ちょっとした性質
口から大量の吐瀉物が吐き出された。
ロニィは虚ろな目で、地面の上の自らの吐瀉物を眺めた。もうこの『ペルミネェアの御茶会』は終わった。
その筈だ。
生理的な涙が目元に浮かんだ。ロニィは膝を突いていた。建物の壁に手をつき、無理やり立ち上がろうとしたが、まるで力が入らなかった。
舐めていた、それが正直な気持ちだった。ロニィはまぎれもなくあの幼女を、舐めていた。
ロニィは何人もの人間を見知ってきたという自負がある。ただロニィはこれほどまで『価値観』が隔絶する人間を見たことが無かった。
たった一人の奴隷を自分のモノだと主張し、そう決めたという理由だけで自分の命さえも賭ける。
『いえ、あれは私のモノです』
思い出す言葉。
生き方が違う。
あれは、絶対的自己中心。それ以外のものを認めない。そしてそれが通るのが当たり前だとそう思っている。思い上がりでもなく傲慢でもなく、『当たり前』だと。
『私が殺されるのと、勝負の条件、それに何の関わりがあります?』
そしてロニィがあの状況に正気を保つのを挫折したのは、周りがそれに、それを、許容していると言うことだ。いやあの図書室にいた男奴隷、あれは喜んで受け入れていた。
そしてあの幼女はそれを―――歯牙にもかけていなかった。本来の意味でどうとも思っていなかった。
ロニィは自分以外気づいていたのか分からないが、あることに気づいた。あの場で彼女が執着、思い入れを持っていたのは王様、ただ一人だけだったと言う事実を。
『あの子がいなければ、死んでしまうんです』
一種虚構だったようなあの時間を忘れるようとロニィは首を振った。あの場のほとんど全員はあの幼女に愕然としていた。平坦な口調で紡がれる言葉に。
いつものように王様に思いを馳せようとするものの、それは叶わなかった。自分の身を案じる気持ちのほうが強かったためだ。
「お湯と、なにか拭く布を持ってきて」
イブは扉の前で、黙ってじっと立っていた。表情は情けない。しかし私にはそれが無表情のように見えた。一つ溜息をつくと、肩が揺れた。そう、イブは溜息にいつも脅える。
「聞こえない?」
なるべく優しい声でそういえば、イブはまた肩を震わせ、「イブがやります」と唇も震わせた。
黙ってイブの顔を見つめる。別にイブがやっても問題は無い。しかし最初は肝心だ。子供というのは自分へ向けられる気持ちに敏感、どこかの本で読んだ記憶がある。最初にちゃんと愛情を示さなければいけない気がする。それにリヘルトに話したいこともある。
イブが渋っているのは、おそらく私が奴隷の世話をするのを嫌がっているからだろう。
そんなことを考えていると、イブの視線がだんだんと下がり、そして完全に俯いたと思ったら、ヒックと嗚咽するのが聞こえた。
思わずたじろぐ。どういうことだろう、これは私が泣かしたということだろうか?
「何で泣いてるの?」
こういう時、とても自分が情けなくなる。人が感情をぶつけてくると戸惑い困惑し、自分がそういうことを理解できていないと思い知る。そしてそれが私に何かを期待しているものだと、もっと困惑する。イブは私に分かって欲しいのだ自分―――イブの気持ちを。
私はそういうものにうまく対応できない。
前の生でも、たくさんの人を慰めた。しかし、それが私に向いている感情になると身体は強張るのだ。
どう対応したらいいのか、分からない。
こういう人間をどう表すのだろう。コミュニケーション障害? 苦笑が漏れた。
ただ私には自分の特性は分かっている。
中学生のときだ。中学の美術教師はとても熱心だった。課題もかなり難易度が高かったのを覚えている。ある課題の話だ。
それは木炭の絵を描くものだった。絵を期限以内に完成できず、ある日の放課後美術室に居残って絵を描いていた。
絵を描くのはそれなりに好きだった。下手だったが。
後でその美術教師はコーヒーを飲みながら、絵が完成するのを待っていた。私が食パンである線を消していると、後でポツリと美術教師が言った。
「絵と言うのはなーあれだ。人間の本性現すと俺は思ってる」
振り返ると、彼はぼんやりと絵を見ていた。酷くだるそうだ。授業は熱心だが、放課後の付き添いは嫌なのかもしれない。期間内に終わらせなかった人間の面倒を何故見なければいいけないのかと思っているのかもしれない。
何も言わず、もう一度絵に向かい合うと、彼は言葉を続けた。
「ただ見る人間によって見方も変わる」
視界の端に美術教師の影が見えた。木炭で書かれた線は私としては上出来だった。
「――大月、お前の絵は暗い」
一瞬、その言葉が理解できなかった。そして、どういう反応していいか分からなかった。
「絵を描いていると、だんだん向き合うのが辛くなる。それは、この部分が気に障るとかそういうことじゃ無くてなあ、辛くなるんだと―――俺は思ってる」
美術教師は明らかに『俺から見てお前は暗い』そう言っていた。それは根暗とか、その当時流行った陰キャラとかそういう意味でないのは分かった。私には分かった。何故ならその言葉は私の中に受け入れられたからだ。
今まで色々な言葉で喩えられた。それこそ、無関心な人間とも優しい人間とも、それは様々だ。
いつも違うと思ったが、その言葉は納得できた。
私という人間は本質的に暗い。
そう考えたとき、窓から夕日が向こうの山で沈んでいくのが見えた。
意識が戻った。
私はどうしようもないことに目を閉じ、「もういいから、そういうのはいいから早くして」とわざと冷たく言った。イブをこれ以上傷つけたくなかった。
イブは傷ついたのか、子供のような目で私を見た後、反抗なのか何も言わずに出て行った。
それに傷ついている自分がいた。




