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八章 変貌・ 一

「ヨハンです」

皇子のいる部屋の扉をヨハンさんがノックすると中から「入れ」と返事が来た。

ヨハンさんが重そうな扉を開け、私に入るよう促した。

仕方なく部屋の中に入るとすぐに扉は閉められた。

「え」

振り返り、ドアノブに手をかけるけど当然開かない。

「はぁ……」

仕方なくドアノブに背を向けると、すぐ近くにカールがいた。

「待ってたよ、セリ」

にこやかな顔をしているけど纏う空気は冷たい。

私は返事はせず、一瞬カールの顔を見ただけですぐに顔をそらした。

「随分なご挨拶だ。ま、いいよ。それよりリーンの所に行け」

「わっ!」

カールがいきなり背中を押したので、つんのめって転びそうになった。

「ああごめん。セリがリーンを待たせるから早く歩く手伝いをしたんだけど」

わざとか! 大人げない……!

私は後のカールを睨み付け、嫌みの一つも言いたかったけどアロイスとマユキのいない、敵陣にただ一人のこの場での揉め事は完全不利。

悔しいけど、さっさと無事にこの部屋から出るために我慢して皇子の前に行った。

皇子は椅子に座って腕を組み、嫌悪と憎悪の混じった目で私を見据えていた。

私から話すことは何もない……ワケじゃないけど、自分からこれ以上の面倒ごとを増やす気はないので皇子が話すまで黙って待つ。

しばらく重苦しい時間が流れ、皇子がゆっくりと立ち上がり、いきなり髪の毛を引っ張られた。

「痛っ!」

皇子がバンッと左手を執務卓についた。

「!!」

私は痛みと音にびっくりし、思わず目を瞑ってしまった。

(何、何なのっ!?)

突然襲った恐怖に頭がパニックになってどうすればいいのかわからない。

「はっ……。いい様だな、小娘」

耳元で冷たい声が聞こえた。

「やだっ!」

反射的に声の方に手を上げて恐怖を振り払い、後に下がった。

「リーン!」

私の後にいたカールが皇子の側に駆け寄っていた。

「大丈夫か、リーン!」

「ああ」

カールは皇子の顎を掴むと左頬を自分に向けて、その端正な顔についた小さな赤い線を見ていた。

そういえば振り払ったとき、何かに当たったような気が……。

「血は出ていないな」

カールはホッとすると、他にも傷がないか丁寧に皇子の顔を調べていた。

そのやりとりが視界に入ったおかげで私の気も落ちついてきた。

中身は最低でもイケメン二人が至近距離であんなことをしていれば、乙女ゲーム好きとしては最高のご褒美なワケで。もう少し見ていたいかもと思ったりもしたけど、今は自分の安全が第一。

(この隙にゆっくりと後に……)

開かない扉とわかっていても今の逃げ場はそこしかなくて。

庭に続く窓はあるけど、それは皇子の背後。庭も外に出られそうな感じじゃないのでそこからの脱出は無理そう。

二人との別れ際、心の中でマユキを呼べば助けに行くって言われたけど、それは避けたい。

もしドラゴンだってばれたらどんな目に合わされるのか、考えたくもない……!

とにかく、前を向いたままそっと右足を後に引いた瞬間。

「小娘、どこに行く気だ」

声と一緒に氷の視線が私を射ぬいた。

「!!」

速攻バレた。私は動きを止め、誤魔化すことにした。

「い、言っておくけど、それ、謝らないからね」

私は傷つけた皇子の頬を、右手で指差した。

「へぇ、セリ。君は傷つけた相手に謝罪もしないのかい。いくら平民とはいえ、そんな基本的なこともできないなんて呆れるな」

反応したのはカールで、軽蔑の目で睨んでくるけどこっちだって言ってやる!

