婚約破棄されたので、田舎伯爵家の三男を婿に迎えました
「ノリアーヌ・ヴァルモン。君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業夜会。
楽団の演奏まで止めて高らかに宣言した第2王子レオポルドへ、ノリオーヌは静かに首を傾げた。
「ノリオーヌでございます、殿下」
「今は名前などどうでもよい!」
十一年婚約している女の名前を間違えておいて、どうでもよいらしい。
レオポルドは王国随一と名高い美男子だった。
金髪碧眼。
長い手足に広い肩、細い腰。
白い礼服を着て立っているだけで、絵画から抜け出したように見える。
その腕へ、桃色のドレスをまとった男爵令嬢が縋っていた。
「君はマリエッタを妬み、茶会へ招かなかった。廊下でも挨拶をしなかったそうだな」
「存じ上げない方を私的な茶会へ招く理由はございませんし、廊下ではわたくしからご挨拶いたしました」
「嘘ですわ! ノリアーヌ様は――」
「ノリオーヌでございます」
どうやら二人とも覚える気はないらしい。
「ともかく!」
レオポルドが声を張った。
「私はマリエッタを愛している。よって君との婚約を破棄する!」
「承知いたしました」
「……何?」
「婚約破棄を承りました」
あまりにあっさり答えたせいか、レオポルドの方が戸惑った。
だがすぐに寛大な王子らしい笑みを浮かべる。
「安心するといい。私がヴァルモン公爵家を継いだあとも、君を追い出すつもりはない」
ノリオーヌは瞬きをした。
「殿下が、何を継がれるのでしょう?」
「ヴァルモン公爵家だ」
「なぜ?」
大広間が静まり返った。
「私は君の婚約者だぞ。結婚すれば、私が次期公爵になるだろう」
「次期公爵は、わたくしでございます」
「……君が?」
「七歳の時から正式な後継者ですわ」
「だが、君は女だぞ」
「存じております」
「では私は何になる」
「わたくしの夫です」
「それだけか?」
ずいぶんな問いだった。
ノリオーヌは少し考える。
レオポルドは、公爵領へ一度も視察に来なかった。
領地の主産業も知らない。
家臣の名前も知らない。
十一年婚約した女の名前すら覚えていない。
「殿下には、王家の血統と優れた容姿、それから健康な肉体を期待しておりました」
「……それだけなのか?」
「平たく申し上げれば、血統のための種馬ですわね」
「なっ……!」
レオポルドの美しい顔が真っ赤になった。
「この私を種馬呼ばわりするのか!」
「十一年婚約した女の名前すら覚えておられない方が、まさか人格や統治能力を評価されていたとお思いでしたの?」
どこかから咳払いが聞こえた。
笑いを堪えたのだろう。
ノリオーヌは優雅に一礼した。
「では殿下。末永くお幸せに」
こうして十一年の婚約は、呆気なく終わった。
翌月。
ヴァルモン公爵邸には、三十七通の釣書が積まれていた。
「多すぎますわ」
十八歳の次期公爵ノリオーヌは、机いっぱいの紙束を見て眉を寄せた。
父である現公爵は平然と紅茶を飲んでいる。
「王家との婚約がなくなったのだから当然だろう」
ノリオーヌは、レオポルドと並んで王国随一と称される美女だった。
艶やかな黒髪。
整った顔。
背が高く、手足も長い。
王宮仕立てのドレスを着れば誰もが振り返る。
しかも公爵家の一人娘にして正式な後継者。
婿入りできる男にとっては、これ以上ない縁談である。
「顔のよい方は外してくださいませ」
父の手が止まった。
「極端だな」
「顔は十一年見ました。次は頭の中が詰まっている方をお願いいたします」
父は本当に、美貌と社交性ばかりを売りにする男たちを外した。
最後に一枚の釣書を差し出す。
「グレヴィル伯爵家三男、エドガー。二十五歳」
「七つ上ですのね」
「長男が家督を継ぎ、次男は領軍所属。本人は幼少期から領地経営を学んでいる。婿入りに問題なし。健康状態も良好」
