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四章 波乱の前触れ(カール・一)

時は遡り、セリとアロイスが追手を撒こうと街を走り回っていた頃。


リーンは会場を後にすると、烈火のごとく怒りを露わにしたまま東の宮へと向かっていた。

それはすれ違った人間全員を一瞬にして怯えた表情にさせる程の怒り。

表情は普段と変わらず冷たい無表情のままだが、纏うオーラが明らかに尋常じゃない。

だからこそ余計に怖ろしい。

一触即発。

まさにそういう状態。

普段なら何があっても、こんな殺気を感じさせる程のオーラをだだ漏れさせるなんてことは絶対にない。

そう。制御が出来ないほど、今のリーンは激昂しているのだ。

リーンが足音荒く東の宮に入ると俺は入口を守る衛兵に「いいか、誰が面会に来ようと私がいいと言うまで絶対に通すな!」と移動しながら命令し、俺も東の宮に入る。

「はっ!」

衛兵の強張った返事がギギギと閉まる重い扉の音と重なり消えた。


「リーン!」

俺は開け放たれたままのリーンの自室の扉を抜けると、確実にここにいるはずの主を探した。

だが、部屋を見回しても先に入ったはずの主はいない。どこにいるかはわかってはいるが、気は焦る。

俺は部屋の右手に真っ直ぐ進み、執務机の引き出しから三本、精霊水の入った小瓶を引ったくるように掴んで上衣のポケットに突っ込み、開け放たれている窓から中庭に続くテラスを抜け、急いで庭へと出る。

そこには狂ったように剣を振り回し、植えてある木々を切り倒しているリーンの姿があった。

「リーン!」

俺は急いで駆け寄る。

リーンは俺の存在に気づいたようで、振り回していた剣を勢いよく下ろし、地面に突き立てた。

「何なんだ、あの小娘は!」

荒く息をつきながらリーンは話し出す。

「あの小娘、脅しても俺に怯えて屈しないどころか反論して挑んでくる! 何故だ!? 何故俺の言うことに従わない!? 何故俺に逆らう!? 俺に逆らう者など死ねばいい!! ……う、あっ……、あ、ああぁーっっ!!」

リーンはさらに荒ぶり、声も大きくなり、最後には全身の力をふり絞るかのように叫んだ。

(マズい!)

俺は小瓶を一本取り出し栓を開けると、急いで精霊水を飲ませようとリーンの左肩を掴んだが、間に合わなかった。

リーンは俺の腕を振り払うと、地面に刺した剣を引き抜き、俺を斬ろうと襲いかかって来た。

「リーン! ……ちっ!」

俺はスレスレでかわしたつもりだったが、剣先は頬を薄く掠め、朱線をつけた。

同時に右手に持っていた小瓶を落としてしまい、精霊水は地面に染み込んだ。

リーンは仕留められなかった俺を振り返り、今度こそ仕留めようと再度剣先を俺に向けたが、俺に斬りかかっては来なかった。

「……そうだ、なんであの小娘は生きている? 俺に逆らってなんで生きている……?」

ふっと思い出したようにリーンは呟きだした。その目は生気を失い、虚だった。

「リーン!」

(早く精霊水を飲ませないとマズい!)

俺は間合いを取りながら、新しい小瓶をポケットから取り出す。

「何で生きてるんだ!? 俺はこんなに辛くて、苦しくて、狂しいのに! 何であの女は笑って幸せに生きているんだ!? 何で、何で、なんで、なんでなんだっ!! あああああぁーっ!!」

「リーン!!」

ほんの少し前まで虚だったリーンの瞳には、溢れるほどの生気が戻ったが、それは憎悪でギラついていた。頭が痛むのか、左手で頭を抑えながらも、叫び、狂乱している。

右手にはしっかりと剣を握っているので、うかつに近づくことはできない。

(早くしないとマズイのに!)

