九章 宣戦布告・七(カール)
俺達が通るたび、出会うやつらの顔が引き攣ったり蒼白になったりしていく。
それは当然だろうさ。
激怒しているリーンなんて悪魔みたいなものだろうな。表情も迫力も恐ろしく、激しく冷たい。氷の悪魔だろう。
俺は怯えたやつらに対して、すまないなと軽く詫びながらリーンの後に続く。
衛兵が俺達を認識するなり顔色を変え、さっと東の宮の入口扉を開ける。
リーンは衛兵などいないかの様に、さっさと自室へ向かった。
「お前達」
「は、承知しております」
全部言わずとも二人の衛兵はすぐに扉を閉めた。
まあそうでなければリーンの住居兼執務室のある東の宮の衛兵は務まらない。
誰もいない冷えた廊下を急ぎ歩き、リーンの部屋へと向かう。
開け放たれた自室の扉の外にはベンが部屋を守るように立っていた。
「ベン、あとは頼んだ」
「承知しました、カール様」
俺はリーンを探すが部屋にいない。
「リーン、おい、リーンどこだ!」
書斎の扉が開いている。こっちか。
「リーン!」
だが中にはリーンの姿はなく、地下室への隠し扉が開いていた。
まずいな、と、俺は焦りつつすぐに石段を下りた。
「うわぁぁぁぁーーっ!! あぁがっ、がっ、うっ、うっ、おおーーっ!!」
「リーン……」
何もない頑丈な石造りの広間の中央でリーンが吼えていた。
髪を振り乱し、剣をでたらめにブンブンと振り回し、何を言っているかもわからない支離滅裂な言葉、いや単語か? を発したかと思えば、四つん這いになり野犬や獣のような咆哮をあげ、狂っていた。
「リーン……」
俺はリーンには近づかず、離れた場所でリーンの狂気の様を見守っている。
あの冷静沈着で、誰もが陶酔する冷えた月の様な美貌、知も武も兼ね備えた、美しく誇り高いヘルブラオの第一皇子リーンハルト。
だがその美貌の皇子は今、美しさとは真逆の醜さで無様に狂いのたうち回っている。
……いや、この狂気と狂乱の中でも正気でいようと戻ろうと足掻く姿は美しいのかもしれない。
俺にだけそう見えるのかもしれないが。
リーンの狂乱ぶりはまだ衰えないが、もうじきに落ち着くだろう。
リーンを蝕む呪いは、リーンの精神を負の感情で侵蝕し、精神をズタズタにし死へと誘うらしい。それもゆっくりと何年もかけてじわじわと蝕んでいくとマリは言った。
そしてその呪いは解くことも解けることもない……と。
ただ、精霊水が呪いを抑えることがわかったが、純度の高い精霊水でなければいけない。
純度の高い精霊水——即ち高位精霊だけが生み出せる希少なもの。
俺は上着のポケットから精霊水を出した。
残りはあと八本。
今までなら十分足りたが、今は足りない。
セリのせいで。
セリのせいでリーンの精神は不安定になる頻度が高くなり、そこへ呪いが容赦なく絡みつきリーンをぐちゃぐちゃに犯し蝕んでいく。
初めはセリが動かないリーンの心を良い方に動かしてくれ、救ってくれるかもと期待もしたが、期待を裏切り、リーンの心を、呪いを加速させ悪化させただけだった。
赦せない、絶対に赦すものかっ!
両手に力が入り、持った小瓶の中の精霊水が揺れる。
俺は握りしめた小瓶を見る。
近いうちに水の城に行かなければな……。
俺も極力水の城には行きたくないが、リーンのためだからな。
…………ああ、もう大丈夫だな。
リーンが四つん這いの状態で、全身で荒い息を吐き出し、ゆっくりと仰向けになり倒れた。
俺はリーンに向かって歩き出す。
先程の暴れ様から一転、今は呼吸も小さくて弱々しくて、本当に呼吸をしているのか疑わしいほどだが、閉じた瞼がゆっくり開いていくの見て安堵する。
「リーン、起きれるか」
リーンは何も言わないが、できないと言っているのはわかる。
俺はリーンを抱き起こした。
「飲めるか?」
リーンは蒼白な顔で何も言わない。
「わかった。口移しで飲ませるが我慢しろよ」
ピクリとリーンの整った眉が、嫌そうに動いた。
「貴重な精霊水を零して無駄にするわけにはいなかいからな。文句言うな」
俺は片手で開けた精霊水を口に含むとリーンに飲ませた。想像通り、というかいつも通りというのか、飲み込む力も無く、なかなか嚥下しないので飲み込みやすいよう少し体勢を変えるとようやく一口飲み込んだので、ゆっくりと残っている精霊水をリーンに流しこみ、唇を離す。
……名残り惜しい。
今まで触れていた冷えた唇に、俺の持つ熱を分けてやりたい。嫌というほど、温めてやりたい。
俺はリーンの乱れ、汗で額にはりついた前髪をそっと横へ流した。
薄暗い部屋でも、キラキラと光り輝く美しい……緋色の髪の毛を。
リーンが小さく口を動かした。
声にはならない声で。
「……爪が、薄ら紅くなった。髪の毛も少し緋さが増した」
俺は誤魔化さず現状を伝えた。
リーンの身体が微かに強張った。
リーンは何も言わず、紅薔薇色の美しい瞳を瞼でゆっくりと隠した。いや、言いたくても、喚きたくてもその力さえ今はない。
ただ、閉じた目から小さな涙が一粒生まれ、冷えた頬を伝い落ちた。
俺はリーンを抱え直し、顔を俺の胸に埋めるようにした。
リーンは誰にも涙なんて見せたくないのを知っているから。
リーンは俺の腕から逃げ出す力もないから、されるがままだ。物凄く不本意だ、ふざけるなという感情は感じるがいつものことだ。
リーンには悪いが、俺にはこうしてお前に触れられることが至福の時間だ。
ああ、髪の色がだんだんと栗色になってきた。
これなら上に戻れるな。
俺はリーンを抱きかかえ、立ち上がる。
リーンは眠ってしまったらしく、何の反応もしない。
小さい頃からお前に降りかかる、理不尽な暴力や仕打ちを数えきれないほど見てきた。
見る度にどうにかしたい、どうにかするべく動いてきた。そのおかげで呪い以外から来る理不尽な物事は減った。
減ったが、リーンが受けた心の傷は決して消えやしない。癒されもしない。傷つき壊れたままだ。そこにさらに負荷をかけられれば、壊れるだけ。
それをやったのがセリだ。
一体どれだけリーンを傷つけ壊すつもりなんだ、あいつは!
赦せない、赦さない。
俺のリーンを傷つけ、壊すなんて、絶対に。
俺はもう決めている。
リーンに害をなす者は消す、と。
今は出来ないが最後の試合が終わったあと、速やかに実行しよう。
リーン、俺の全てでお前を守るから安心しろ。
俺は、深い眠りに沈んでいるリーンの頭にそっと口付けた。




