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Episode1 兄の背中、弟の葛藤

 スポーツは身長が高いほど有利だ。高ければ位置エネルギーが大きくなり、それによって速度があがる。速度は重さだ。力を持つ者だけが敵を押しのけ勝利を掴む。しかしそれをくつがえしたプレイヤーがいた。東京都心の高層ビル群の中に立つ一際豪華な会見場は報道陣の熱気にあふれており、カメラのシャッター音とフラッシュが絶え間なく会場を埋め尽くす。天井から吊るされた巨大なスクリーンには日本プロバスケットリーグ、通称“JBリーグ”の東京ペガサスのロゴが映し出されており、壇上の中央にいる日ノ本海人は小柄な体格でありながらその存在感は誰よりも大きかった。その瞳には確固たる意思の光が宿っており、整った顔立ちに人懐っこい笑顔を浮かべながらもどこか人を寄せつけない威厳のようなものを纏っていた。それは数々の栄光を手にしてきた者だけが持つ特別なオーラであった。

「この度、プロバスケットボールリーグの最高峰であるNBAと契約が正式に決定致しました。契約チームに関しましては東京ペガサスからの正式発表をお待ちください」

 海人の言葉に会場中がどよめきと笑いに包まれる。これまで何度もささやかれていた噂がついに現実のものとなったのだ。日本人として2人目のNBA選手、そして現役JBリーグ選手としては史上初の快挙だった。

 海人は小柄な体格でありながら視野の広いゲームメイク、卓越した技術から生まれる突破力と得点力を武器に高校時代は名門である博多明神高校で1年からレギュラーの座を勝ち取り、夏のインターハイ、秋の国体、冬のウインターカップを制し、3年連続3冠を達成。U-17W杯では日本代表キャプテンとしてチームを過去最高となる4位に導き、文字通り日本を背負った男は世界を驚かせた。高校卒業後はJBリーグ史上初の新人王とMVPを同時に獲得するという快挙を成し遂げ、低迷する日本バスケットボール界の人気上昇に一役買ってみせ、そんな彼のメディアからの注目度は計り知れないものだった。

 画面越しでも伝わりそうなほどの報道陣の熱気。近年ではなかなか見ない注目度だ。そんな記者会見の様子は全国で生中継されており、北海道札幌市内の一軒家にもその熱気は届いていた。お茶の香りが漂うリビングで家族が海人の晴れ姿に見入っている中、海人の実弟である陸人の表情は家族の興奮と比例するように曇っていた。都心の豪奢な会見場でフラッシュを浴びせられて海人は朗らかに笑う。その笑顔が自分の知っている兄そのもので、弟である陸人は安心とも憧れともつかない複雑な気持ちを抱き、画面の光が陸人の目を刺した。幼い頃に両親を亡くした陸人の目にバスケットボール界の至宝と呼ばれ、華々しく駆け上がる海人の姿はどう映っただろうか。テレビの記者会見はますます熱が入っており、矢継ぎ早に記者たちから質問が飛び交う。そのほとんどが海人の成功を期待するものばかりだが、注目されればされるほど周りの環境は悪くなる。絶賛の声と同じように批判、妬みの声も同じように絶えない。

「日ノ本選手の世代は黄金世代と呼ばれおり、メディアの注目度も高い一方で批判的な意見もありますがそちらについてはどうお考えですか?」

 鋭い質問が飛ぶ。そんなあけすけな問いにも海人は一瞬だけ広角をあげ、迷いなく挑むように絶対的な自信で答えていた。

「批判的な意見があるのは認識しております。小柄な体系がNBAに通用するのかと。そんな前評判も自分自身のプレーで覆していきたいと思います」

「172センチという体格はNBAでハンディになるのでは?」

「そうでしょうね。誰もがそう思うはずです。でも僕はいつだってそうでした。だから僕はできない理由ではなく、できる方法を探してきた。小さいからこそ見える視野があるし、小さいからこそ生まれるスピードと工夫がある。僕の武器はそこにあります」

