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マニュアル社会

作者: 東堂柳

 この国はマニュアルであふれている。

「ケータイ利用マニュアル」や、

「会社員向け営業マニュアル」

 など、元からあった必要なものから、

「映画鑑賞マニュアル」、

「睡眠マニュアル」、

 さらには、

「将来の夢実現マニュアル」

 といったものまで。その種類は実に数百万ほどある。

 つい最近になって、

「マニュアルを読むためのマニュアル」

 なるものまで出始めた。


 そして俺は、そんなマニュアルを売りつける仕事をしていた。今日も沢山のマニュアルを担ぎ、1件1件訪問販売をしていた。

「だから、うちにはマニュアルなんて要りませんよ!」

「今のご時世、マニュアルは無くてはならないものですよ? いわば生活必需品。皆さん買っていらしてるんですよ?」

「大体、マニュアルを読むためのマニュアルなんて、ホントに必要なんですか? 面倒すぎるじゃないですか? とにかく、うちには要りません。早く出てってください!」

「あ、ちょっと、奥さん!」

 また閉め出されてしまった。

 確かに、俺もここの奥さんの言う通りだと思うが、仕事なので売り付けるしかないのだ。


 そんなこんなでようやく、今日の仕事が終わった。会社から家に帰る途中、ケータイが鳴った。

「もしもし?」

 とりあえず出てみる。すると、まるで聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。

「竜見京一さんですか?」

「え、ええ。あなたは?」

「私は、私立武蔵野病院の者です」

 病院? なんだろう?

 そう思っていると、紙をめくる音が聞こえてから、男が深刻そうな声色で言った。

「落ち着いて聞いてください。妹の竜見美奈さんが、交通事故に遭い、現在意識不明の状態です」

「えっ?」

 美奈が……!? 嘘だろ……そんな……。

 突然のことに、動揺が隠せなかった。

「ほ、本当ですか? それ」

 信じたくなかった。嘘だと言ってほしかった。だが

「残念ながら……。とにかく、すぐに病院に来ていただきたいのですが」

 頭の中に妹との思い出が次々と浮かんでは消える。大きく息を吐き出して、どうにか気持ちを落ち着かせた。

「わかりました。すぐ行きます」

 幸いにもその病院は、帰り道からそれほど離れていない場所にある。俺は無意識のうちに駆け出していた。


 病院に着いて、周りの目も気にせず、一目散に受付に向かう。

「すいません。竜見美奈に面会したいのですが」

 焦りが抑えられない俺とは対照的に、全く動じる様子のない受付嬢は顔も上げずに、「病院受付マニュアル」をペラペラとめくり、

「面会予約はとられてますか?」

「いえ、とってません。さっき急に、ここに運び込まれたと聞いたので」

 彼女は最後まで俺の話を聞かずに、再びマニュアルをめくり出す。

「予約がないのでしたら、こちらに、お名前とご住所、電話番号を記入して、あちらで少々お待ちください」

 と、用紙を差し出し、待合室に並べられたソファーを手で示した。彼女は終始、俺に顔を向けなかった。

 頭を抱え込むようにしてソファーに座る。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。妹の事を考えていると、突然の男の声で、その思考が寸断された。

「竜見さんですね?」

 白衣を着て、髪を七三に分けた長身のその男は、いかにも医者といった風貌をしていた。首から「外科医 波田見 一志」と書かれたカードを提げている。右腕には分厚いマニュアルを抱えていた。男は、俺が「そうです」と答えている間に、そのマニュアルを慣れた手つきでめくり出す。

「お待たせして申し訳ございません。では、こちらへどうぞ」

 その声には、全く感情がこもっていないように思えた。

 案内された場所は大部屋の病室だった。一番窓側のベッドに妹はいた。妹の頭には包帯が巻かれ、腕には点滴の針が刺さっている。しかし、彼女の顔はとても安らかに見えた。

「妹は大丈夫なんですか?」

 思わず涙腺が緩む。涙を必死に堪えながら、顔色ひとつ変えない医師に尋ねた。

 妹のこんな姿を見ることになるなんて……。最後に会ったとき、口喧嘩したことを今更ながらに後悔した。

 波田見は今度は何処からともなくカルテを取り出し、それを見ながら、まるで機械のように喋る。

「現在、意識不明です。それから、両足が複雑骨折しています。また、頭部と右腕に損傷があります。勿論、出来る限りの治療は施しました。しかし、まだどうなるかは判らない状況です。回復したとしても、後遺症が残る可能性もあります」