「よろしいのではなくて?」
「ただし、婚約が二度流れている」
ノリオーヌは顔を上げた。
「何をなさいましたの?」
「何もしていない」
「それで二度も?」
一人目の婚約者には、新しいドレスの感想を求められた。
エドガーは、
『昨日のものより動きやすそうですね』
と答えた。
二人目には、
『わたくしのどこがお好き?』
と尋ねられた。
まだ三度しか会っていなかったエドガーは、
『まだよく存じませんので、何とも申し上げられません』
と答えた。
どちらもほどなく婚約解消となったらしい。
ノリオーヌはしばらく黙った。
「……正直な方ですのね」
「朴訥と言ってやれ」
「会ってみますわ」
初対面の日。
ノリオーヌは、なるほどと思った。
地味だった。
短く切った茶色の髪。
日に焼けた肌。
大きな手には、乗馬や農作業でできた薄い傷がいくつもある。
身体は頑丈そうだが、レオポルドのような華やかさは欠片もない。
礼服すら、本人より服の方が居心地悪そうだった。
「お初にお目にかかります、ノリオーヌ様」
名前を一度で正しく呼んだ。
それだけで好感度が上がった自分に、ノリオーヌは少し悲しくなった。
「お掛けくださいませ」
「ありがとうございます」
向かい合う。
エドガーはノリオーヌを見た。
一度見て。
もう一度見て。
それから、少し困ったように視線を落とした。
「あら」
ノリオーヌは面白くなった。
「何か?」
「いえ」
「わたくしの顔に何かございました?」
「ございません」
「では、なぜ目を逸らしましたの?」
エドガーはしばらく黙った。
そして観念したように答える。
「……想像していたより、ずっとお美しかったので」
「まあ」
「じろじろ見るのは失礼かと」
婚約が二度流れた理由を、ノリオーヌはなんとなく理解した。
この男。
恐ろしいほど恋愛に向いていない。
「それで?」
「はい?」
「ほかには?」
少し困らせてみたくなった。
エドガーは考え込み、
持参した書類を開いた。
「ヴァルモン公爵領北部の小麦出荷量ですが、三年続けて落ちていますね」
ノリオーヌは吹き出した。
「わたくしの顔から、いきなり小麦へ行きますの?」
「顔について、これ以上何を申し上げればよいのか分かりませんので」
「二度婚約が流れた理由が分かりましたわ」
エドガーの肩が、わずかに落ちた。
「……やはり、今回も駄目でしょうか」
あまりにも素直だった。
ノリオーヌはまた笑ってしまう。
「いいえ。続きを聞かせてくださいませ」
「小麦の?」
「ええ」
エドガーの顔つきが変わった。
「収穫量そのものは落ちておりません。ですから問題は生産ではなく輸送です。北部街道を全面改修すると今年度予算を圧迫しますので、まず二本に絞り――」
そこから一時間。
街道。
橋。
倉庫。
荷車。
冬季備蓄。
エドガーは数字をよく覚えていた。
しかも自分の意見を押しつけず、ノリオーヌの考えを聞いてから修正する。
話が終わる頃には、彼女の気持ちはほぼ決まっていた。
ところがエドガーは立ち上がり、
「本日はありがとうございました」
と頭を下げた。
「ええ」
「お断りのお返事は、父を通していただければ」
ノリオーヌは眉を上げた。
「どうして断られる前提ですの?」
「これまでが、そうでしたので」
「次を探されるおつもりは?」
「いいえ」
「まあ」
「この縁談が駄目でしたら、領地へ戻ります」
あまりにも淡々と言う。
「一生お一人で?」
「それでも構いません。兄の領地経営を補佐する仕事がありますから」
「公爵家へ婿入りできるのですよ?」
「はい」
「随分な出世でしょうに」
エドガーは不思議そうにノリオーヌを見た。
「あなたがお継ぎになる公爵家でしょう?」
「……ええ」
「でしたら、私の出世ではありません」
ノリオーヌは黙った。
