食事をする
働き出してから、自分の選択がよかったことを認識した。娼館は下働きは朝から晩までかけずりまわるが、基本は夜型だった。
だから私の体が多少朝に弱くてもそれほど疑問視されない。そしてヨハンの小姓と認識されたので、朝から下働きはしなくて済んだ。もちろんその分夜に働くことになっている。
血液については、ヨハンの血ばかりもらうわけにはいかないので、宴会で酔いつぶれた人の介抱の時に少しずつわけてもらっている。私は血を吸っても、吸った人間に大きな影響を与えることはできない。多少、血を吸われたときの記憶を消すことくらいはできるのは判明した。
リヘルトは高位の吸血鬼なのでそれほど血を必要としないが、私は必要とする。本に書いてあった知識とは違い、体感としては一日に100mlほど体が欲している。飲みだめもあまりできない。確かにおなか一杯400mlくらい飲めば、次の日はそんなに必要としないが、明後日になると空腹感が戻ってくる。
この娼館に来た人間が、体調が悪くなるという噂を流されたら申し訳ないので、一人の人間から200ml以上は飲まないようにしている。後はできるだけ太った人間の血を吸うようにしている。
日記にそのようなことを書いていると、後ろから「ねえ」と抱きしめられた。
振り返ると、最近仲良くなったレミだった。私がヒッチハイクもどきをしたときに三角座りしていた子だ。
レミは三人の中でも最もいい待遇で迎えられ、娼婦の侍女のような仕事を任されている。
ここにきて1週間で確かに体重は増え、レミの顔はふっくらとして美しく見える。髪の色は艶が出て、こい茶色になり、瞳の色も透き通った青色だ。
「ヒカルは今日も宴会の手伝い?」
「うん。今日は3つも入っているから」
そう、といってレミはベッドに座った。私が現在使っているのはヨハンの部屋で、ヨハンと私がベッドを使う時間が被らないので、困ることはない。
「何かあったの、レミ?」
周りと仲良くするためにそれなりに頑張っていて、今は相手の名前を呼ぶことを意識している。
「あのね、マダムヒュレムがね、あと一か月したらヨハンがあたしに『触り』を教えてくれるんだって。ほかのお姐さんに聞いたら、ほかの男の人よりもずっと優しいから、運がいいんだって」
ヨハンのここでの仕事は仕入れ人と聞いていたが、本人の言とは違い他の仕事の比重が大きい。普通仕入れ人―――人買い―――はいろいろなところを廻り大勢買って、いろいろな場所に売る。一か所だけに売るメリットはないからだ。
けれどヨハンは半年に一回くらい買い付けに出ると、一人か二人買ってくると、すぐに戻ってくる。今回の三人というのは多いほうで、レミ以外の二人が双子だったからだそうだ。
「うん」
手に持った羽ペンをいじる。先は金属の加工がしてあり、ここにきて三日目くらいにヨハンがくれた。ヨハンの同僚の大男に取られた袋に入っていた万年筆は取られたので、その代わりにくれたのだろう。
「『触り』って何かな? マダムヒュレムは少し慣れるためだっていったけど。あたし早く仕事したいな。お金もらいたいな」
何か返答を期待してのものではないのだろう。足をぶらぶらさせて、空中に言葉を投げかけている。
「そんなに痛かったり、怖かったりするものじゃない」
私だって知ってるわけではないが、安心させるために言う。レミは12歳くらいで、そんな子にする『触り』だったらそれほど大したことではないだろう。
息を吸ってはいて、心を落ち着ける。
「そうかなあ」
レミは私の言ったことをなにも疑っていないのだろう、ぼんやりとした表情のままそうだよねと繰り返した。
この娼館は町一番というが、正確に言えば王国でもかなり上位に入るだろう。にぎわいかたが尋常ではないし、こんなに頻繁にまだ娼婦として使えない少女を買ってきているのだから金銭も豊富だ。
