まれた時の記念だったはずなのに!この前会った時には、まだ満足いくものが出来ていないと言っていた。あいつが才能溢れる男であることは認めるが、仕事が遅いのは困りものだ」
夫の言い分は正しい。夫が肖像画を依頼した画家の名声は国中に轟いているが、一方で遅筆なのも確かだった。実際、それが原因でトラブルになった家も多々あると聞く。だが、それを正直に言うと火に油を注ぐ結果になりそうだったので、妻は軽く画家の擁護をするに留めておいた。
「あの方は、今宮殿の壁画を描いていらっしゃるそうよ。だからお忙しいのでしょう」
「そうだな。私の注文よりも、報酬ははるかに高いだろうしな」
行政官を勤める夫は時折、怒ると舌峰鋭くなる癖が出る。皮肉まじりの言葉に、妻は黙ってしまった。
すぐに夫はそんな妻の様子に気づき、後悔するように、彼女の肩に優しく手を触れた。
「すまない。お前にあたるべきでは
なかった。」
「いいえ。あなたは私のことを思って怒ってくださったのですから…」
妻は話題を変えることにした。
「明日もお早いのですか?」
「うむ。明日は善人会の会議があるのさ。そうだ、寝る前に、子供たちの顔だけでも見ておくとしようか」
夫婦は一緒に部屋を出て、子供たちが眠っている二階へと階段を上がっていく。
もうこれ以上、旦那様が怒ることがないといいのだけれど。ダ・ヴィンチが一刻も早く肖像画を完成させてくれることを祈るわ。
そう考えながら、妻ーリザは窓の外に輝く星空を見上げた。
肖像画は結局渡されないどころか、五百年以上の時が経っても、誰もが彼女の顔を知っていることになろうとは、夢にも思わずに。
この「妻」が誰なのかは皆さんご存知の通り。
モデルに関しては諸説ありますが、現在一番有力視されているフィレンツェ商人の妻、リザデルジョコンダ説を採用しました。
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