あんなリーンを目の当たりにしながらどうにもできない自分にも心底イラつくが、今無茶をしてリーンに傷をつけるのもゴメンだ。

焦燥する心を抑えつけつつ、俺はリーンから視線を外さず、隙ができるのを待つ。

「は、ははっ。ははははっ……! そうだ、生きているのなら殺しに行けばいい。簡単じゃないか。そうだ、殺せ、死ね、みんなみんな死ねばいい!!」

一際高く嘲笑すると、全身から力が抜けたように、リーンはダラリと両腕を落とした。

握っていた剣もドサリと地面に落とし、ふらりと身体を揺らせ、焦点の定まらない虚な瞳で空を仰いだ。

「待っていろ、今、殺しに行くから……」

そして息をのむほど凄艶な笑みを浮かべ、ゆっくりと外に向かって歩き出した。

一瞬とられた気を取り戻し、俺は急いでリーンの正面に回り、リーンの両腕をがっしりと掴んだ。

「離せ。お前から殺されたいのか」

凄みを効かせた声と視線でリーンは俺を威嚇してきた。

「離さない。しっかりしろ、リーン!」

俺は諭すように話しかけた。

「離せ」

「嫌だ」

ギッと睨むように、俺はリーンの瞳を見た。

いつも冷たく澄んだ冬の湖のように美しい瞳も、今は憎悪によって荒らされ濁って見える。

「ならば死ね」

リーンは抑揚のない声で呪文の詠唱を始めた。

俺は息を大きく吸って、吐いた。

「いい加減にしろ、リーン!」

俺は大声でリーンに向かって言う。

「っ!?」

詠唱する事も忘れるほど、リーンは俺の大声に驚いた様だ。

(今だ!)

俺はポケットからをまた小瓶を取りだし、親指で栓を開け、それを一気に口に含むとリーンの腰を引き寄せ、顔が動かないよう首の後ろをしっかり固定した後、リーンの唇を自分の唇で塞いだ。

「!?」

リーンはさらに驚き、顔を背けようとしたが、首を抑えられているので俺を振りほどけない。

俺は含んだ精霊水をリーンの口に流し込み飲ませようとしたが、リーンは抵抗して飲み込もうとしない。

ならばと、俺は唇を離し、精霊水を吐き出さないよう右手でリーンの口を塞いだ。

「かはっ!」

抑えられていた首の拘束がいきなり解け、今度は前から抑えつけられる。その時の衝動で、リーンは精霊水を飲み込んだ。

「お、前っー……! よくもあんなものを、飲ま、せっ」

リーンはガクガクと震え出した。

「く、そっ……!」

精霊水を吐き出そうとしたリーンは前屈みになろうとしたが、そうはさせない。

俺はまたリーンの両腕を掴み、腕の動きを封じ、しっかりと立たせた。

「くそっ! 離せ、離せっ!」

リーンは俺の腕を振りほどこうとするが、精霊水を飲んだおかげで今までよりも力が弱まっているので何とか抑え込めるが、油断はできない。

「離せっ! 俺は殺しに行くんだ! あいつ、あの女をっ……」

「リーン! お前が殺したいのは誰だ!? あの女ってセリか!? それとも今邪魔をしている俺か?」

「俺、は……」

リーンは思考が混乱し始めたのか、大人しくなり、迷いの表情をし出した。

(今だ!)

俺はがっとさらにきつく腕を掴み意識を俺に向けさせる。

「しっかりしろ、リーン! お前は本当に殺したいのか!?」

「俺、俺は……」

「そうだ、お前が、だ」

「オ、レは……。嫌だ! 嫌だ! 嫌だっ! 殺したくなんかないっ! 殺したい、ものかっ……」

リーンは顔を歪め、はらはらと涙を流し出した。

「そうだ。お前はそんなことはしない! そうだろう、リーン!」

「あ、あ……? 俺? 俺は……、違う、殺す! 殺してやる!」

戻りかけたリーンの心はまた負の方向へ戻り、瞳にはまた憎悪の炎が揺らめき出した。

「違う! リーンは殺さない! いい加減戻って来い! リーンハルト・マティアス・リーリエ・ヴェインローゼ・フォン・ヘルブラオ!!」

自分の名を聞いたリーンはビクリと身体を硬直させたかと思うと、次の瞬間には力が抜け、俺にぐらりと寄りかかって来た。

俺はしっかりとリーンを抱き留めると、ゆっくりと二人地面に座り込んだ。

リーンは俺からゆっくりと身体を離すと、俺を正面から見つめる。

その瞳はもう憎悪の色などなく、いつもの通り美しく澄んだ瞳だった。

「すまない、カール……」

リーンは涙を拭うこともせず、濡れた顔で俺に詫びる。

「大丈夫だ。こんなことぐらいでどうにかなるほどヤワじゃない」

俺は明るく言った。実際、何度もやってるしな。

「でも……、俺はまたお前を傷つけた」

リーンは頬の傷を辛そうに見ていた。

「たいしたことない。それに、これはお前のせいじゃない。だから気にするな」

「………」

だが、リーンは黙って俯いてしまった。

(相当堪えているな。無理もないか。ここまでの発作は久しぶりだったしな)