十一年婚約していた王子は、自分と結婚すれば公爵になれると思っていた。
目の前の田舎伯爵家三男は、公爵家へ婿入りしても、それは妻の爵位だと言う。
「エドガー様」
「はい」
「誰が断ると申しましたの?」
「……え?」
「わたくし、あなたを婿にいただきますわ」
彼は本気で固まった。
「私を?」
「ほかにどなたがおりますの」
「ですが、私は――」
「二度婚約が流れた?」
「はい」
「見る目のない方々に感謝しなくてはいけませんわね」
「……それは、どういう」
「わたくしのところまで残っていてくださって、ありがとうという意味です」
エドガーの耳が赤くなった。
ノリオーヌは、それを見て少しだけ目を細めた。
婚約して半年。
二人は驚くほどよく働いた。
ノリオーヌが全体を見る。
エドガーが数字を拾う。
ノリオーヌが商人たちと交渉すれば、エドガーは農村へ入り、実際の収穫と倉の残量を確認する。
意見が違えば、きちんと反対した。
「その税率ですと、来年は南部の開墾村が持ちません」
「わたくしに反対なさるの?」
「はい」
即答だった。
「理由は?」
「こちらです」
数字を並べられた。
ノリオーヌは読み、
「……確かに無理ですわね」
「では修正しましょう」
「遠慮がありませんのね」
「遠慮して領民が飢える方が困ります」
気に入った。
とても。
ある日。
王都から戻ったノリオーヌは、エドガーへ二つの品を渡した。
ひとつは、金細工を施した懐中時計。
婚約者への贈り物としては申し分ない品だ。
「こちら、あなたに」
「ありがとうございます」
エドガーは丁寧に受け取った。
「大切に使います」
悪くない反応だった。
その横へ、ノリオーヌはもうひとつ置く。
「それから、測量院から北部の新しい地図が届きましたわ」
エドガーの顔が変わった。
「これは、新街道予定地まで入っているのですか?」
声まで少し弾んでいる。
「ええ」
「見てもよろしいですか」
「もちろん」
エドガーは地図を開いた。
「なるほど。旧道よりこちらの斜面を使った方が――」
ノリオーヌは、金色に輝く懐中時計を見た。
地図を見た。
「……あなた」
「はい」
「そちらの方が嬉しいの?」
「はい」
即答だった。
「あらまあ」
まったく華がない。
けれど、嘘もない。
ノリオーヌは妙に可笑しくなった。
その数日後。
南部の開墾村から報告が入った。
春先の長雨で作付けが遅れ、このままでは冬越しが厳しいという。
ノリオーヌは帳簿を開いた。
「今年の公爵家主催の冬至祭を縮小します」
老家令が顔を上げた。
「ですが、お嬢様。来年は公爵位継承を控えております。各家を招いての祝賀を兼ねる予定でしたが」
「飾り花を減らしてくださいませ。料理も半分で結構。余った予算で南部の税を軽減し、備蓄麦を回します」
「公爵位継承前の最後の大きな催しですぞ」
「領民の冬越しより、わたくしのお祝いが大切ですの?」
老家令は黙った。
「……承知いたしました」
話が終わったあと。
隣で帳簿を確認していたエドガーが、しばらく何も言わなかった。
「何ですの?」
「いえ」
「またそれですの?」
「少し、驚いただけです」
「何に?」
「もっと、ご自分の立場を飾る方だと思っていました」
「あら。失礼ですわね」
「申し訳ありません」
「でも、違った?」
「はい」
エドガーは、まっすぐ彼女を見た。
「あなたが公爵になるのなら、この領地は大丈夫だと思いました」
ノリオーヌは一瞬、言葉を失った。
美しい。
似合っている。
素晴らしい。
そんな言葉なら、聞き飽きるほど聞いてきた。
けれど
この領地は大丈夫だ。
そう言われたのは初めてだった。
「……そう」
ノリオーヌは視線を逸らす。
「それは、何よりですわ」
今度は自分の耳が熱い気がした。
それからしばらくして。
エドガーは北部街道の現地確認へ出た。
三日の予定だった。
