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リズベルト・シンソフィーの冒険  作者: 阿江
第2章 孤児院
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外伝 夢に見る花


人の感情への想像。




 どこか遠い頃俺はやはりそれなりにまともにやっていたのだろう。

 早朝、彼女が設定してくれたアラーム音で目を覚まし、胎児のように身体を丸め、会社へ行きたくないなと一人考える。

 しかし俺にはそんな勇気も、そして思いがけない休日を充実しきる自信も無かった。


 会社へは地下鉄とバスを使う。学生の頃は自転車で通っていたから、朝の通勤ラッシュには新鮮ささえ覚えた。慣れると、身体が拒否反応を示し、乗車中はイライラする。

 バスで大学生が座っていると首を絞めたくなる。朝から学校へ通うのは結構だが、お遊びなのだから社会人に席を譲れ。大学生は一目見ただけで判別が付く。


 会社は好きではなかった。先輩の中には社畜を公言して憚らない者もいたが、正直自社はそんなに酷いところではなかったし、その先輩も残業など週3日、中途半端に甘い会社だった。そして、大半は俺らはまだマシという連帯感を共有していて、程よい数の飲み会と行事とで結束されていた。


 会社に慣れると彼女から結婚の催促をされ始める。そんな時の彼女はハッキリ言って、女と言う感じがして苦手だった。

 押し切られ年貢を納めた先輩は、中途半端な忠告をする。それなりに面倒は省かれるが、しんどいぞと。子供は嫁に洗脳されるから、諦めた方がいいとまで言われる。


 しぶり続けると、彼女の親に結婚すると勝手に話が通されていた。

 それにもういいか、と自分の両親に話しにいくと、家に祭壇があった。



 まったく俺は知らなかったが、どうやら近所に宗教団体の施設が造営されていたらしい。

 母は知らぬままその宗教団体の信者が牛耳っている料理教室に通い、付き合いで一度講演会に行くことになったらしい。

 父は一度そういうところに行けば終わりだと、忠告したが、付き合いではどうのもならないと突っぱねられたらしい。

 そしてどういうわけか父も付き添いで行くことになった。

 そこから間違いだとどうして気付かないのだろう。

 無論、魔法をかけられたのごとく両親は上手に信者に取り込まれた。


 

 瓦解は始まっていた。

 最初は彼女に相談した。俺では手の打ちようが無い問題だったからだ。無言で聞いていたと思ったら、そんなの分からないわとハッキリ告げられた。

 早々に宗教から縁を切ってほしい、とまで言われた。

 縁があるのは俺ではない。


 会社の先輩など親身に考えてくれるわけが無かったが、酔った勢いでついと口を滑らせてしまった。

 半笑いで、宗教に嵌った叔父の破滅の話しを聞かされ、最後にそれくらい危ないからな、と気持ちだけ付き足してきた。


 様子見に実家へ戻ると、異臭がした。

 どうやら母はもはや家事をしていないようだった。そしてまだ多少まともな父親からおもむろに借金の話を切り出される。

 おかしい。おかしい。俺の家はまともだったはず、



 その話をして、私に何を言ってほしいの。例えば私に借金があったとして、貴方は一緒になろうと前向きになれるの。

 流石に前向きにはなれないけど、結婚するよ。

 ……そんな話してないでしょ、普通はそんな話しないでしょ、黙って別れ話するに決まってる。貴方はいつも自己中心的でしょ。普通苦労させ無いために、借金があれば。

 ……結婚したくないんだな。

 そういうことじゃないでしょ。私の責任にしないで、なんで貴方ってそうやってすぐに責任転換しようとするの。私も親に結婚のこと話したのに、それに親だってちゃんと期待しているの、相手が借金があるなんて言えないのに。

 ……分かった別れよう。

 もう26よ。貴方のせいで4年間無駄にしたわ。

 悪かったな。他の誰かに責任とって貰えよ。


 電話は唐突に切れた。もう二度と掛かってこない自信があって、あと二人くらい付き合って振られた彼女が友人に自分がダメンズウォーカーだと自称している姿が容易に想像できた。



