経過
リヘルトと、孤児院の少女達とのいざこざが発覚してから3日経った。
リヘルトに関してずっと気になっていたことがある。
生まれ変わるときに、草原の少女はリヘルトのことを『リヘルト・ドール』と呼称したのだ。
「そういうことだったんだ」
私はあの時、なんとはなしにドールを省いて呼んだ。
古く黄ばんだ紙の書物。滅多に手に入ることのないらしい本は、『名』に関する本だ。
この世界では名前を重視すると言うのは、家を出たときに学んだけれど、あまり詳しく調べようとは思わなかった。
しかし何の意図か、ここに来るときにクライが王弟から受け取った本の中に紛れ込んでいた。
【ドール 真名の末尾に付けられる付加系の名で、最上級の隷属名。他の付加系の名と同様名霊図で確認できる。吸血鬼の術の一種であり、詳細は不明。術をかけられると、自身の意思では行動できない。この名が付いている人間は『死』さえも操られる】
名霊図というのは、生まれたときに付けられた名ではなく、生きている間に付いた業や術から発生する名を調べるためのものらしい。
ドールというのはおそらくこれのことだろう。
今のところ、リヘルトは誰かに操られている様子を見せない。ということは今はまだリヘルトということなのだろうか。
机の上で頬杖をついて考えていると、扉がノックされた。
許可を出すと、入ってきたのはリヘルトだった。あの出来事で一度叱ったが、それからは何も言っていない。用事以外は何も。
彼の顔は俯き加減で肌は青白く、赤の唇は白い皮が浮き、乾いている。
上目で慎重に私の顔色を窺ってくる。
繊細に整った顔を眺める。何故、あんなことしたのだろうか。
沈黙の中、リヘルトの唇が僅かに開き、閉じた。
「何か、用事?」
久しぶりに声を掛けた。
「あっ、りずさま……リズ様は……リズ様は……りずさま」
聞き取りづらい言葉を呟いた後、何かを探すように名前を連呼される。美声であるからこそ、その平坦な調子は、不気味だった。
分からない。この目の前の少年のことが分からない。
私のことを尊重して、あるいは大切に思ってくれていた。彼は確かにおかしかった。おかしな部分はあっても、いうことを聞いて学ぶと決めてくれたから。
首を振った。
「リヘルト、何故あんなことを」
問うと、ぼんやりした顔で返事がくる。
「……リズ様が、俺のこと相手にしてくれないから」
赤く潤んだ瞳。濁っていたけれど、どうしようもなく似ていた。私の憧れた純粋な人々の目に。
縋られている。ここしばらく憔悴していたリヘルトはたぶん限界だったのだろう。
それは子供の我儘みたいな――そう初めて私に気を遣わない言葉だった。
リヘルトは呆れられると恐れながら、私の服の袖を気を遣いながら握っている。
リヘルトの孤児院の少女への行動は、クライから聞いた。
吸血鬼、その存在の食事が『血』であることを私は把握していた。ちゃんと分かっていた。普通は私が食事を与えるべきだったのかもしれない。ただ、幼い私では安全に問題が在ると父に言われ、食事に関しては父が取り仕切っていた。
たぶん無責任だったのだろう。
そして、孤児院に移ったときクライに相談し、リヘルトの食事は近所の人間に交渉してくれるように頼んだ。勿論、リヘルトが吸血鬼で、血を吸う者だとバレてはいけない。どうしたものかと思ったが、どうやら吸血鬼には催眠能力があるらしく、それでどうにか誤魔化せないかとなった。
これは少し不思議だったけれど、どうやら赤い目イコール吸血鬼とは大抵の人は思わない。
ロニィという人があっさりと教えてくれたため一般的に広まっていると思っていた。そのため色々と考えていたりしたのだが、無意味になった。
どう交渉したのかクライはそういう人間を見つけたらしい。私がそのときリヘルトが『ヴァンピルア』だと伝えると非常に驚いていたので、『ヴァンピルア』と『ヴァンパイア』の違いも認識されていない。私はその原因に薄々気付いた。
この世界では情報が一部のものだけで独占されているのだ。
有力な奴隷商のもとで働くロニィという獣人が当たり前に保持する情報、しかしそんなことを知る人間はこの辺境にはいない。
これは意図されたことではない気がする。あまりにも生活のステージが違うからなのか。
それはともかく、クライは都合よくリヘルトの食事の世話を付けてくれた。クライが婉曲に伝えてきたが、どうやら娼婦を買って、その人が血を提供してくれているらしい。
その人からしたら、眠っている間に色々されているという認識なのだろう。
そんな認識だったからなのか、リヘルトが孤児院の『少女』の血を吸い、そして身体の機能をおかしくさせたとクライから聞かされたとき、吐き気がこみ上げた。
ヴァンピルアは普通の吸血鬼とは違う。血を吸って、成らせようとすれば、人間をヴァンパイアにすることが出来る。
強力な種であるが故に、どうやら意図せずとも血を吸うだけで、対象の身体が吸血鬼よりになり、精神の弱いものなら支配下に入る。そして身体が血を吸われることを求めるようになる。
知らなかったでは済ませない問題だ。
酷く憔悴した顔をしているだろう。そんな顔のまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。見たこともない遊具、面白そうな農具。果物の木が実っている。
自分自身に吐き気がした。
知らなかったでは済ませられない。
何故ならそのことをクライは知っていたのだから。リヘルトがヴァンピルアであることは知らなかったようだったけれど、クライはリヘルトに血を吸われればどうなるか知っていた。
私が違うことに気をとられている間に。
リヘルトは責められるべきだ。でもそれ以上に責められるべきではないとも思う。
なんでいつもこんなことばかり起こる。私は普通より頑張っているはずだ。言い訳だけど、私がふと見落としたものが、最悪な結果になって帰ってくる。
私はちゃんと色々配慮してやっていて、リヘルトのことも精一杯していたつもりだった。
女性騎士への態度を叱ったり、リヘルトが無意識的に人を蔑視するのをそれとなく注意して、クライに頼んで教師をしてもらって。
泣きそうな、リヘルトの瞳。
脳裏に薄い青の瞳がよみがえった。
『謝らないのね、貴女は』、鼻に掛かった声と喩えてもいいような甘い声だったけれど、どこかしっとりしていて柔らかだった。
謝らない? 何で、何で私が謝るの。私に問題があったのは確かで、でもそれは私がしたことではない……!
次に言われたのは『責任責任、いつもそういうことで何かを計っているの?』、人を押しつぶすかのような。
人に責められるのが苦しい。
謝らなかったのは、辛かったからだ。自分がしたことではないと、そう弁護して、たぶんそれは正しい。けれど私に責任がある。
謝ることは出来ないから、態度で示そうと思って、また謝ることで許してもらえるというような甘えた態度をとるわけにはいかないと思って。
責任、をとらなければと思った。だって、リヘルトのことで私には責任の一端があったから。
そういえば、この世界に来てから私は何度責任という言葉を連呼しただろう。
イブ、リヘルト、父。
手が小刻みに震えた。
いつもどおりにすればいいと言い聞かせても、震えが止まらない。
カヤという少女。
娼婦に関していえば、血を『直接』吸っていないからまだ大丈夫だという。だけど孤児院の少女は別だ。首筋から血を吸ったという。私が知らないだけでリヘルトはそういうことをしていたかもしれない。実際、苛立って、幻覚で人を脅すのだから。
じっと考えて、一つの案を導いた。