たった三日である。
初日は、静かで仕事が捗ると思った。
二日目も、別に何ともなかった。
三日目の午後。
ノリオーヌは帳簿から顔を上げた。
「……遅いですわね」
老家令が答える。
「エドガー様でしたら、明日の夕刻にお戻りの予定でございます」
「存じております」
「では?」
「別に」
帳簿へ視線を戻す。
五分後。
「北部から早馬は?」
「届いておりません」
「そう」
十分後。
「街道の天候は?」
「今朝の報告では晴天でございます」
「そう」
老家令が、ほんの少し笑った。
「何ですの?」
「いえ、何も」
気に入らない。
翌日の夕刻。
玄関の方から人の声がした。
「ただいま戻りました」
聞き慣れた声に。
ノリオーヌは、自分でも驚くほど早く顔を上げた。
やがて執務室へ入ってきたエドガーは、ひどい有様だった。
長靴は泥だらけ。
上着にも乾いた泥が跳ねている。
「ずいぶん汚れておりますのね」
「帰りに雨へ降られまして」
「怪我は?」
「ございません」
「本当に?」
「はい」
それを聞いた瞬間。
胸の奥にあった何かが、ふっと緩んだ。
そこでようやくノリオーヌは気づいた。
自分は三日間。
いや、たぶん彼が屋敷を出た時からずっと。
この男が帰ってくるのを待っていたらしい。
「ノリオーヌ様?」
「何ですの」
「何かございましたか?」
「何も」
「そうですか」
「……ただ」
「はい」
「次からは、帰る時刻くらい知らせなさい」
エドガーが少し驚いたあと、穏やかに頷いた。
「承知しました」
有用な人材なのだから。
事故でも起こされれば困る。
心配するのは当然だ。
そういうことにしておいた。
それからだった。
エドガーが以前より少しだけノリオーヌを見つめるようになったのは。
そしてノリオーヌも、その視線がどこにあるのか気になるようになった。
目が合う。
エドガーが逸らす。
面白い。
けれど。
ほかの女性と話している時には平然としているのに、自分を見る時だけ赤くなることに気づいた時。
胸の奥が妙にくすぐったくなった。
結婚一か月前。
二人きりで茶を飲んでいた時、ノリオーヌはふと思ったことを口にした。
「夫婦になる以上、夜のこともございますでしょう?」
エドガーの手が止まった。
耳がみるみる赤くなる。
「……はい」
ノリオーヌは目を細めた。
「何ですの、その顔」
「申し訳ありません」
「わたくしが恐ろしい?」
「逆です」
「逆?」
返事がない。
ノリオーヌは椅子を立ち、彼の隣へ回った。
「エドガー」
「はい」
「わたくしに触れたい?」
首まで赤くなった。
面白い。
実に面白い。
王国随一の美女として、男から見られることには慣れている。
露骨な欲を向けられたことも、一度や二度ではない。
だが、この男のそれは違う。
欲しいから見るのではない。
好きだから、見てしまう。
そして見てしまったことを恥じる。
その視線を向けられるのが。
いつの間にか、ノリオーヌも嫌ではなくなっていた。
むしろ。
「聞こえませんわ」
「……触れたいです」
「まあ」
聞けて嬉しい自分がいる。
それが少し悔しくて、ノリオーヌはもっと彼を困らせることにした。
それから彼女は、エドガーの耳が赤くなる境目を探すようになった。
腕へ触れる。
赤くなる。
少し近くで名前を呼ぶ。
もっと赤くなる。
肩へ頭を預けてみる。
固まる。
「可愛い方ですこと」
「……遊んでいらっしゃいますね」
「ええ」
否定しなかった。
この男にだけは、こうして少し意地悪になる自分がいた。
そしてエドガーが困りながらも離れないことが、何より嬉しかった。
結婚して一年が過ぎても、エドガーは慣れなかった。
寝室でノリオーヌが髪を解くだけで赤くなる。
「あなた」
「はい」
「もう夫婦ですのよ」
「分かっております」
「では、どうして毎晩その顔をなさるの?」