 何故かアラームが鳴らなくなり、俺は会社へ行けなくなった。元々物ぐさな性格だったから一週間無断欠席をして、ある日電話が掛かってきて言質を取られた。

 首になったようだった。一週間で切られる俺は仕事が出来ないとみなされていたのだろう。

 まあ事実だとは思う。


 そうして俺はいつのまにか貯金を全て両親に奪われ、縋ってくる二人がどうしようもないことに気付き引っ越そうとしたとき、今手元にある金が2万だと気付いた。


 ネットカフェは昔から好きだったが、暮らすとなると色々問題があった。そして日雇い労働者になる勇気がもてない俺はいつのまにか金が尽き、そしてホームレスになった。


 もはや自分が底辺になったことで、意外と日本の経済構造の浅さを垣間見た。俺は向き不向きで言えばホームレスに向いているんだと思う。

 大抵は空気のような扱いで、偶に馬鹿にされたり迫害されたりするが、無関心な軽蔑は簡単に無視することが出来た。


 まるで流れるようにホームレスの住み着く公園に流れ着き、そこでそこらを縄張りにしているホームレスにお目通りした。

 底辺なのにそこでも上下関係が生まれることは、余りにも浅ましかった。仕事も色々といってくれるが、空き缶拾いは流石に遠慮したい。

 お世話になっている立場であるが、それが例えば次の炊き出しの場所やトイレの使い方など、正直一般的な感覚から言えばクズのようなモノなので、感謝の念は持ちようが無かった。


 だからなのか、死んだ目をしたホームレス何人かに囲まれ、聞き取りづらい言葉で、あんたはここらのルールはわかっとらへんと、ぼそぼそとした詰りを受けた。

 ここに来た当初に、どこかの風俗店のフィリピン女と籍を入れていたためそれなりに金はあったが、仕方なく働くことになった。

 しかしだんだんとホームレスどうしの馴れ合いに俺は吐き気すら覚えるようになった。

 結局、ホームレスのメッカから外れたところで住居を構えることになった。




 何年か経ったとき、残るのがこの身になったとき――――遠い過去の思い出がよみがえった。



 俺が会社でまともであったころ、確かに俺は至らなかった。でも、ここまで戸籍すら無くすほど、落ちる理由があったのか。

 学生時代、それなりに友人がいた。あいつらはこういう世界のことも知らないだろう。一歩道を外すと何があるのか考えたこともないはずだ。

 あいつらは普通に会社に通っている。それだけで人生はまともだ。



 公園で水を飲んでいるときだ。若い女の声が聞こえた。



 トイレの裏から除き見ると、制服を着た女が何人かの人間に囲まれていた。女も男も入り混じった集団はある種特有の歪んだ醜悪な顔を晒していた。

 見入っていると、集団の女で、前髪をピンで留めでこを顕にした女が、囲んでいた女の足を軽く蹴った。そして集団同士で何かを話し、中の一人の男が囲まれている女の前髪を引っ張り膝をけり、跪かせる。


 虐めか。珍しい場面に遭遇したなと言う思いで、俺は近くに寄った。流石に長年の経験で分かっている。

 学生は大体三種類に分かれる。

 露骨な好奇心のまなざしで凝視する人間。全くの別人種だと認識している。


 好奇心はある癖にチラリと、俺達ホームレスに気を遣っているのか一瞬だけ見てくる人間。

 同情しているのか、何なのか。判別しづらい。


 もうひとつは完全に空気だと全く眼中に入っていない人間。

 この学生達はこれに入るらしい。


 しかし、俺は囲まれている女を判別することは出来なかった。彼女は目を伏せていたためか、まったく何を考えているのか分からなかった。そうゾッとするような無表情だった。


 苛められている人間というのは、もう少し悲惨な顔をするものではないのだろうか。

 というか、綺麗だな。


 苛められる人間というものがいるのかは分からないが、どちらかというとそういうのが似合わない人間に見えた。

 例えばハードカバーの小説に出てくる主人公――まあ陸上部とか明るい感じの体育会系の部活に入っている少女が憧れ半分、妬み半分の尊敬を向ける落ち着いた文学派の姉に見える。

