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手紙


「リズ様、しばらくの間、っ……(いとま)を頂きたいとっ」

 思います、とイブが言った。


 予想もしない言葉だった。家庭教師がイブと話したいといった理由に見当をつけていた。それは、イブからの謝罪を聞きたかったからだと思っていた。

 だから――私から離れて――家庭教師の元へ行く、その言葉が理解できなかった。


 動揺しているのを自覚しながら、何も言えない。それはまだイブの言葉を信じられないからだ。


 家庭教師の顔に視線を移した。家庭教師は顔の半分を包帯で巻かれていた。空気にさらされている肌は、ミミズ腫れが目立つ。皮膚だけではなく、表情まで変わっていた。神経質そうな表情ではなく、厳しさの中に、大らかさが見えた。


 引き摺られる罪悪感とイブの言葉で、何か分からない重いモノが胸に下りた。


「……説明を……」

 

「イブさんは私に必要なのです。私がやろうと思うことに。私にしばらく預けてはいただけませんか。

 

 …………リズ様、貴女もお分かりかと思います。『このまま』の状態でのイブさんとは歩めないことが。これはイブさんと貴女にとっていい機会だと思うのです」


 随分と口調が柔らかくなった、目を見ると、そこには真剣さがある。

 勝手なことを。そう言えないくらい。


 家庭教師をじっくり見て、ああイブは離れていくと理解して、実感した。

 

 二人の間で意思疎通は完璧に取れていて、そして私には分からない――そんな共通の何かがある。


 頭の奥に、全員から離れられていく私の情景が浮かび、口元が引きつった。

 いや、そのイメージはずっと前からあった。広大な地に私が一人だという。

 イブは何故こんなときにそれを言うのだろう。誰もがあっさりと離れていくのは何かの因果のように思えた。


 イブを見ると、口を引き結んで耐えるように黙っている。目が赤いように見えた。


 目の前のイブの意志は強い。それが分かった。『傍にいて欲しい』、そう言えば引き止めることが出来るのだろうか。

 

 分からないことが一番の答えだった。

 イブはまともになりかけていて、いやなろうとしていて、それを決心したから離れようとしている。引き止めれば、心をぐらつかせることぐらいは出来ても、行ってしまうのだろう。


 家庭教師がイブと一緒に何をしようとしているのか、考えようとしてやめた。


 それは知らなくてもいいことだった。


 目の前の二人が私に求めている言葉はたった一言。そして言わなければいけないのもたった一言。


「そう」

 イブに視線をやった。机の上に置いてある自分の腕は、彫像のようにピクリとも動かない。腕を膝の上に移動して、言った。


「許可します」

 膝の上の指がピクピクと奇妙に動いた。その後のセリフを考えた。いつでも帰っておいで、とか、家庭教師の言うことを良く聞きなさいとか。


「イブ、私もこの家から離れるからしばらくは会えないかもしれない」

 口から出たのは、未練さが仄かに香る言葉だった。こんなことを言って、私は何を言って欲しいのだろう。

 顔を上げると、家庭教師が意外なほど驚いていた。

 知らなかったのか。納得が微妙にいった。


「だけど」

 離れてもイブのことを大切に思っている。そんなことを言おうとして、恥ずかしさに口を閉じた。

 未練がましい。

「寂しさを感じる必要はない。私のことはしばらく忘れて頑張りなさい」

 そう言って、「じゃあ部屋から出て行きなさい」と言った。


 イブは目を潤ませ、俯いた。「はいっ、頑張ります、一生懸命頑張りますっ」、涙が喉に詰まったみたいな声だ。私はそれから顔を背けた。手は無意識にドレスを強く握り、皺を作っていた。


 家庭教師は目の前で深々と頭を下げた。


「リズ様も、ここより離れた土地で――不便ではあると思いますが」

 声が掛けられる。家庭教師のほうを向くと、苦笑していた。


「――言う必要はないでしょう。リズ様は在るがままでいるだけで、それで、全て良いのでしょう」

 言葉の意味は分からなかったけれど、軽く頷いた。


 二人は出て行こうと、私に礼をした。イブは目を押さえながら礼をするのはマナーに適っていないからか、ボロボロと絨毯に涙の跡をつけた。


 出て行く家庭教師に声を掛けた。


「レフィーネさん。4年半、私にご教授してくださったことに感謝します。

 これからも貴女が良い師であるよう祈っています」

 座っていた椅子から立ち上がり、その場で軽く礼をした。


 ふと顔を上げると、家庭教師は強張った表情をしていた。何かミスをしたのだろうか、考えても分からない。


 しかしすぐに家庭教師の顔は崩れた。泣きそうな、訳の分からない状況に遭遇し時の顔のような。

 

