家庭教師の話―2
前回の続きです。読まなくても大丈夫です。
その屋敷の奥まったところにある部屋へと私は連れて行かれました。私が想像していたのは、5、6歳の男子でした。
奥まった部屋に違和感を持ちつつも、任されるのは後継者の教育だと、そう思っていたのです。
しかし、現実はまったく違ったのです。そこにいたのは、乳児だったのです。まだ生まれて、一年もたっていないでしょう。
その乳児は、魔力過多によって、髪の色、目の色が変色して、異常な色彩になっていました。恐ろしいと、私は思いました。こういう存在は表にいてはいけないと。
しかしそれを飲みこみ、私はこの商会主に抗議いたしました。乳児の教育――私に寝返りの仕方でも教えさせるつもりなのでしょうか。
苛立ちを篭めて睨み、私はルーン・シンソフィーを刺々しい声で責めました。
「よろしいですか、シンソフィーさん、私は男爵の紹介だから来たんです。
私は家庭教師です。お守りは出来かねます」
丁寧な言葉遣いを意識していたにもかかわらず、それが崩れるほど私は怒っていたのです。
侮辱でした。私はこんな、こんな子供を教えるような人間ではありません。私は商人から官僚を出したほど、能力のある人間です。
私はこれ以上、軽んじられる立場に、させられるのを認めるわけにはいかなかったのです。
決して、そこまで成り下がりたくはなかったのです。
私には、確固として誇りがあり、それを守ろうと、そう思っていたからです。
しかし、乳児の顔を見た瞬間、私に流れる誇りという熱い血液は、氷りつきました。
乳児の目、黒い瞳は私を品定めしていたのです。ルーン・シンソフィーよりもまだマシな視線でした。ルーン・シンソフィーの目は初めから私の価値を限定して計り、尚且つ初めから価値を私に見出していなかった。そういう目でした。
乳児の目はそれに近いものがありましたが、決定的に違ったのは私の存在をある程度認め、私の能力だけでなく人格まで見定めようとするようなそんな視線だったのです。私は惨めなことに、その時生まれたての乳児に人格を、品定めされたのです。
視線は私を眺め、まるで『合格』というかのようにルーン・シンソフィーの方を向きました。
私は怒りで――――いえ認めましょう――――怯えで私は気分が悪くなったのです。そしてリズという名の乳児の家庭教師になることをそれほど強く反対できなかったのです。
リズ様の家庭教師は辛いものになりました。あの漆黒の瞳に私が写ると、焦がれるような気分になるのです。
リズ様の目は私を家庭教師、そういう存在でしか見ていませんでした。私がどういう人間か、それを探ろうと見たのは最初のときだけで、それ以後、私はリズという人間から家庭教師という存在としか見られなかったのです。人格など、どうでもいい。それを当たり前のように示されたのです。
もし一度でも、リズ様の瞳が『私』を写していたら何か変わったのでしょうか?