営業時間は昼の3時くらいからで、ちょうどそのころからぽつぽつとお客が来る。5時過ぎから宴会が入ってくる。宴会に使える様な広間は三つくらいで、娼館で料理は作れないので、近所の料理屋が作ったものを運んでいる。お酒は娼館が出す。
宴会は6人くらいからだが、気に入った娼婦がいるとその場で上に上がる。宴会の客はそのような感じで、他のお客は娼婦だけ買いに来る。
私は人前で料理を運んだり、歌ったり踊ったりしないが、一階の厨房から料理を宴会場まで運んだり、お酒を運んだりする。
その日も6時ごろから宴会が始まったので、、両手に料理を持って、広間に行く。入り口あたりで料理を女に手渡し、空になった皿や器をしたまで運ぶ。宴会といってもそれほど続くわけではなく、わりとすぐに終わる。
空になった器を持っていると、酔っぱらった男が、娼婦にもたれかかるようにして出てきた。顔が見えないように頭を下げる。
「あとで上に残りの酒持ってきて」
顔を上げて、娼婦の顔を確認する。
「はい」
返事をする。宴会の後片付けは私の役割だ。他の下働きをしている少女たちは部屋で香をたいたり、娼婦の体をぬぐったり髪を整えたりと大変なのだ。
8時ごろから、4、5人客を取る女の人もいるから、そのたびに体をぬぐい髪を整えると大変な忙しさになる。
広間には酔いつぶれた客が一人二人残っている。3つも宴会があったためか覗いていくと、全部で5人ほど、いびきをかいて寝ている。
この人たちは広間を貸し切る分とは別に割増料金を取られる。部屋を掃除し、残ったお酒は器に入れて、指示された部屋まで持っていく。残った料理は下働きの子達が食べるので、残ることはない。私も食べた。血以外にも人間の食事は必要とするし、食べなければ不自然だ。
気が付けば、12時頃になっていた。三つの部屋を確認し、二人目覚めていたので、水を飲ませる。
売れ残っていた女性に来てもらうと、二人とも上の部屋に行くことにしたらしい。真夜中でやっと客を取れた女性は疲労のある顔で「水差しを上にもってきてちょうだい」と私に言う。
客が多い人ほど疲れていず、逆に少ない人ほど疲労の度合いが強い。不思議であるが、そうなのだった。
私は水を持っていってから、少し廊下で一息ついた。この娼館は下働きは多く人数も多いが、行き届いていない部分も多い。私が宴会担当になってからまだ一週間かそこらだが貢献している実感がある。
もしかするとこれがやりがいか、と一人で笑った。
今この三つの広間がある奥の廊下は真っ暗で私しかいない。しばらくそうしてから、広間を覗く。
灯りを消しているので真っ暗だが、吸血鬼になってから夜目がきく。少し小太りの男に近寄る。たとえるなら水で豚肉をゆでた後の残り汁という感じの匂いがする。
薄く味もないが、油の味がする、そんなにおい。
そっと近寄り首筋に顔を埋める。噛みつき、牙から麻酔を出すイメージで記憶に残らないようにする。飲んでから、また違う広間にうつり、もう一人飲ませてもらった。
暗闇の中で口を拭っていると、頭の片隅で声が聞こえた。
『暗闇で人知れず血をすする。まるで卑しい暗獣だ』
リヘルトの声だった。そこにある果てしない侮蔑に血が凍る。リヘルトはもちろんそんなことを言っていない。もしかするとリヘルトは私の居場所くらいは見当がついているのかもしれない。けれど今の状況までは知らないはずだ。
これは私の言葉だ。
広間から出て、そこに座ると、廊下からヨハンが歩いてきた。
「美味しかった?」
優しくそう聞かれた。今まで生きて感じたことのない感情が沸いてきた。
誰にいじめられても、誰に捨てられても、誰に選ばれなくても感じなかった感情が沸いてきて、答えられなかった。
しかし私の動かない表情は雄弁にその感情を示したのだろう。
ヨハンは暗闇の中で、かすかに笑った。
「君は食べることが屈辱なんだね」




