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余白の殺人  作者: kaka


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第1話 十一秒の空白

 人は、嘘をつくときに言葉を増やす。


 言い訳をするために、余計なことを話す。


 だから私は、言葉そのものよりも、その人が語らなかった時間を見る。


 それが、私が法廷速記官だった頃に身につけた癖だった。


「館長が死んでいます!」


 海辺の公文書館に、若い職員の叫び声が響いた。


 時刻は午後九時四十七分。


 窓の外では、夜の海が堤防を叩いている。


 私は受付の椅子から立ち上がった。


「どこですか」


「収蔵室です。榊館長が倒れていて……扉には鍵が……」


「警察は?」


「今、向かっているところです」


 私は職員と一緒に廊下を走った。


 収蔵室の前には、すでに三人が集まっていた。


 副館長の西沢。


 古文書担当の学芸員、野村。


 そして警備員の久保。


 少し離れたところに、館長の甥である榊直人も立っている。


 四人とも顔色は悪かった。


 だが、泣いている者はいない。


 榊館長は、この四人全員と少なからず揉め事を起こしていた。


 公文書館の古い資料を巡る方針変更。


 経費削減。


 人事。


 家族への相続問題。


 館長が「近いうちに全部整理する」と言っていたことを、私は以前ここで聞いている。


 だから、誰かが榊を恨んでいても不思議ではなかった。


 収蔵室の扉が開く。


 中には、古い文書箱と可動式書架が並んでいた。


 その中央で、榊が仰向けに倒れていた。


 胸元には打撲痕。


 頭部から少量の血。


 机の脇には、割れた置時計が落ちていた。


「死亡推定時刻は?」


 鑑識の男が確認する。


「現時点では二十一時ごろから二十一時十五分の間」


 刑事が頷いた。


「最後に館長が生きているところを確認した人は?」


 全員が沈黙した。


 やがて西沢が言った。


「直接見た者はいません。ただ……二十一時六分に、館長から音声メッセージが届いています」


「全員に?」


「はい」


 久保がスマートフォンを取り出した。


『二十一時六分、収蔵室まで来てくれ。話したいことがある』


 榊の声だった。


 聞き終えたとき、私は時計を見た。


「この音声、いつ届いたんですか?」


「二十一時六分です」


「全員?」


「そうです」


 警察が館内の監視映像を確認する。


 二十一時六分。


 西沢は二階事務室。


 野村は資料整理室。


 久保は警備室。


 直人は中庭。


 監視カメラにも、それぞれの姿が映っている。


 入退館記録にも不審な点はない。


「つまり、誰も収蔵室には入っていない」


 刑事が言った。


 私は収蔵室の扉を見た。


 鍵は内側からかかっていた。


「密室、ですか」


 直人が呟く。


 その声には、妙な安堵があった。


「どうして、そう思うんです?」


 直人がこちらを見る。


「だって、誰も入っていないんでしょう?」


「誰も“入っていないように見える”だけです」


「……何が違うんですか?」


「まだ分かりません」


 私は四人に向き直った。


「二十一時六分に、何をしていたか教えてください」


 西沢。


「事務室で資料を整理していました」


 野村。


「スキャナーの調子が悪くて、その対応をしていました」


 久保。


「警備室でモニターを見ていました」


 直人。


「中庭で電話していました」


 よどみがない。


 言葉があまりにも滑らかだった。


 私は昔、法廷で何千人もの証人の声を聞いた。


 人は、嘘をつくときだけではない。


 本当のことを話しているときにも、沈黙する。


「そのとき、何か聞きませんでしたか?」


 私が尋ねる。


 四人が答える。


「特に何も」


「覚えていません」


「放送が流れました」


「……何か音はしたと思います」


 私は顔を上げた。


「放送?」


 久保が頷いた。


「二十一時六分ごろです。古い防火扉が閉まった警報と、館内放送が重なって……」


「それ、全員が聞いていますか?」


「たぶん」


 たぶん。


 その言葉だけが、妙に引っかかった。


 私は音声メッセージをもう一度再生してもらった。


 今度は目を閉じる。


『二十一時六分、収蔵室まで来てくれ。話したいことがある』


 声。


 海鳴り。


 小さな機械音。


 そして――無音。


 十一秒。


「止めてください」


 再生が止まる。


「今の間は?」


「え?」


「十一秒です」


 私は四人の顔を見た。


「皆さんの証言記録にも、同じ十一秒がありません」


 刑事が眉をひそめる。


「どういうことだ?」


「四人とも、自分が見たことは話しています。でも、その十一秒間に何があったかだけは、誰一人として話していない」


 私は壁時計を見る。


「防火扉が閉まり、館内放送が流れ、可動式書架が動いた」


 私はゆっくり言った。


「その十一秒だけ、全員の視界が切れているんです」


 誰かが息を呑んだ。


 その瞬間だった。


 収蔵室の奥で、金属の軋む音がした。


 ガタン。


 可動式書架が、数センチだけ動く。


 警察が一斉に振り返った。


 私は動かなかった。


 書架ではなく、床を見ていた。


 榊の遺体のそばに落ちた置時計。


 文字盤は、二十一時六分で止まっている。


 けれど――


 血の乾き方がおかしい。


 私はしゃがみ込み、時計ではなく榊の袖口を見る。


 血が、ほとんど付いていない。


「……おかしい」


「何が?」


 刑事が聞く。


 私は答えなかった。


 十一秒間に、犯人が消えたのではない。


 誰かが、犯人がいたように見せた。


 そう思った瞬間。


 私は、もう一つの可能性に気づいてしまった。


 二十一時六分。


 この男は、本当にその時刻まで生きていたのか。


「館長は――」


 私は榊の顔を見た。


「二十一時六分より前に、もう死んでいたんじゃありませんか?」


 部屋の空気が、初めて止まった。


 十一秒の空白は、殺人が起きた時間ではない。


 殺人が起きたように見せるために、作られた時間だった。

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