「年数で慣れるものではありませんので」
「何に?」
「あなたにです」
ノリオーヌが黙った。
ずるい。
普段は気の利いたことなど何ひとつ言えないくせに。
本当に思っていることだけは、時々こうして真っ直ぐ投げてくる。
「……あなたは、本当に困った方ですわね」
「申し訳ありません」
「褒めておりますのよ」
やがて最初の子を身籠った。
するとエドガーは、今まで以上に慎重になった。
慎重になりすぎた。
最初の数日は、ノリオーヌも何も言わなかった。
身体を気遣ってくれている。
分かっている。
分かっているのだが。
寝る時も少し離れる。
以前なら自然に腰へ回ってきた腕もない。
手を伸ばせば届く距離なのに、妙に遠く感じる。
三日目。
ノリオーヌは気づいた。
気に入らない。
四日目。
もっと気に入らなくなった。
五日目の夜。
とうとう隣で背中を向けている夫を睨んだ。
「あなた」
「はい」
「最近、行儀がよろしすぎません?」
「お身体が大切ですから」
「医師から止められてはおりませんわ」
「ですが」
「我慢していらっしゃるでしょう?」
エドガーが黙った。
分かりやすい。
「こちらを向きなさい」
「ノリオーヌ」
「向いて」
エドガーが観念して振り返る。
ノリオーヌは少し近づいた。
夫は反射的に距離を取ろうとした。
その寝間着の胸元をつまむ。
「逃げないでくださいませ」
「逃げているわけでは」
「でしたら、なぜ離れるの?」
「あなたと子どもが大切だからです」
真顔だった。
ノリオーヌは少しだけ言葉に詰まった。
そういうことを言われると弱い。
だが。
「それと、わたくしから離れることは別でしょう?」
「……寂しかったのですか?」
ノリオーヌが固まった。
エドガーが珍しく核心を突いた。
「違いますわ」
「そうですか」
「……少しだけです」
言ってから悔しくなる。
エドガーの目が柔らかくなった。
それも悔しい。
「笑わないで」
「笑っておりません」
「目が笑っておりますわ」
ノリオーヌは夫の胸へ額を押しつけた。
「わたくしのお腹を気遣ってくださるのは嬉しいですけれど、何も全部我慢する必要はございません」
「ですが――」
「大丈夫ですわ」
顔を上げる。
そしていつものように、堂々と言った。
「ちゃんと抜いて差し上げますから」
エドガーの顔が一気に赤くなった。
「……そのようなことを、平然と」
「あら」
ノリオーヌは逃げようとする視線を追う。
「一度で終わると思わないでくださいまし」
「……ノリオーヌ」
「ずっと我慢なさっていたのでしょう?」
夫がとうとう顔を覆った。
「あなたが恥ずかしがらなさすぎるのです」
「夫婦ですもの。何を今さら」
強く言い切った。
だが本当は。
何をするかよりも。
また自分に触れてくれることの方が嬉しかった。
エドガーの腕が、おそるおそる腰へ回る。
それだけで満足してしまった自分には、気づかなかったことにした。
七年後。
王宮の収穫祭で、ノリオーヌは久しぶりにレオポルドと顔を合わせた。
彼女はすでにヴァルモン公爵。
二十五歳となったノリオーヌは、少女の頃よりいっそう華やかになっていた。
その隣には三十二歳になった夫、エドガー。
そして夫妻には、年子で五人の子がいる。
「まさか、本当にその男を夫にしたとはな」
レオポルドはエドガーを見て鼻で笑った。
「王国随一の美女が、ずいぶん地味な男を選んだものだ」
昔と何ひとつ変わっていない。
ノリオーヌは少し可笑しくなった。
「殿下は、まだ外見でしか人をご覧になれませんのね」
「私以上の男はいなかっただろう?」
「お顔だけでしたら、殿下は今でも王国随一ですわ」
レオポルドが得意げに顎を上げる。
ノリオーヌはにこりと微笑んだ。
「ほかに取り柄が見つからないのが、実に惜しいところですけれど」
「貴様……!」