「なによ! そっちだっていきなり私の髪の毛引っ張ったのに謝ってないじゃない! 皇子だったら平民よりちゃんとした教育受けてるんだから謝れない方がおかしいよね? 謝ってほしいなら先にそっちが謝って。そしたら私も謝る」

指差したまま言い切った私を美形二人がおかしなものを見るような顔で見ている。

「セリ、本気で言っているのか?」

カールが変な顔のまま訊いてきた。

「本気よ。当たり前でしょ」

変なことは言ってない……はずだけど。

「皇帝陛下ご推挙の娘がまさかこんなに教養のない娘だったとはな……」

カールが大袈裟なぐらいの溜息をつき軽く頭を振った。

「どこの者ともわからぬ小娘だ。無教養でも驚くことはないだろう」

「そんな女性をリーンの花嫁候補に推すとはな。皇帝陛下のお前に対する気持ちがよく理解できたよ」

「今頃か」

「いや、改めて確認できたということさ」

何それっ……! そりゃ皇子様達に比べれば教養はないよ。けど無教養と言われるほど酷くない。こっちだって学校行って勉強してるんだからね!

「……」

言い返したい。

何でもいいから言い返したい。

だけど今何か言えば、さらによくないことが起こるのはわかる。悔しいけど、今は脱出が第一。

心の底からわき上がる、ぐちゃぐちゃに嫌な気持ちを抑え、逃げることを最優先。

会話で気が逸れてる今ならと、そっと左足を後に引いたけど。

「セリ、話は終わってないよ」

今度はカールに止められた。

「そもそもリーンに呼ばれた理由をわかっているのか?」

「そんなの知らない」

知りたくもない。私はカール達から視線は外さず、逃げるチャンスを探す。

「全く、呆れ果てたね」

カールは苛立ちと怒りの混じった目で私を見た。

「君はまずリーンへの非礼を詫びる、そして許しを乞うためにここにいるんだ。寛大なリーンハルト皇子殿下がその機会をわざわざ与えて下さった。それなのに君はそんなこともわからないまま、皇子殿下の御前にいる。しかもまた皇子殿下に無礼な振る舞いをしたのに謝罪はしないと言い、あげくこのヘルブラオ国の誇る偉大な皇子殿下に謝罪を要求してきた。これは無知、無教養で許されることではない!」

カールの一喝に私は身体を竦めた。

怖い。

悔しい。

どうせ嫌なことをされるんだろうと覚悟はしてたけど。

何で何度もこんな怖くて惨めな思いをさせられるのか。酷いいじめだ。

私はぐっと両手を握りこみ、皇子とカールを力を込めて睨んだ。それが今出来る唯一の抵抗。

「へぇ。気に入らないな、その態度」

カールがつかつかと私の前にやって来て、苛立たしげに見下ろしている。

私はカールから視線をそらさないでいると

「お前、いい加減にしろよ」

ドスのきいた低い声を出し、乱暴に私の頬を挟むように左手で掴むと、カールが身体を屈め、ぐっと顔を近づけて来た。

「んっ……!」

痛い!

容赦ない力で頬を掴まれているので声を出すこともできない。

「ははっ。痛そうだね、涙まで滲ませて。可哀想だね」

そんな愉しそうな顔してよく言うよ!

だけどチャンスだ。

カールの腹はがら空き。ここに一発入れば……。

素早く右で、力いっぱいカールのみぞおちに拳を突き入れるけど。

「おっと、残念」

動きを読まれていた突きはあっさりとカールの右手で防御された。

頬を掴んだ左手は離さず、ニヤリと嗤って右の拳をギュッと握り込まれた。

(今だ!)