変わったのでしょう。確実に。私はそれを認めなくてはいけないくらいに、愚かしい真似を致しました。
生後半年ほどの乳児は優秀でした。いえ、もはや異常なレベルで完成された頭脳を持っていたのです。
無知な、大人。そう思えるほどの思考力を持っておりました。
教えるたびに、飢餓感は募っていきました。
誰よりも、認められたかったのです。そう男爵様よりも。リズ様の頭脳に嫉妬心もありました。
思いの他、大きかった感情に優越感がありました。優越感。それはリズに抱いた感情ではなく、リズ以外の周りのものに思う感情でした。
私は『特別』な存在を教えているのだと。
宰相メライゼ様と婚姻したあの女に対しても、優越感を抱きました。出来損ないの王女よりも、もっと優秀で特別な存在を教えているという。
しかし日々の授業をしているうちに、まるで階段を上るように、私の感情は複雑になり、しだいに暴走するようになっていったのです。そして遂には、取り返しのつかないほどリズ様へと抱く感情が、巨大化したのです。
いつ、その感情が雪崩れたのか、それは良く思い出せます。
あの少年、いえ狂人を目にするようになってからです。
年甲斐もなく少年の美貌に夢中になることはなかったのは幸いでした。しかし美貌に夢中になれたら、その方が良かったのではないかと思うのです。私は少年に嫉妬したのです。部屋にリズ様自ら呼ばれ、時たま『優しい』視線を浴びせてもらっていることことに。そして私は少年に恐怖を抱きました。
リヘルト、彼は狂人のようでしたが幼児の様でもありました。リズ様に褒められる、それだけが生き甲斐の化け物なのです。褒めてもらえるのなら、彼は何でもするでしょう。笑ってもらえるなら、自分自身の手足も嬉しげに捥ぐことが出来るでしょう。リズ様の一回の笑みのために、目玉を抉ることも出来るでしょう。
そこまでしないと見てもらえないのかと絶望したのです。私の誇りはその頃、自身の能力でなくリズ様の評価よって成り立っていたのです。
初めは、どうしようもないほど愚かしい突然の怒りでした。
リズ様は優秀でしたが、時たま字を間違えることがありました。私にとってそれはどうしようもなく、安堵感を覚えさせてくれたのです。私が間違いを指摘すると、リズ様は少しだけ眉を寄せます。
その日は違いました。
「この字はリヘルトの字ね」
そう呟かれたのです。私は授業のときだけはリズ様を周りから手の届かないところに置いているつもりでした。しかし垣根はあっさりと、少年の名前によって破壊されたのです。
「授業に、集中なされないから、文字を間違われるのです!」
その出来事は切片で、おそらく今まで蓄積された感情が爆発したのでしょう。私はリズ様に暴力を振るいました。
手を振りかざしたとき、一瞬リズ様の瞳が私を捉えたのです。
それは『私』を見つめた視線でした。
それから、その瞬間のために暴力は常習化していきます。してしまった後、罪悪感もしくは虚脱感に襲われましたが、それ以上に満足感に浸れました。一時の満足のため、私は精神の均衡を崩していったのです。
暴力がルーン・シンソフィーにバレるのに大して時間は掛かりませんでした。私の想定よりかは遅かったように思います。
意外だったのか、予想通りだったのか、リズ様は一言も私の暴力について言われなかったのです。
私が連れて行かれたのは、地下の拷問部屋でした。
恐怖で震えました。無表情に私の前で佇む獣人の女は瞳に常軌を逸した怒りを宿していました。
ばれたらどうなるかなど、私は考えたことがなかったのです。しかしこの対応は異常でした。
リズ様に後の残る怪我はさせていません。しかし私に対して一番最初に行われたことは、鞭打ちでした。
喉が嗄れるように叫び、そして自身の半生を省みたのです。
私の価値はこんな酷いものなのでしょうか。私だって努力したのです。人生を幸せに、そしてよりよくするために。
これでは理不尽すぎます。
顔を焼かれました。そしてリヘルトという少年が現れたのは3日後のことです。彼は無表情に私を見つめると、「愚かしく、哀れだ」と言ったのです。ぼんやりする私に、「殺してあげよう」と優しく微笑みました。その微笑みは美しく、刹那を感じるほど甘さがありました。
「お願いしてもよろしいですか」
私が意識朦朧そう言うと、少年は狂人然とした笑い声を立てました。そうして、ゆっくり私と目を合わせたのです。赤く輝く目が心を溶かすように染み込んできました。うっとりと、痛みも忘れ目を細めたときです。
「私の糧になってくれ。何もわからなくていい。さあ身を委ねるんだ」
意識が細い糸となり、ぷっつりと途切れるとき囁かれました。
理解したのです。私はまたしても価値を認められず、利用されるのだと。私は精一杯の声でか細い悲鳴を上げました。
目を開けると、少年はいなくなっていました。私は寒さを感じないにもかかわらず、唇を青く染めて震えました。白昼夢のような出来事に恐怖を覚えたのです。
しばらく私への酷い暴行は続きました。一番酷い仕打ちをしたのはイブという獣人でした。彼女が恍惚として私への責め苦を繰り返す様は見ていて酷く不愉快で、気持ち悪いものがありました。
もうここからは出られないのかもしれない、とそう絶望したときのことです。
リヘルト、彼が現れたのです。