「夫はわたくしの名前を覚えております。領地の数字も、五人の子の誕生日も、去年壊れた水門の場所も覚えておりますわ」
「そんなもの――」
「殿下に期待していたのは血統と容姿と健康な肉体だけ。種馬としてなら、今でも殿下の方が上かもしれませんわね」
「また私を――!」
「ですが」
ノリオーヌはエドガーの腕を取った。
「わたくしが欲しかったのは、種馬ではなく夫でしたの」
エドガーの耳が少し赤くなる。
七年経っても、これである。
ノリオーヌはそれを見つけ、いたずらっぽく笑った。
「やはり有用なのは、顔よりも頭の中ですわね」
「ノリオーヌ」
「何ですの、あなた」
「人を道具のように比べないでください」
「では、もっと分かりやすく申し上げましょうか」
嫌な予感がしたのだろう。
夫の耳がさらに赤くなった。
ノリオーヌはその腕を抱き込む。
「夜も相性ぴったりですしね、あなた。本当に、毎日寝不足ですわ」
「ノリオーヌ!」
周囲の貴族たちは、そっと聞かなかったことにした。
エドガーは首まで真っ赤だった。
「そのようなことを、人前で……」
「事実でしょう?」
「それは……」
ノリオーヌは下から夫の顔を覗き込む。
「違いますの?」
長い沈黙のあと。
エドガーは観念した。
「……違いません」
「でしょう?」
ノリオーヌは満足げに笑う。
「七年経っても、あなたは本当に初心ですわね」
「仕方ありません」
「何が?」
「毎晩、妻が綺麗だと思うので」
ノリオーヌの笑みが止まった。
「……」
「五人産んだ今も、変わりません」
今度はノリオーヌが黙った。
頬が熱い。
エドガーが、その変化を見逃さなかった。
「ノリオーヌ?」
「……あなた」
「はい」
「そういう不意打ちは、ずるいですわ」
「先に始めたのはあなたでしょう」
何年経っても照れる夫を面白がっていたはずなのに。
いつの間にか、自分まで同じになっていたらしい。
二度婚約を断られ、この縁談まで流れたなら一生独身で故郷へ尽くすつもりだった男。
その男が今は、自分の夫として隣にいる。
あの日は、有用だから選んだ。
一緒に働くのが楽しくなった。
赤くなる顔が可愛くなった。
三日いないだけで帰りを待つようになった。
離れて眠られるだけで寂しくなった。
そして今では。
誰にも譲るつもりなど、欠片もない。
ノリオーヌは彼の腕を強く抱いた。
「帰りますわよ、あなた」
「まだ祝宴の途中ですが」
「知りません」
「子どもたちは?」
「お父様に任せます」
「どうして急に」
ノリオーヌは夫の耳元へ口を寄せた。
「誰のせいで、今夜も寝不足になると思っておりますの?」
エドガーは再び真っ赤になった。
ノリオーヌは満足した。
やはり、この顔を見るのが一番好きだった。
それから、さらに二十数年が過ぎた。
ヴァルモン公爵邸の庭。
午後の柔らかな日差しの下で、ノリオーヌは夫と並んで茶を飲んでいた。
五人の子どもたちは、とうに成人した。
結婚した者もいる。
領地へ出た者もいる。
そして今。
庭では、小さな少女が木剣を振り回していた。
「やあっ!」
五歳になったばかりの孫娘。
アルベルティーヌ・ヴァルモンである。
「アルベルティーヌ。そろそろお茶になさい」
「はい、お祖母様!」
木剣を置き、勢いよく駆けてくる。
エドガーが受け止めようとしたが、その横をすり抜けてノリオーヌの前へ立った。
「お祖母様、今日もお綺麗ですわ!」
「まあ。ありがとう」
アルベルティーヌは満足げに頷き、今度は祖父を見る。
「お祖父様もそう思いますわよね?」
「もちろんだよ」
エドガーは答えた。
そして妻を見た。
結婚して三十年近くになる。
子どもを五人育てた。
孫までいる。
それでも。
ほんの少し、耳が赤くなった。
アルベルティーヌが目ざとく見つける。
「お祖父様」
「何だい?」
「また赤くなっておりますわ」
「……そうかな」
