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リズベルト・シンソフィーの冒険  作者: 阿江
第2章 孤児院
44/63

3時間

「クライさん、少しいいですか?」

 シーに呼び止められて、クライが振り返ると、泣きそうに顔を歪めたシーがいた。


「ええ、どうかされましたか?」


「すみません。相談事があって」

 シーは俯き、僅かに唇を震わした。その姿をクライは僅かに目を細めて見つめ、落ち着いた明瞭な声で、「聞きますよ」と返事をした。


 二人が院長室へ向かうと、シーは執務机の引き出しからギュライザー子爵からの手紙を取り出した。クライは手紙に封蝋の跡が残っているのを見咎め、この件が貴族関連のものだとあたりをつけた。

 シーは手紙をクライに手渡し、上目で窺い見る。

 骨ばった長い指でクライは一枚一枚文書を丁寧に読み、「ギュライザー子爵は確か少女趣味でしたね」と溜息をついた。


「はい。それで、どうしましょう……。この孤児院には少女が多いですし」

「サラビアさんには?」


 シーはぐっと歯をかみ締め、視線を窓の外に向けた。瞳は様々な色を持ち、複雑な感情を織り交ぜていた。


「話しましたよ。……でも駄目でした」

「しかし」


「あの人はとても頼りになります」

 そう言ってから、シーは消え入りそうな微笑を口に浮かべた。


「とても頭のいい人で、処世術も凄くて、私なんか敵わないんです、孤児院の経営とか、子供達の面倒を見ることとか、全然敵いません。理性的で的確で」


「何かあったのですか?」

 堪えるように口を引き結んでいたシーは感情があふれ出すままに、口を開いた。


「私の幼い頃、まだ10にもなっていない頃。この孤児院はミサ様の保護を受けていなくて、とても貧しかったんです。その頃の院長は小さな商家の末娘で、教育を受けて、優しい人でした、気が弱いところもありましたけど。その前からサラビアおばさんは相談役をしていて、正直、全て取り仕切っていたのは、おばさんでした」


「その頃凄く憧れているお姉さんがいたんです。優しくて、明るくて、近くによるとぽかぽか胸が温かくなる――太陽みたいな人でした。……孤児ってやっぱり、酷い経験をしたりするから、屈折した子が多いんです。でもあの人は違ったんです。本当に、凄く優しい人でっ……」


「そして、残念ながら――美しかったんです。ギュライザー子爵とは別の、ヘニファ辺境の有力者の子爵が執着するくらいには」


 力なく笑う生真面目な女は、疲れているように見えた。クライは話の展開が大体読めていたが、何も口を挟まず、静かに頷いた。


「サラビアおばさんはどれだけ圧力をかけられても、決して屈しなかった。その姿は凄く凄く尊敬できるものでした。


 だけどお姉さんは子爵に売られました。呆然と何故、と聞くと、サラビアおばさんは『一人を犠牲にすれば、他の子が救われるからよ』と言いました」


 シーの脳裏に、幼い頃の自分の叫び声が蘇り、心が軋みをあげた。


「『でも、ずっとおばさんは子爵を追い払ってくれていたでしょっ』、返事は明確なものでした。

『そのほうが価値が出るからよ、シー。簡単に手に入るものなぞ、誰もありがたがらないのですよ。分かりますか、シー、最初に子爵にあの子を渡すと見返りは無かったでしょう。しかし一年、苦しくても子爵の嫌がらせを耐えることで、あと数年孤児院は子爵の援助を受けられるのです』」


「あの頃は分かりませんでしたが、あと数年というのはお姉さんがまともに生きている期間だったと思うんです。サラビアおばさんは冷静に計算していたんです。お姉さんの心が命がどれだけ持つか」


 腐っている、シーは吐き捨てた。尊敬している人間を、そう喩えることに罪悪感とも取れない後味の悪さがあった。分かっているのだ、おばさんのお陰でこの孤児院は持っている。もし居なかったなら、ただ搾取される地底に堕ちていただろう。

 そしてクライは、それを腐っていると思えなかった。


「クライさん」

 縋る女に、クライはいつもの如く髪を梳いた。髪に触れた骨ばった白い手に、シーは体を強張らせたが、ゆっくり力を抜いた。


「アリスさんは隠しましょう。あの子は目のひく外見をしていますから」

 コクリと頷く様子を柔らかな目で見つめ、もう一度指で髪を梳く。シーは戸惑いがちにそれに身を任せた。


「すみません。いつも頼ってしまって」

 俯き加減の言葉はくぐもっていて聞き取りにくい。シーの耳朶に脳を蕩かすように甘い声が掛かる。


「よろしいと思いますよ。何も一人で抱え込むことはないのですから」

 その言葉に、何かが心から零れだして、感情が緩められた。シーは薄く涙の張った瞳を美しく染めて美しい男を見上げた。何かが堰を切って、ああもう、とシーは呟いた。


 

 小さな自室でクライは目を瞑っていた。寝台に横になってから3時間近くたって居たが、眠れそうに無かった。

 胸を掻き毟りたくなるような飢えが脳髄を支配し、何か指示していた。今隣に居る女児の白い肌と黒い瞳の全てが欲しく、それを授けてくれないかと希求していた。はやく会いに行け。声を聞きに行けという指示。眠れば、一瞬で夜は開け、自分の主人に会いに行ける。ああだから早く眠らなければ、焦りは体を硬くした。

 また自分と同様の立場で主人と寝室を共にしているリヘルトに対して、羨望を抱く。自分なら、仄暗い室内でいつまでもあの姿を眺めている。夜明けの光に照らされる姿を想像して、欲求が強くなった。


 主人は自分よりもあの少年を愛している。あの少年を寵愛している。自分に対するどうでもよさそうな態度と、少年に対する冷たい態度、奥にある感情は全く違うのだ。


 これだけ尽くしても、愛していても、まったく何も返ってこないことが、クライの心を麻痺させる。


 もう、いいように思える。自分のことをどうとも思っていない人間のために、人生を、自分を、食潰され、消費され、浪費され、壊しつくされる。


 それが嬉しい。何も見返りがないのを分かっていながら捧げ、主人に捨てられ碌な未来がないだろう自分の身が一瞬でも主人の傍に入れることが嬉しい。


 今日、投げ捨てられる覚悟で言った言葉が、主人に受け入れられた。一見、情報を渡す代わりに、何か見返りをくれという言葉は、まったく意味が異なった。


 情報如きで、主人が何かくれるとは思わない。

 だから今まで当たり前に耐えていたものをこれからも捧げ続けるから、何かひとつ要求を聞いて欲しいとそういう意味だった。権利などという小賢しい言葉を、主人は気に入らないだろうと思った。


 無理だと思っていた。人生を捧げても、何も返ってはこないのだと思っていた。

 

 主人は当たり前のように、受け入れた。

『取引でしょう? 公平だと思うけど』。


 公平な取引。大多数は笑うのだろうとクライは思った。一人の教養ある若い男の人生と幼い少女に対するひとつの要求。それが少女の中では公正で正当な取引になってしまうのだ。


 だけど、クライは嬉しくて仕方が無かった、どうしようもなく。自我が瓦解するほど。

 人生を捧げて、やっと願い事を一つ聞いてもらえた。


 そして公平だと、そう喩える神経をもった彼女が、自分の要求を叶えようとしてくれるのは、人生をいくつ捧げていいと思わされた。




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