 記者席から感嘆の声が漏れる。海人は深呼吸をひとつ置いた。

「……アメリカのメディアは僕を小さすぎると笑いました」

 僅かに会場の空気が揺れるが海人は続ける。

「でも証明してみせます。日本人でもNBAで戦えるんだと」

 その瞬間、静寂を破るように大きな拍手が巻き起こる。無数のカメラのシャッター音が重なり、場内は熱を帯びた。最前列の記者が立ち上がる。

「日ノ本選手!NBA入りを決断された今、あなたにとって一番の支えとなったものはなんでしょうか?」

 海人は笑みを浮かべ、遠くを思い出すように目を細めた。

「家族です。祖母は僕がどんなに苦しい時も、どんなに無謀だと言われてもずっと信じて背中を押してくれた。祖父は物静かな人でしたが、練習終わりに夜中でも車で迎えに来てくれた。その沈黙がなによりも心地よかった。姉はいつも言ってくれました。お前の夢ならどんなに遠くても追いかけろと。家族の支えがなければ僕はここまで来ることができませんでした。本当にありがとう」

 海人のメッセージを受け取った祖母の明美は目元を拭い、祖父の修は寡黙ながらも誇らしげに明美の淹れた茶をすすっていた。姉の空良はひっきりなしに来るメッセージに大興奮のまま返信している。陸人は息を潜めて海人の声を聞いていた。

「そして、陸人」

 突然名指しされた陸人は肩を跳ねさせた。海人はカメラを真っすぐに見据えており、画面の中の兄と目が合った気がした。

「陸人には挑戦し続けてほしい。夢を諦めるな」

 どくんと陸人の心臓が脈を打つ。茶の間の音が遠くなった気がした。なにか訴えかけるような表情を見せた海人だったが、記者たちからの言及を避けるためか次の言葉を即座に語った。

「日本人だからできないとそう言われ続けてきました。172センチじゃ通用しない。何度も耳にしました。正直悔しくてたまりませんでした」

 海人が言葉を切り、場内に緊張が走る。しばしの沈黙の後、再び海人の目は強い光を宿していた。

「でもその度に思ったんです。無理だと決めつけるのは他人じゃない。自分なんだって。僕が諦めたら本当に無理になる。だから挑戦をやめなかった。小さいから無理?それなら僕は小さいからこそできることを全て武器にする。スピード、視野、判断力。そうやってここまで来ました。NBAでもそれは変わりません」

 会場の空気が熱を帯び、カメラのフラッシュが一斉に瞬く。海人は一呼吸置き、はっきりとした声で宣言する。

「常識を打ち破るために僕はコートに立ち続けます。日本人が当たり前にNBAでプレーする。そんな未来が必ず来ることを僕が証明します」

 しばしの静寂。そして爆発。記者たちが一斉に立ち上がり、場内は海人への大歓声と万雷の拍手に包まれる。激しい画面の明滅。テレビの画面では記者会見が終了し、海人が報道陣に頭を下げている様子が映し出されていた。その後も番組はその熱を盛り上げるように海人の特集に移り変わっている。

「……海人も立派になったもんだ。あの小さかった子が世界に挑戦するなんてな」

「本当に。でもアメリカは遠いね」

 静かに呟いた修に空良が同意する。どちらの声にも誇らしさと少しの寂しさが混じっていた。

「陸人もお兄ちゃんのこと誇らしいわよね」

「……うん」

 明美が優しく声をかけるも陸人は生返事を返すだけだった。海人の華々しい実績と映像が流れる中、陸人の表情がどんどん硬くなっていく。画面の兄の姿は陸人にとって眩しすぎて直視できるものではなかったからだ。

「大丈夫?顔色悪いよ」

「ちょっと疲れただけ。俺、部屋に戻るから」

 陸人は無理に笑顔を作ってみせたが、それが嘘であることは空良にバレバレだった。階段をあがる背中から空良の心配そうな視線を感じていたが、振り返ることはせず自分の部屋に戻った陸人はベッドに横になりながら天井を見つめた。部屋の隅には中学時代に使用されていたバスケットボールがそっと置かれている。もう何ヶ月も触っていないが捨てることもできずにいた。海人が自分に向けた言葉が頭の中で何度も繰り返される。でも陸人にはもう夢なんてない。あの日を最後に全てを諦めたのだ。



 海人は日本での最後の数日を北海道札幌市内にある実家で過ごし、姉の車で新千歳空港国際線へと向かった。祖父母には実家の玄関で別れを告げ、陸人と空良が出発ロビーまで見送りに来ていた。