「そんな……」

 とうとう堪えきれずに、波田見のことなど気にせず、涙をボロボロ流してしまった。視界が歪む。そのせいか医師の顔が笑っているように見えた。

「今日はどうします? 面会時間内までなら、付き添うこともできますが」

 今度はマニュアルに持ち替えて波田見は尋ねた。

「そうさせてください」

 俺は手の甲で涙を拭い、そう答えた。

 看護士が面会時間終了を告げるまで、ずっと妹の手を握っていた。俺たちには両親はいない。20になったのに彼氏もいない彼女には、身寄りといったら俺しかいなかった。

 面会を終え、病院を出ようとした、その時だ。急に病院内が騒がしくなった。医師や看護士が慌ただしく動き始める。気になって、通りかかった看護士に何事か聞いてみて、愕然とした。

 妹の容態が急変したのだ。

 不安に駆られ、血の気が失せた。そのまま倒れてしまいそうだった。その時、波田見がやって来た。

「まだいたんですね。実は妹さんが……」

「容態が急変したんでしょう? さっき聞きました」

「そうですか。……これから手術ですが、終わるまで待ちますか?」

「ええ、勿論」

 波田見は相変わらず、マニュアルを見ながら受け答えしていたが、そんな事、もうどうでもいい。妹さえ助かってくれれば、それで。

 波田見に案内され、手術室前のソファーで1人待つことになった。時折、広辞苑ほどもある分厚いマニュアルを何冊も抱えた看護士らしき人物が、手術室を出入りしていた。その中に

「緊急手術対応マニュアル」、「心肺蘇生マニュアル」

 というのが、ちらりと見えた。


 手術はかなり長い間行われたように思う。時計など見てる余裕もないので、正確には判らないが。

 手術中の赤いライトが消えると、扉が開いて、ようやく波田見が帽子とマスクを外しながらやって来た。思わず立ち上がり、はやる気持ちを抑えながら、一言一言確かめるように尋ねる。

「妹は、助かったんですよね?」

 だが俺の想いに反して、医師は俯き気味に首を振った。

「残念ですが……。お亡くなりになられました。手は尽くしたのですが……申し訳御座いません」

 その言葉に、俺は全身の力が抜けた。その場にくずおれ、完全に放心状態だった。頭の中では、妹の事が目まぐるしく映っていた。

 その思い出が、「大丈夫ですか?」と言う男の声で、掻き消されていく。次第に、怒りが込み上げてきた。

 こいつらのせいだ。こいつらがマニュアルなんか読んでるから、妹は……。許さない。

 俺は立ち上がると、怒りに任せて波田見の胸ぐらを掴んだ。同時に鈍い音が廊下に響いた。マニュアルが波田見の手から、滑り落ちたのだ。

「お前のせいだぞ! お前が、マニュアルなんか読んで手術するから、妹は、妹は……」

 苦しくて、最後まで喋れない。だが、波田見はあくまで冷静に返した。

「しかし、マニュアルを読みながらの職務が義務化されて……」

 その言葉を俺は殴って遮る。騒ぎを聞き付けた看護士の1人が、悲鳴をあげた。

「ふざけんなよ! マニュアルなんて糞だ! 俺は思い知らされたよ。マニュアルがどれだけ人間の邪魔をしてるかをな」

 リノリウムの床に倒れ込んだ波田見は、握っていた帽子を投げ捨てて立ち上がった。

「私だって、……私だってマニュアルが必要ないことなんて判ってるよ! だけど仕方ないじゃないか! 国の決めた事なんだから! 私たちだって、貴方が思ってる以上に辛いんですよ!」

 初めて、波田見が感情を露にした。

 肩を震わせ、力強く拳を握っているその姿を見れば、本気で怒りや悔しさを抱いているのがわかる。しかし、突然ハッと我に返ったようで、落ち着いた口調になった。

「すみません。大声出してしまって、つい……」

「こちらこそ、すいません。一生懸命に手を尽くしてくださったのに、こんな言い方をして……」

 完全に許したわけではないが、波田見に言ったところで、どうなるわけでもない。そう悟った。

 俺はもやもやした気持ちのまま、病院を後にした。


 あの竜見という男が病院を出るのを見届けた後で、俺は手術にあたった他の医師や看護士と休憩室で話をしていた。

「それにしても、さっきの波田見先生の対処、流石ですね」

 看護士の1人が突然にそう言った。

「そうかな?」

 と俺は笑みを浮かべる。

「だって、『医療トラブル対処マニュアル』の第5章18条47項を全く間違えずに何も見ないで喋ったんですよ。それにあの演技、まるで役者ですよ」

 俺はそれを聞いて、ポケットに入っている「演技マニュアルⅠ」に目をやって、ニヤリと笑った。

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― 新着の感想 ―
[一言] 全てがマニュアル化された世界。それはサービスの質の均一化という点では良いのでしょうし、サービスを与える側にとっても精神的に楽になると思います。マニュアルに従っていれば個人の失敗ではないわけで…
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