責任
アリスは一歩、身を引いた。鼻を掠める血の芳香が、アリスの胸の苦しさを増幅した。
この少年は、何者なのだろう。
リヘルトという名前の少年は、佳人と喩えてもいいような美しさを具えている。アリスはそっと無表情で佇む少年を窺い見る。
どことなく無気力そうにも見える。アリスにしてもリヘルトの内心は推察できない。
リヘルトの視線はアリスを通り越し、後のカヤに向いていた。
ゆるりと手を持ち上げ、リヘルトはカヤを手招きした。予想外の行動にアリスは目を見張る。
二人の間に何か関係があったのかと思い出してみても、心当たりは欠片も見当たらない。というより、リヘルトは誰とも関わらないのだ。そしてカヤも孤児院の子供にも決して気を許そうとはしない。
――アリスにとって悲しいことだが。
後でフラリと立ち上がる気配がした。咄嗟に、カヤの細い手首を掴むが、すぐさまそれは乱暴に払いのけられた。
アリスは動揺してカヤを振り返る。
最近調子のおかしかった小枝のような少女は異様な出で立ちで、リヘルトを見ていた。
目は水分を含んだように脹れ、据わっている。身体は襲い掛かる準備をしているかのような前頭姿勢。だらんと腕が垂れている。唇の端からは唾液が糸を引いていた。
「カヤ……」
余りにも異質だった。
アリスは自分の思考を酷いものだと思いながら、事実だと確信する。
カヤは獣だ。今カヤに人間の理性は無い。
「貴方は一体」
それを引き起こしているのが、目の前の少年であることは明白だった。
無気力の美しい少年の殻が剥れ、その白く、しかし美しい黄が混じった肌から、魔物が出てくる幻覚に襲われる。
幻のはずが無い。アリスは呆然と見入った。
確かに彼の貌が割れる。目が爛々と光り、そこから血のような黒い液体が滴り落ちる。気付くと少年の目玉はなく、下に転がっている。少年の貌の奥から角が見える。
カヤの姿も変貌していた。人間の皮膚を干したような肌をした犬のような獣。耳は尖っていた。
アリスの身体がガクガクと震える。足に力が入らず、膝から崩れ落ち、目は涙の膜が張る。
怖い。どうしたというのだろう。
いつのまにか食堂の姿も変貌していた。まさに、黒い怪虫が湧き出るところだった。
「何をしてるの」
喩えるなら少女らしい鈴を転がすような声。しかしその平坦さからは子供らしさを感じられない。また疑問というよりは冷然と叩きつける言葉に聞こえる。
突然の言葉は空気を裂くように響いて、アリスは不思議と恐怖が和らいだ気がした。
アリスは声の聞こえた方に恐る恐る顔を上げた。
それは何度か見たことのある、孤児院の奥部屋に住む少女だった。いつも絵本でしか見ないような美しい衣服を身につけ、そして周囲に召使を囲っている。
正真正銘のお嬢様。
孤児院の子供達も何故この少女が孤児院などにいるのかと不思議に思っていた。
稀にしか姿を表さないので、皆敬遠していて、向こうもこちらのことを歯牙にもかけていないのか、喋ったことは一度も無かった。
その少女が入り口で首を傾げていた。
いつのまにか食堂は明るくなっていた。怪虫の影も形も見えず、またカヤの姿も犬ではなくなっていた。
怖々見たリヘルトも、元の美しい少年。いや、先ほどまでの無気力さはなりを潜め、怯えたように目を見開く少年がいた。
少女の後ろから、クライが出てくる。アリスは改めて身体の力を抜いた。
クライさんがいるならもう大丈夫だ。
「これは」
「今、聞いた」
リズという名前の少女は後の召使に目をやってから、リヘルトを見た。
「貴方孤児院の子に手を出すのは禁じられていたのに、破った」
アリスは目の前の光景を驚きと共に見つめた。話されている内容の全貌はつかめない。
ただ、自分よりもまだ随分と小さい少女の後ろで控えるクライに、その少女の圧視に耐えかねたかのように跪く少年の姿。
それは人が仕える姿なのだろうか。
圧倒的な力関係は、アリスの思考を混乱させた。
大人で優しいクライさん。わたしを緩やかに圧政したリヘルト君。
人には色々な面があると言うけれど、少女にへりくだる様はまるで別人のよう。
「それに今、リヘルト、貴方何をしていたの」
「ぁっの……。俺はっ!」
必死で弁解しようとしているのがアリスにも伝わってくる。
その様子を無表情でリズはどうでもよさそうに見下ろし、視線をアリスに向けた。
関係ないにもかかわらず、リヘルトに対して同情心が湧く。
先ほどから見ていると、リヘルトの抱く思いに比べて、少女の方は――欠いている風に見えたのだ。
リヘルトは責められることに怯えている風に見えたけれど、リズは最初から一貫して投げやりな反応だった。
そう――――少女はそれほどの関心を向けていないのではないだろうか。
アリスは自分が至った発想に、寒気がした。それでは余りにも、少年が……。
「リヘルト、とりあえず謝りなさい」
リズがアリスを見たまま呟いた。
リヘルトの顔が青くなる。どこまで自分の主が、自分の行状を把握しているか不安になったためだろう。
「アリスさん。何かされましたか」
クライが柔らかく尋ねる。それにアリスは考えてから、小さく頷いた。
そしてリヘルトの方を向く。
「さっきのは幻覚?」
か細い声が出た。アリスはリヘルトのことを責めたくなかった。
じっと俯いていたリヘルトは搾り出すように「申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を口にした。
それにアリスは胸が締め付けられたように痛んだ。
何故、こんな子を皆で。
責めるのだろう。
ふっと、リズが小さく溜息をついた。リヘルトの肩が大げさに揺れた。
「クライ、リヘルトを部屋まで連れていって」
「それでは、リズ様は」
「話すことがあるから」
何か言いたげなクライを無視する形で、リズはアリスに近づいた。
そして黙って、アリスの顔を見つめる。口を開く様子は無い。
アリスも改めてみるリズの異様な外見に気圧されていた。
白い髪。黒い瞳。アリスも自分もそうであるから知っているが、それは魔力過多による変色なのだろう。
だけどこのような形の変色は見たこともなく、非現実の様相だった。
「その子は?」
リズはそっとカヤの方を向いた。カヤはもう涎をたらしてはいなかったが、放心状態だ。
アリスは首を振った。
「わたしには分からないの。ただあの少年のせいだということは、分かってる」
「リヘルトのせい」
カヤの方を向きながらリズは繰り返す。そして僅かに口元を歪ませた。
「その子のこと、貴女に起こったこと、リヘルトがしたことだから、あの子には責任をとらせる。ちゃんと。だけど」
ゆるりと蝋人形のような細い首元がひねり、どこか暗い瞳がアリスを竦ませる。
「私にも責任はある。だからこれからリヘルトにはこの孤児院に関して、そういうことが決して起こらないようにさせる」
アリスは黙ってリズの顔を眺めた。
そして言った。
「謝らないのね、貴女は」
しっとりとした声が食堂に響く。
続けて、
「責任責任、いつもそういうことで何かを計っているの?」
それなら悲しい人、アリスは思った。
アリスの青の瞳に相対する黒い瞳は、何かを誤魔化すように瞬きした。




