外伝 静かに進むもの
妊娠について気分の悪い記述があります。
商家に勤められたのは、お母さんの御かげだ。ジェシーやミーナが馬鹿ばかりだった、というか私も大して頭が良いわけではなかったけど、私に特別計算を教えてくれた。実際私が長女だったからかもしれないけど。
お母さんが希望していたのは、商いにかかわる仕事だったけど、結局ジェシーやミーナがお腹を膨らませるときになってもそんな仕事は見つからず、私は仕方なしに毎日内職をしていた。結局お母さんが持ってきたのは商家の女中仕事で、釈然としないままに一八歳にして初めて仕事に就いた。
シンソフィー商会。前からお母さんが目を付けていた商会だった。
高級住宅街であるところをウロウロしてようやくその邸宅に着いた時、思わず「おおー」と無意味に声を上げてしまった。
そして正面の門を叩いて、出てきたのは黒服の老人で、「女中見習いに来た――」と名乗ると、礼儀正しく私を年嵩なの女に引き渡した。
「正面から女中は入ったらダメ。事前に連絡したはずだけど、それも覚えていないの? それに普通に考えれば、主人様と同じ扉から女中が中に入ることができないことくらいわかるでしょう。服は? なに、それ。田舎から出てきたおのぼりみたいな恰好。ここの女中が田舎ものばかり雇っていると思われたらどうるの」
無表情で淡々と言われて、呆然と聞いていたが腹が立ってきた。怒っている様子をみせたら、そんなに腹も立たないけど、無表情で叱るのだ。
「服くらい、自由でしょう。最低限清潔感はあるつもりです」
ぴたりと女は足を止めた。無表情でじっと私の顔を見る。ぐっと眼を据える。
「服くらい? あなた今から、商家に勤めるのよ」
「分かってますけど」
「印象も立派な売り物なの。どうしてあなたが女中の見習い分際で、その価値を落とそうと思えるの。ねえ貴方何様のつもり。服は自由? 馬鹿にしてるの。貴方がどうして自由を持てるの。この家で自由があるのは当主様だけよ。貴族はすべての血族に、自由と言う権利が与えられるけど、商家に与えられるのは当主様だけ。貴方は何にも、このシンソフィー商会の枠の中では何の権利も権限も持たないの」
「それは、そんなの」
「もう、話す時間はないわ。貴方が徹底的に商家のものになる時間が始まるわ」
これじゃあ奴隷だ。
と、骨の髄まで思い知らされて、二週間。私はそれでもあの女、メリッサに目にもの見せてやるという気概だけでかじりついていた。周りにいるのは、もはや完全にメリッサに調教された奴と、田舎から出てきた心底真面目な奴、あとは意味分からないくらいに天然な女の子。
他の商家はどうなのか知らないけれど、この家においての権力者は当主様一強だ。正妻はいるらしいが、その人は田舎で暮らしているそうだ。その人の子のアンネと言う少女はここに住んでいて、割と女中の中で人気だ。でも皆、少女に嫉妬していてそれがばれたくないから、皆の前で『かわいいこよねえ』とか言っている。醜いなあ、だけど当然私もうらやましい。
金持ちだし、まあまあ容姿もいいし。いっぱいドレス持ってるし。
ここで生まれてたら、変わってた? はい。
こういう暮らしを見ている女中たちは知っているからこそ不幸だ。夢を見て、当主様のお客に色目を使ったりしてすぐにメリッサにばれて叱られるし、場合によってはやめさせられる。
だから私はそんな馬鹿な同僚を笑うだけで自分を満足させて、うっぷんを解消する。当主様の側女の方々の残した菓子とかを摘まむぐらいで、幸せを噛み締めとけばちょうどいい。
しかし仕事に慣れて、メリッサに口応えが出来るころになって、この家のもう一人の主人を知ってしまうのだ。
この家にはもう一人当主様の娘がいる。名前はリズ。まるで化け物みたいな色彩をしていて、天然娘でさえ「呪い」とつぶやいた。この家の一番の浪費家であり、そして「当主様も逆らえない」なんていうばかげた噂まで付随する。
皆が馬鹿にしていたイブと言う獣人。けれど私はこの女が怖かったし、良く分からなかった。その存在が娘の侍女のような存在と知って、自身の勘に感心した。
そしてある日を境に、私たちの生活は一変する。
問題だ。彫刻のようで、信じられないくらい――見ようによっては醜いと思えるくらい――の美少年が突然仕事場に来たら、どうなるか。
混乱、を通り越し皆が静かに静かにおかしくなっていくのだ。
少年は美しくて、正直その少年が欲しくて涙した夜もあった。たぶん女中のほとんどは私と同じように、泣いていた気がする。恋とは違う、どうしても欲しい感覚と言えばいいのだろうか。
しかし少年は確然と、ある一人の人間のものだった。リズ、そう名のつく幼女のものだった。
少年の美しさはリズの前でだけ卑しさが漂い、そして浅ましかった。けれど、それがその様子がとてつもなく色気に満ちていて、跪きたくなる。
リズは少年を買ってから、よく外に出た。そして庭で当主様だけが飲む最も高級なお茶を飲み、側女たちが食べれない遠方の果物を一口食べて、ゴミのようにイブや少年にやった。私はリズの食事の給仕の為、何度かそばにいる。
「いらないから、食べる?」
二口くらい食べて、幼女は皿を横にやる。二人は褒美に目を輝かせる。そして地面で食べる。それをリズはまさに犬に餌をやる要領で、ちらりと見た後はぼんやりとお茶を飲みだす。
当主様とリズの食事だけグレードが違う。それをリズの自室まで配膳しながら、よく可笑しくて笑いがこみ上げた。
「なにこれ」
よくそう呟いて。自分で笑った。そう、ただの食事だ。
ある日同僚のメリッサに調教された奴が、「私好きなの」と言った。「何が?」「リヘルトが」
「ふざけてるの」
思わず吹き出すと、真顔で「好き」と答えられて、笑いをひっこめた。
「好きって、言ったてどうしようもないじゃない」
「大丈夫。足舐めさせてもらうだけだから」
そんな平穏なある日、天然娘が奴隷と子供をつくった。乞食のような男で、常に鼻から膿を出していて、足は枯れ木みたい、目なんてもうびっくりするくらい黒目が小さい。
天然娘はにこにこ乞食と手をつないで、職場に挨拶しに来た。
「いきなり、すみません。でも子供が出来たので、仕事辞めます」
照れくさそうに紅い頬を掻いて、お腹を撫でる。ぽっこりとしているものが、隣の乞食との『愛の結晶』だと思うと、心底恐ろしかった。ああ、人間の普通の女がこんな底辺の男と結婚しなければいけない場合があるのだ。恐ろしい。こんな男と子供をつくらなくてはいけないなんて。
「これからどうするの?」
メリッサは冷静に聞いた。
「この人、病気で働けないので産んでからは、彼のお店で働くんです」
「何をなさっているんですか?」
メリッサの質問に、乞食はどぅうううと鼻を啜って急き込んだ。天然娘はその様子を微笑んでみている。
「もう。安心させるために嘘つく約束じゃない」
簡単にそうばらし、「あてなら、あるんです。だって私まだ若いので」
少年のせいで狂ったかは分からない、でもそろそろと私の背後にも何かが忍び寄る気配がする。




