違和感ー2
いつも、どんな時でも悩み事は絶えない。
部屋の中で紅茶に似た香りの良い飲み物を飲みながら、昨日の授業の様子を思い返していた。
家庭教師がヒステリックな喚き声を上げて、縄で出来た棒のようなもので私の手首を殴りつける。表皮にピリピリした痛みが走る。しかしそれよりも骨に伝わる鈍い痛みの方が問題だ。私は僅かに眉を寄せた。
「貴方は!! こんなことも分からないのですか!? もう一度っ、もう一度やり直しです!」
「―――分かりました」
頷くものの、どうにもその時の私は気分が悪かった。
小さく溜息を吐き、その紅茶のようなものを一口飲んだ。そして首を振る。
この家庭教師のことは、嫌いではないのだ。教え方も巧いし、教材も分かりやすい。しかし最近になってから、正確に言うとリヘルトが来たときあたりから、私への暴力が行われるようになってきた。最初は驚いたが、こういう時代なので富裕層の女子は厳しい教育がなされるものなのかと思った。
これは違うんじゃないだろうか、と思い始めたのはそれがエスカレートし、また何の根拠もない『お仕置き』になってきたときからだ。自分で言うのもあれだが、私は物覚えが良い。いや、最近気づいたが理解力が格段に良くなってきている、にも関わらず一回の授業でに2、3回そういうことが行われる。
別に暴力自体は良い。問題は無い。というより我慢しても良いと思っている。でも私はそのことについて、悩んでいる。
それというのも―――私の悩みはその暴力行為自体ではなく『暴力行為を解決できない状況』にあるからだ。
最初は家庭教師に話したのだ。いや、嗜めた。『貴女がそんなことをする権利は無い』と。そして『しても何の利益も無い』と。
もっと怒らせた。ヒステリックに喚きちらし、常軌を逸した状態になった。
次は、父に―――話そうと思ったのだ。でも、それには躊躇してしまう理由があった。父には家庭教師から暴力を受けているということはどうしても知られてはいけない。大丈夫かもしれないとも思った。でも、私の六感はやめておいた方が無難だと、そう警告した。
別の理由で辞めさせようと思った。教え方が下手だとか、そんな理由で。すぐにそれは無理だと気づいた。父は、私がそんなことで家庭教師を辞めさせたりしないことぐらい知っている。
イブに相談も出来ない。イブは憤り、発狂しかけ、すぐに父に言いに行く。それは目に見えて明らかだった。
そう考えると―――駄目なのだ。
私の周りには人がいない。驚くほど少ない。本来の意味で誰一人といて私には頼れる人がいない。
唇をかみ締め、目に力を入れた。目が少し潤んだからだ。
リヘルトのことも―――考えないようにしている。いや文字通り考えなかったら、リヘルトとの関係はその時点で終わる。
リヘルトのことは可愛いと思っている。ただ人には受け入れられないことがあり、私はリヘルトの異質な部分を受け入れるのは少し、難しいのだ。
ストレス、そう呼ぶのがふさわしいのだろう。最近それが如実に私の中に溜まってきている。
この件を解決できれば、問題を先送りできることは分かっている。父とリヘルトとイブに関する問題。
だけどこの問題を解決するためには、父とリヘルト、イブに関する問題をどうにかしなければいけない。
「リズ様、お勉強のお時間ですよ」
イブがニコニコしながら言う。イブは私が勉強をするのを好きだと思っている。だからなのか私が勉強する時間になると、機嫌が良くなる。
紅茶のようなものを入れた容器を机に置いて、私は頷いた。とりあえず先送り、それが現段階における対処法だ。
いつも授業の最初は前の授業に勉強したことのテストをする。文字を書くのが、一番大変だった。翻訳とか、この世界での正式な名前とか、ごちゃごちゃになり、いつも授業が終わった後は落ち込んだ。分からないことっていうのは、ほんとに疲れるのだ。
最近では頭の切り替えが出来るようになり、何とかなっている。上手く説明は出来ないが、とりあえず言語に関しては上手く言っていると思う。
しかし一回のテストで1、2度は文字を間違ってしまうわけで。
「まだ文字を間違っているのですか!? これだけ勉強していてまともに文字もかけないなんて!」
私は、息を吸った。次にくる痛みを耐えようと思い、ゆっくり息を吐く。
目の端で家庭教師が、あの縄で出来た棒を振りかざすのが見えた。
「―――何をやっている」
突然扉が開いた。父が立っていた。身体がぐらぐら揺れるような、虚脱感に襲われた。重い息が口から漏れた。
