家庭教師
家庭教師は、後ろでひっつめ髪にして、眼鏡を掛けた真面目そうな女性だった。
40代くらいだろうか? 法令線のあとが付いているが、目元のはっきりした美人だ。
生後半年の私を見て困惑しているのか、さきほどからずっと眼鏡を弄っている。
父は私に笑顔で話しかけてくる。この前の訪問から、時折訪ねてくるようになった。
母は来ない。寂しいとは思わないけれど、なぜ来ないかは気になるところだ。
「リズ、どうだ? 気に入ったか?」
父が私の天蓋ベッドの前で笑顔で聞いてくる。
「よろしいですか、シンソフィーさん、私は男爵の紹介だから来たんです。
私は家庭教師です。お守りは出来かねます」
イライラとした態度の家庭教師に父は目もくれず、「気に入ったか」と繰り返す。
少しヒステリーぽい女性だが、真面目そうだし清潔感もある。
軽く頷くと、父は振り返って「リズの聞いたことを教えろ」と言った。
私は家庭教師の反応を伺う。少し不快そうな顔をしていたが、渋々といった感じで「分かりました」と言った。
失敗したかと思ったが、お見合いでは一番最初にあった人が一番いいなんて言われるくらいだし、あまり高望みしないほうがいいだろう。
イブが用意してくれた綺麗な褐色の木の机に、家庭教師はわざとらしく教材を置いた。
そして寝台から一歩も動けない私を見てあからさまにため息を吐いた。
イブは外行きの仮面をつけてしずしずと私に近づき抱き上げた。
「ありがとう」
こっそり耳元で囁き、されるがままになる私。
イブは特注の椅子、というよりチェアなんて呼ぶほうが似合う椅子に私を置いた。
じっと見つめてくる冷然とした顔の家庭教師に私は無言で視線を合わせる。
赤ん坊の無表情に少し怯えたのか、たじろぐ様な気配があった。
そういえば、小学生のころ、5年生のときに桜が来たから、その前4年生ぐらいのころはやけに先生に絡まれた。ほとんど表情筋が機能していなかったし、目も死んだ魚みたいだった。
今考えればあの時が一番辛かった。桜には色々思うことがあったけど、それでもそのおかげで両親が立ち直った。やっぱり嬉しかった。
4年のときの先生はいい人だった。私のことを気にしてくれて、分かろうとしてくれた。
まあ最後には離れていったけれど。あれはいつまでも変われなかった私が悪い。
人は見返りがなかったら尽くせない。
「さて、質問は何かありますか」
家庭教師は授業を始める気になったようだ。
首を振ると、方眉を上げて「じゃあ文字を教えます」と言った。まともな反応にホッとした。
始まった授業は無機質で淡々とした感じだったが、その方が自分としてもいいので助かった。
それに、この世界のことを知れるというのは喜びに近い。
完全な喜びではない。ただ、不安が少し解消される。勉強している間だけ、私はこの世界の住人だと思うことが出来る。
産まれたときからなぜか言語は理解できたし、喋ることもできた。
イブに頼んで、違う大陸の言語を話してもらったことがある。この世界では、大陸ごとに言語が違うからだ。
私にはそれが『理解』できなおかつ『話す』ことも出来た。便利、で済ましてはいけない気もするけれど、私はその立場を享受するしかない。ここまで人にあからさまに与えられたものが不快になるとは思ったこともなかった。いらなかった。自分の力でこの世界―――言語を覚えたかった。
授業が終わって、私は少し落ち込んだ。この世界は私の世界じゃない。あの懐かしい黒髪だらけの日本じゃない。
家庭教師の髪は金色で、イブは茶髪で。父しか黒髪はいない。
戻れはしないのに。あの草原での出来事は鮮明に思い出せる。
「リヘルト・ドール。シーラ。紀伊 夏目と紀伊 春香」
私はきっと彼らに関わる。
なぜなら、私には彼らしか指標がいないから。
私には誰も私の生き方を教えてくれる人はいないから。
もう大人だ、生き方くらい自分で決めないと。