俺はぐいっとリーンを抱き寄せた。

「!?」

「だから気にするな! って言ってもリーンは気にするよな。なら、うんと気にしておけ。俺はこの貸しをどうやって返してもらうかゆっくり考えてやるよ」

俺はリーンの頭を左肩に引き寄せ頭を撫でた。

泣く子供を慰めるようにゆっくりと優しく。

「……ああ。考えておいて、くれ……」

リーンはか細く、掠れた声で答えた

「カール……」

「うん? 何だ?」

「…………」

リーンは声にならない程の、か細い声で呟いたが、俺にはちゃんと聴こえた。リーンの堪え切れないほどの苦しみ、痛み、哀しみが。

わかってる、知ってるよ、リーン。ずっとお前と一緒にいたんだ。わからないはずがないさ。

だけど、俺はその言葉は聴こえないふりをした。

「……疲れただろ。少し、ベッドで休め」

「……ああ」

リーンは素直に頷き、立ち上がる。

俺も立ち上がり、リーンを支えようと肩を抱こうとしたが、リーンは断った。

「大丈夫だ。ベッドまで一人で行ける」

リーンは苦笑した。

(ああ……、久しぶりだな。こんなふうに柔らかな表情を見るのは)

硬かった花の蕾が綻びるように、柔らかに甘く咲いた笑顔。

(綺麗だな……)

「どうかしたか、カール」

返事もせず、俺はリーンの笑顔に見惚れていた。

柔和な笑顔に色を添えるように、リーンの目元は淡い紅に染まっていた。

泣いたせいで目元が紅いのだが、白い肌にその淡い薔薇の様な紅色はとても映える。

それがまた美しいと同時に痛々しさを誘い、何としても護ってやりたいという庇護欲を刺激する。

リーンが女だったら今絶対ベッドで抱いて慰めてたな。

ま、それぐらい今のリーンはさっきとは真逆の色香を出している。可憐な美しさというやつだな。

「カール?」

反応しない俺を心配したのか、リーンは俺の顔を覗き込んできた。

「え? あ、ああ、悪い。ぼーっとしてた」

俺ははっとしてリーンを見た。

「俺のせいだな。すまない……」

更にリーンは落ち込んだ様だ。

「まあそうだな。リーンが押し倒したいほど綺麗で可愛かったから、見惚れていたんだ」

「カールっ……! お前っ!」

顔全体が瞬時に薔薇色に染まった。

「ははっ! 本当のことだから仕方ない」

「俺は男はお断りだ!」

「俺だってそうだ」

「ならそんなこと言うな」

「そうは言うがな。本当なんだから仕方ない」

そう。これだけは譲れない。

「俺は御免だ……」

リーンは納得しきれないようだ。

もちろんリーン自身も容姿が恵まれているのは自覚している。

容姿を使って有利に持ち込んだ案件もそれなりにあるからな。

が、やっぱり綺麗と言われるのは抵抗があるようだ。

「いいじゃないか。使えるものは使っとけ」

「まったくお前は……」

「今さらだろ」

「ふ。そうだな」

他愛のない会話。

これがどれだけ貴重な時間かなど誰も知るまい。

俺は早くこの時間を取り戻してやりたい。

そのためには何だってする。

「ほら、もう早く休め。後のことは俺がやっておくから」

「ああ、カール。後は任せた」

俺は寝室へ行くリーンを見送った後、部屋を出た。


東の宮の入口には衛兵とセリの迎えに行かせたヨハンがいた。

ヨハンは俺を見ると一礼し、続いて報告に入った。

「カール様、申し訳ございません」

ヨハンは詫びの言葉と一緒にまた頭を下げた。

ということはしくじったのか。

「わかった。続きはリーンハルト様の執務室で聞く」

「はっ」

そうして俺達は王宮のリーンの執務室へと向かった。

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