遂に、バレたか。いつかはこうなるくらい分かっていた。それでも私には保留という選択肢しかなかったのだ。胸に重く、諦めと諦観の念がのしかかった。
扉に視線を固定すると、父の横にイブの驚くほど無表情な顔に遭遇した。イブは知っていたのか。疑問がわきがった。
家庭教師は状況が掴めていないのか、理解できていないのか呆けている。
動き出したのは父だった。父は目を瞑り、息を吐いた。怒りを抑えているようにも見えた。そのままズカズカと部屋の中に入ると、ゆっくりと家庭教師の髪を掴み、揺さぶった。
「なんですか!? なにをするのですか!?」
家庭教師は錯乱している。
「俺の娘に、俺の娘に! お前如きが、何をした!」
それに、家庭教師は目を開き次に唾を飲み込んだ。
「そっ、それは―――教育です! そうですわ、教育の一環ですわ!」
「お父様」
私は父に話しかける。なんとか私が家庭教師をフォローしてあげようと思ったのだ。この人は悪い人じゃない。
父の視線が私に向く。父の顔は歪んでいた。目は少し膜が張ったようになっている。
「その人は悪くないです」
私が言うと、父は肩を振るわせた。
「リズ、この女が」
父は家庭教師の髪を離した。家庭教師の身体が音を立てて地面に落ちた。そして父は靴で、鳩尾を蹴り上げる。家庭教師は「きゅっ」とうめき声のような鳴き声のようなものを漏らした。
「―――悪くないとしたら、この女は何なんだ? 俺のリズに手を出す何なんだ?」
「真面目な人です」
私が真面目に返すと、父は耐え切れないという風に笑い出した。
「リズ、もしこの女が良い人で、真面目だとしても、こいつはそれ以上に無能だ」
何も分かっていない、父は吐き捨てる。
「生きている価値もない」
その声に憎しみ以外の感情を読み取ることは難しい。
「別に、いいじゃないですか。どうでもいいです。お父様、貴方が許せないのだったらその人を辞めさせて、違う人を雇えばいいと思います」
私は何か不穏な空気を感じ取り、そう言う。この提案を受け取らなければ、私が父にどういう感情を持つか、『父』は分かっているはずだ。
父は黙った。
どれほどの沈黙だったか、それを破る前に父は微かに笑った。
「リズ、無理だ。俺はお前に、そういう扱いをした人間を許すことは出来ない。……一生な」
父は扉の前にいるイブに言う。
「この女を地下牢に連れて行け。お前も腹が立っているだろ。好きにすればいい」
イブは嬉しげにほのかに笑った。私はこの家にも地下牢があったんだ。なんて思おうとして思えなかった。
私は父に背を向けた。そしてこの部屋唯一の窓を見た。
「リズ、何で言わなかった」
父の声が後ろから聞こえる。答えるのは億劫だった。久しぶりに、怒鳴りたいと思った。
「リズ」
私は父に対する信頼を失った。この人―――父は私に関する感情を間違っている。それがどういうものか、全ては分からないけれど。ただ分かる。この人は私に『執着』しすぎている。
「リズ、しばらく部屋から出さない」
その声に、振り返った。父が至近距離にいた。私は感情を押し殺した。
「アンネにも、同じように対応するのですか?」
低い声が出た。自分の声に感情が乗っているのは珍しい。
父は、優しく私を見た。
「アンネと、お前では価値が違う」
「……それは私の魔法能力のことですか」
「―――いや、俺の問題だ」
唇をかんだ。父が髪を撫でようとしたので振り払う。
最初はおかしいと思わなかった。初めて会ってから、かなり部屋に来たり、色々プレゼントをしてくれたのは嬉しかった。変人だと思っていたけど、意外と子煩悩なのかも知れないな、そう思っていた。
だけど、奴隷を買いに行ったとき違和感をもった。私は転生してから人を見る目が格段に落ちていた。
それを認めよう。
こういう人間の性質を忘れていた。こういう人間は、自分の趣味と利益しか考えない人間だ。子供のことなど、どうとも思わない。それなりに可愛がるが、それは愛玩動物を可愛がるようなもので、それを殺す必要があれば、迷い無く殺す。それに絶対に『愛玩動物』の増長を許さない。それが父という人間の性質だ。私の性質が暗さだとするのなら、この人は、情の無さ。分かっていなかった。いや忘れていた。
あの奴隷を買う場面で、アンネがいなかったら気づかなかった。
この人が純粋に私を大切にしてくれているのはいいのだ。嬉しい。ただこういう性質の人間が、『ここまで』の感情を抱くのは、恐ろしく例外だ。それが分かる。
「リズ、お前のことは外に出さない方がいいのかもしれない」
その呟きに返事をする気力は無かった。
私の周りはどうなっているのだろう。