「そうですわ」
ノリオーヌが楽しそうに笑った。
「この方、昔からこうなのよ」
「お祖母様を見ると?」
「ええ」
「どうしてですの?」
「さあ。お祖父様に聞いてごらんなさい」
アルベルティーヌが祖父を見つめる。
逃げ場がない。
エドガーは少し考えてから、
「お祖母様が、今でも綺麗だからかな」
と答えた。
ノリオーヌの手が止まった。
「……あなた」
三十年経っても。
そういう不意打ちだけは、まったく上達しない。
いや。
上達しないからこそ、全部本気なのだと分かる。
アルベルティーヌは今度は祖母を見た。
「お祖母様も赤くなりましたわ」
「なっておりません」
「なっております」
「なっておりませんわ」
「お祖母様」
五歳の少女が腰へ両手を当てた。
「自分がお祖父様をからかうのはいいのに、自分が言われたら認めないのはおかしいですわ」
ノリオーヌは黙った。
エドガーが横を向いた。
肩が震えている。
「あなた」
「……はい」
「今、笑いました?」
「いいえ」
「笑いましたわね?」
「お祖父様は悪くありませんわ」
今度はアルベルティーヌが祖父を庇った。
「お祖母様が先にからかったのでしょう?」
「まあ」
「まあ、ではありませんわ」
ノリオーヌは、目の前の小さな孫娘をじっと見た。
そして夫を見る。
「……この子、誰に似たのかしら」
エドガーは答えるまでに少し時間を置いた。
「あなたでは?」
「あなた」
「はい」
「今夜、覚えていらっしゃい」
エドガーの耳が、また赤くなった。
アルベルティーヌが大きなため息をつく。
「お祖父様も、いつまで照れておりますの?」
とうとうノリオーヌが吹き出した。
王国随一の美女と呼ばれた女公爵と。
田舎伯爵家から婿入りした、朴訥な三男。
二人が作ったヴァルモン公爵家では、
爵位より働きを見て。
顔より頭の中を重んじ。
おかしいと思ったことは、相手が誰であろうと口にする。
そんな家風が、いつしか当たり前になっていた。
「アルベルティーヌ」
「はい、お祖母様」
「お茶になさい」
「はい!」
少女は椅子へ座った。
そしてテーブルの中央に置かれた焼き菓子へ、さっそく手を伸ばす。
「アルベルティーヌ。まだ皆のお茶が揃っておりませんわ」
ぴたりと手が止まった。
「……取ってはいけませんの?」
「ええ」
「分かりましたわ」
素直に手を引っ込める。
その直後。
エドガーが自分の皿から一つ取り、孫娘へ差し出した。
「これは私の分だから、どうぞ」
「ありがとうございます、お祖父様!」
嬉しそうに受け取る。
ノリオーヌが夫を見る。
「あなた、甘やかしすぎですわ」
「五歳ですから」
「五歳だからこそです」
するとアルベルティーヌが菓子を持ったまま、祖母と祖父を交互に見た。
「でも、お祖父様が自分の分をくださるのは、お祖父様の勝手ではありませんの?」
ノリオーヌは口を閉じた。
エドガーも黙った。
五歳の少女は首を傾げる。
「違います?」
「……違いませんわ」
「では、いただきます!」
ぱくりと食べる。
エドガーが笑った。
ノリオーヌは紅茶を一口飲み、
もう一度、孫娘を見た。
五歳。
まだ五歳である。
それなのに。
どうにも、この先ずいぶんと遠慮のない娘へ育ちそうな気がしてならなかった。
その予感が正しかったことを。
ノリオーヌが知るのは、もう少し先のことである。
今回は婚約破棄から始まりましたが、気づけばずいぶん真っ当に恋愛しておりました。
最初はもっと雑なざまあの予定だったんですが、田舎伯爵家の三男が思った以上に育ってしまい、婚約破棄がすっかり刺身のツマになりました。
政略結婚から、仕事の相性、信頼、恋愛へ。
私にしては珍しく、かなりちゃんと恋愛を書いた気がします笑
そして最後の五歳児。
はい、アルベルティーヌです。
どうやらあの遠慮のなさ、祖母譲りだったようです。