 何もかも見透かしたみたいな。


 彼女を囲む面々は彼女と同じ制服を着た面々と、何人か私服を着た不良崩れのような男に分けられ。

 彼女の前髪を引っ張っているのは不良崩れの少年だった。

 少年は強張った表情で、彼女を見つめていた。

 彼女は目を伏せ、まったくもって少年を眼中に入れていない。

 無論ホームレスの俺も。


「くそ女。お前のこと嫌いなやつ多すぎて笑えるわ」

 少年の言葉に、笑いが広がる。でこを晒した少女が、まるで何かをどかすように足で少女の頬を蹴った。

「アユ、顔はやばいだろ~」

「いいじゃん、こいつ顔は結構いいし」

「はあ何いってんの! 頬骨出てるし、ブスだろ」


 頬骨は痩せてるから目立つんだ。

 ブスどもめ。と俺が思っていると、いじめられている少女が初めて顔を上げた。

 改めて、何も映していない目だった。けれど、美しかった。

 

 おれが何もなく、死のうと思って、見上げた夕焼けよりも美しく静かだった。

 少女は何も言わず、その目で自分を蹴り殴る人間を穏やかに見ていた。瞳には恨みも憎しみも悲しみもなく、だからといって優しさがあるわけでもない、ただただ穏やかな無関心さがあった。


 さすがにそこまでの『雰囲気』を出されて、暴力をふるえる人間はいなかった。全身体をこわばらせて、少女を見ている。

 少女は「ごめんなさい、許して」といった。


 見ている俺でも、それが検討違いで場違いな言葉だとわかった。

 しかし、あまりにもそれが卑屈さもただ暴力をいやがるものではない、きれいな響きだったから。


 俺は、俺は、まるで自分に言われたきがした。


 無慈悲な女王。世界が汚く理不尽で腐れきっていてこんなにも辛いものなのに、一人だけ美しく穏やかにほほ笑んでいる無関心な女王。


 でもその無慈悲な女王こそが、地獄に生きているのだろうと、その光景を見て思った。

 圧倒的な相手の無理解と無関心。一人だけ全く違うステージで生きているからこそ、何も手に入らない。


 俺とは違う、でも俺とは同じだ。

 絶句する、少年少女たちのもとに俺は走った。少女のきれいな手と、俺の汚い手を重ねた。握って走った。


 少女はいきなりホームレスに手をつながれ、走っても表情を崩さなかった。俺についてきた。


 公園の近くの図書館の脇で、俺は息を整えてから、「なんで謝った……? あんなやつらに」と聞いていた。

 少女はしばらく俺の顔を見ていた。偏見も何もない、彼女はいつも誰でもこんな顔で接しているのだろうと思う顔だ。

「どうしてそんなことを聞くのですか?」

 少女は静かに問いかけた。

「おまえは」

 俺は何故そんなことを問いかけた分からなくなっていて、言葉に詰まった。

 少女は俺を見ていたが、ちょっと笑った。それは初めて、人間味のある、優しげな顔だった。

「いんですよ。何も。いいじゃないですか」

 少女は楽し気な口調のままだ。そして俺をじっと見て、ささやいた。

「いいじゃないですか。そうでしょう」

 そこにはなにかたぶらかすような色気があって、俺は魅入られたようにうなずいた。


 そこから交流が始まった。

 少女は言った。俺がもし、今のような生活を好むなら、放っておくが、そうでないなら助けましょうかと。


 そして俺は、彼女に助けてもらった。

 彼女が、NPOに連絡し、俺の近状を語り、助けてくれた。



 そして、俺は彼女に忘れられ、会うこともなくなった。



 だから、彼女の死を知ったのはそれから一年たったときだった。


 俺はなんとか働いていて、そしてネットを見ていた。ちょうど一年前の今日、彼女は事故に巻き込まれて死んだのだと。


 ネットに乗せられている彼女の写真は制服を着た硬い表情のものだった。けれど俺の夢にみるそのままの姿で。


 そして彼女が幻の存在ではなかったことに安堵した。

 

 涙がこぼれた。そして誰にも決してわからない感情だろうが、確かに俺はほっとしたのだ。


 もう彼女はおれのものなのだ、と。







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