私は左足でカールの股間を蹴り上げた。

「なっ……!?」

見事にキマッた。

……とは言いがたいけど、それでもそこそこいい感じに当たったので、カールの全身から力が抜けた瞬間、私はカールの手を振り払い距離を取った。

カールは柔らかな絨毯に左膝をつき、手を当てはしないけど襲っているであろう痛みを堪えているみたいだ。

「カール」

皇子が側に寄り「不様だな」と告げながらも、少し屈み右手を差し出す。

「……くくっ」

もう限界だった。

「あはははっ! くくっ、ははははっ!」

抑えていた笑いがお腹の底から飛び出した。

「あっはははっ! さっきまであんな偉そうなだったのに、今は……」

まだ固まったままのカールを見下ろすとまた笑いが止まらなくなる。

「黙れ、小娘」

皇子が言ったけどそんなのは無理。

ついさっきまで凄んでた人が今は急所の痛みで動けないなんて! 笑うしかないでしょ、もうこれ。

散々私に嫌がらせしたお返しなんだから。あー、スッとした。

けど、これからが正念場。

固まっていたカールがゆっくりと立ち上がる。

私はさらに後へ下がり、気を引きしめる。

カールは顔にかかった髪の毛をかき上げると、ニッコリと笑いかけた。でも目は全然笑ってない。屈辱と怒りしか見えない。

「セリ、君は一体何なんだい」

一歩、カールが踏み出す。

「何って……」

一歩、私は下がる。

「言葉通りだよ。君はある日突然現れた。リーンの婚約者候補として。皇帝陛下の推薦だから全てにおいて素晴らしい淑女なのだろうと思い、お会いするのを楽しみにしていたんだ。初めての顔合わせのとき、本当に驚いたよ。皇帝陛下は何て素晴らしい女性をお選び下さったのだろうとね」

素晴らしい男性はそっちでしょと言いたいけどそこはぐっと我慢。ていうか、これもしかしてディスられてる……?

「どんなに手を尽くしても君の経歴は何も出てこない。他国の者でも、ここまで何も情報がないのはおかしすぎる。だからもう一度訊く。君は何者だ、セリ」

迫るカールから逃げようとしたけど、強い迫力にのまれ、身体が硬直してしまった。その隙をカールにつかれた。乱暴に右腕を掴まれ、近くにあるソファに投げられ、身体を起こす前にカールが私の上に跨がった。

「やっ!」

どかそうと暴れたけど、私の太腿あたりにカールは座っているので、足での抵抗は出来ず、両腕は頭の上で拘束された。

「やだっ! やだやだ、どいてよっ!!」

とにかく暴れた。カールをどかすためにもう全身を使って抵抗した。

「このっ……、はねっ返りがっ。いい加減、大人しくしろっ!」

「いやっ!!」

そんなことできるわけないでしょっ!

カールの腕だけでも振りほどこうと両腕に力を込めたとき。

「冷たっ……! 何!?」

はっ、と気づいて右側に首を向けるとそこには空になった水差しを持った皇子が立っていた。

「黙れ、小娘」

私を見下ろすその顔は、かけられた水よりもはるかに冷たくて、その怖さに抵抗する力も凍らされた。

「あーあ、俺まで水かかった。酷いなリーン」

「手こずるお前が悪い」

「それは俺のせいじゃないよ。言うことを聞かないセリが悪いんだ。ま、でもこれでようやく話ができるね。俺の質問に全部答えてもらおうか。抵抗するなら容赦はしない。それは身をもって理解してくれたと思うからね」

笑顔でカールは言った。でもその笑顔には捕った獲物をいたぶって遊ぶ楽しみに満ちた笑顔だった。

その顔を見た直後、身体の芯からゾッとした。

怖い。

怖い、怖い。

やだ、やだやだっ!

もうこんなとこ、一秒だっていたくない!

もう限界。

ここから逃げるためマユキを呼ぼうとした瞬間。

「はっ……、う……あ、あっ、ああーっ!!」

とんでもない叫びが空気を切り裂いた。

驚いて叫び声の方を見ると「え、ええっー!?」と私も叫んでしまった。

だって、そこには何をどうしたのか、燃えるような紅に染まった髪の毛をした皇子がいたから――。

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