「大丈夫?忘れ物はない?あったらすぐに言ってね。国際便で送るから」

 空良が誰よりも落ち着きなく海人の荷物を確認し、海人は苦笑を返す。

「心配しすぎだって、姉さん。足りないものは向こうで買えばいいんだし。それよりも引っ越し手伝えなくてごめんな」

「それこそ心配しすぎ!こっちは陸人がいるからどうにかなるし、気にせず暴れてきなさい。海人ならやれる!自信持って行ってこい!」

 空良に謝罪する海人の雰囲気はかなり大人びていて、陸人は本当に自分がこの男と血の繋がった兄弟なのかと疑問に思うほどの顔をしていた。テレビの画面越しに見たことが影響しているのだろうか。まるで違う人のように思える兄の存在に陸人はなにも言葉を発することなくただただ見つめることしかできないでいた。

「陸人」

 海人は陸人の前に立った。2人の視線が合った瞬間、空気がぴんと張り詰めて短い沈黙が落ちる。互いに言いたいことは山ほどある。しかしお互いに心配しながらも素直に気持ちを伝えきれない不器用さを持っており、それが言葉を塞いでいた。しばしの沈黙の後、海人がゆっくり歩み寄って低い声で切り出した。

「俺は行く。厳しい世界だけど見返してくる」

 その瞳は揺るぎない光を放ち、挑戦者として覚悟を示していた。これは海人の贖罪だ。陸人がバスケを辞めた原因の一端は自分にある。自分が輝けば輝くほど陸人が比較されることは知っていた。それでも夢を諦めることができずここまで来た。本来なら謝罪すべきだろうが、もし海人が逆の立場だったらその謝罪は余計馬鹿にされているように感じてしまい、さらに弟の意欲をなくしてしまう事態に陥るだろうと思い、この日を迎えてしまった。だけどここでなにも言わなければ兄弟の亀裂は二度と埋まらないだろう。故に海人は生気の薄い表情でこちらを見続ける陸人に宣言する。

「俺たちでもこんなにやれるんだって証明してみせる」

 アメリカメディアの評価は厳しい。たかが少し天才的才能を持っている程度の日本人が元々の血や身体のできが違う外国人との体格差を埋められるわけがないと。海人はそれらの情報が耳に入る度にそうかもしれないと思うことが何度もあった。だが自分の存在が弟を大好きなバスケから遠ざけてしまった。ならば弟にこの先どんなことがあっても恥じない兄になるために夢を叶える。それが兄として、男としてやるべきことだと信じて疑わない。陸人は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。俺たちという言葉に陸人も含まれているようで嬉しかった。その瞬間だけ陸人の心から迷いが消える。幼い頃、兄と並んでボールを追いかけた日々が脳によぎる。

「兄貴なら絶対にできる。負けるなよ」

 海人は久しぶりに見た陸人の笑顔に肩の荷がおりたようにホッと息をついた。自分の中の負債を返し終えた。ようやくこれでアメリカにも立ち向かえる。まっすぐに自分を見て発せられたその励ましはどんな厳しいメディアの評価も突き破る勇気を与えられた。海人は陸人と空良に向き直ると決意を新たに言った。

 「絶対開幕戦で活躍するから見ててくれよな。アメリカをあっと言わせてやる!」

 自信たっぷりの海人を陸人は疑わない。きっと兄ならできるだろう。身長を苦にしないテクニカルなゲームメイクと得点力。そして圧倒的な不利に屈しないメンタル。自分にはないものが兄にはあった。次にこの笑顔を見るのは開幕戦後のインタビューでだろう。

「……あのさ」

 陸人には海人が言おうとしていることが分かるようで分からなかった。なにも言わないでいてほしいとさえ思った。しかしバスケを辞めたのは自分の選択だ。そのことについて兄を責める気持ちは陸人の中にはない。だから謝られたくも慰められたくもなかった。

「陸人は高校でバスケをやらないのか?」

 成長期でぐんと身長が伸びた陸人を見あげて海人が問う。陸人はやるともやらないとも言えなかった。ただもうバスケとは無縁の生活を送りたいというのが陸人の本音だ。しかしそれを言えば兄を傷つける気がして陸人は口ごもる。その様子をどうとったのか海人はさっぱりと笑い、陸人の胸に拳で軽く叩いた。