「――はい」

 かみ締めるような声だった。


「はい――。私も――貴女を御教えする事が出来、本当に誇りに思います。

 これからも私はずっと貴女の師であることを誇りに生きていくことでしょう。

 こちらこそ今までありがとうございました」


 私の礼より、数段深い礼だった。頭を下げる角度、そんなことではなく。

 

 とても、心が篭っていた。それが分かる。誰が見ても分かるような、美しさだった。


 何も言うことが出来ず見守っていると、しばらくして二人は出て行った。


 私は部屋に残された。少女趣味な部屋。その部屋の中央に置かれる大理石で出来た机に手を這わせる。そして椅子に座った。


 誰もいない一人きりの部屋だ。

 イブは去り、訪ねてくるあても、ただ一人しかいない私の部屋。

 母にこの家を出て行けと言われた次の日が私の誕生日のようだった。

 

 母とあの老人は、着実に追い出す準備を整えていた。

 私に色々なことを説明した時点で、私が『分かった』と言えば追い出せる準備はあったのだ。


 王弟イーザム。あの男が私の行き先を決めたらしい。

 

 部屋の奥にある物置の棚の上に、手紙が置かれている。

 私は歩いていって、手紙に触れた。前世の紙より少し荒く、茶色っぽい紙。


 それが何通も。


 リヘルトを手に入れてから、偶に使者に持たせて送ってくるのだ。


【ショウギという名称は何が元になっているのでしょうか。非常に気になります。返事を待っています】

【また先日、文官の一部にこの遊戯を教えたところ非常に話題になっています。

 それに伴い大会を催すことになり、参加してはいただけませんか。返事を待っています】


 こんな風な文面で、最初は気にして丁寧な返事を送っていた。しかし将棋をしてくれというものばかりで、途中から適当な返事を返していた。

 手紙を読む限り、彼はこの国の高級文官に将棋を教え、そして試合を何回もしている。

 

 王弟は力をつけている。私が勝つことは出来ないだろう。負けることが嫌なわけではないけれど、一度試合をしてしまえばズルズルと言われるがままに将棋をしてしまう。それが嫌だった。私はそこまで将棋というゲームに重きを置いていない。


 しつこい手紙に、だから適当に返事を返し、断っていた。流石に書くことがないので時候のあいさつ――この世界ではあまり一般的ではない――を長々書いたりと字埋めに徹していた。


 母はそれに目をつけたらしい。手紙を渡しに来る使者を脅し、王弟へ手紙を送ったのだという。

 何らかの取引材料をもとに、私を王国の僻地へ送るように。

 王弟はそれを了承し、リヘルトのことも考えた上で私の行き先を決めた。

 それが孤児院。


 図書室でロニィという獣人と話していたとき、王弟と共にいたミサと言う人間。彼女はいくつかの孤児院を所有していて、私はその中で最も王都から遠い場所にある孤児院に行くことになるらしい。


 リヘルトも連れて行って問題はない、と王弟からの手紙に書かれていた。


 リヘルトを連れて行く――。孤児院へ行けば、リヘルトに満足な教育を受けさせることは出来ないだろう。それは思いと反する。


 一緒に行っても、リヘルトにとって良いことはない。


 溜息をついた瞬間、ノックが聞こえた。独特な、軽やかなその音はリヘルトがノックする音だ。


 入るように言えば、無表情のリヘルトが静かに室内に滑り込んできた。


「用は?」

 聞けば、目の前の少年は俯き、口角を上げた。


「リズ様の侍女がお離れになるそうですね」

 頷けば、リヘルトは感情を殺した声に滲むような喜色を乗せて言った。


「孤児院へ行かれるということで……僻地のことですから不便もあると思います。その分、私がリズ様をお世話させていただきます」


「……下働きも?」


「煩わしいことは、全て」


 湧き上がった苛立ちを飲み込んだ。


 彼はもう奴隷なのだということは良く分かっていた。それは役職名ではなく、精神的なものだ。

 それ以外の生き方が難しくなっている。

 

 そんな人間に何を言えばいいのか。私が言葉を尽くしても、彼には理解されない。


「リヘルト……。身の回りのことは頼むと思う」

 

 ゆっくり目を閉じて、なんとかそう言った。





 

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