「お前の人生だ。でもたった一度だけの青春、後悔だけはするなよ」

 保安検査場に海人の背中が消えていく。その背中に陸人は呼びかけたが、海人は振り返らず拳をあげて応える。陸人は知らず拳を握り締めていた。すると背伸びした姉がごしごしと乱暴に陸人の頭を撫でた。

「陸人は陸人。海人は海人だよ。自分の道を見つけなさい」

 姉の言葉に陸人は素直に頷いた。独立を機に春からは上京する姉にくっついて東京の高校に通う予定だ。新しい土地でなら気分も新たに学校生活を送れるだろう。陸人はまだ冷たい北海道の空気を吸い込んだ。いつもより深く呼吸できる気がした。



 時が経ち、春。東京の交通機関にもやっと慣れた頃、陸人は真新しいローファーを履いて玄関に立った。空良が陸人の締め過ぎたネクタイの形を整えながら言う。

「入学式行けなくてごめんね。どうしても仕事が立て込んでて」

「気にしないでいいよ。会社を立ちあげたばっかで忙しいのにさ。それに入学式に姉ちゃんがいたら浮くし」

 ぶっきらぼうに返す陸人の頭を空良はごしごしと撫でて言った。

「陸人は高校でなんでもいいから楽しいことを見つける!それだけ頑張んな!」

「楽しいこと?」

「勉強でも、部活でも、誰かとの雑談でもいい。苦しいだけの時間ってもったいないでしょ?」

「……兄貴みたいに?」

「うん。でも海人の真似じゃなくて、ちゃんと陸人のやり方で」

 姉の温かい声援が陸人の胸に沁みた。

「行ってくるよ、姉ちゃん」

「行ってらっしゃい!」

 無邪気な姉の笑顔を背に陸人は新たな一歩を踏み出した。春の水分をいっぱいに含んだ風が陸人の髪をさらう。学校に向かう電車の中は新しい服のにおいで満ちていた。光る新緑に囲まれて陸人は東京私立静南高校の門をくぐる。体育館へ続く渡り廊下を歩く陸人の背中になにかがぶつかった。振り向いた陸人の息が止まる。バスケットボール。海を越えて逃げてきたはずなのにそれは追いかけてきたように転がっていた。

「悪い!それこっちに投げてくれ」

 着崩れた制服の生徒がこちらに向かって手を振る。その背後には屋外バスケットコートが見えた。どうして。姉の言葉を胸に心機一転をはかろうとしているのにどうしても兄の言葉がこだまする。足元に転がるボールを拾いあげる。使い古された皮のにおいがした。陸人はしばらくかすれた印字を見たまま動けなかった。

「どうした?」

 いつの間にか陸人に声をかけた生徒は近くまで来ており、気遣わしげにのぞき込まれる。慌てて陸人が投げたボールは綺麗な軌道を描いて上級生らしき生徒の胸に収まった。意外そうな顔をした上級生が陸人の190センチもある上背を見ながらさらに近づいてくる。

「もしかして経験者?バスケ部に入るのか?」

 期待のこもった眼差し。それは日ノ本ではなく陸人に向けられていた。そのことにどうしようもない気持ちが湧きあがり、陸人は目を逸らした。今更だ。

「もうバスケは辞めたんです」

「そうなのか?もったいないな」

 癖のようにボールを指の上で回している上級生に背を向けて陸人はその場をあとにしようとした。

「あっ、おい!待てよ!」

 上級生は陸人を引き留めた。愛想もなく振り返れば上級生は笑みを見せた。それは兄とよく似ていて思わず息を呑む。

「お前、新入生だろ?どこ出身?」

「……北海道。あっ、いや、札幌」

「遠いな!東京、すごいだろ?」

「人が多すぎます」

「皆そう言う。でもすぐに慣れるさ」

 ふと笑い合う。その瞬間だけ緊張の糸が少し緩んだ。上級生が握手を求めてくる。

「これからよろしくな!なんかあったらいつでも頼れよ」

 差し出された手を握り返して、陸人はハッとした。固い手のひら。間違うことはない。バスケットボールプレイヤーの手だ。上級生と別れ、陸人は足早に入学式に向かった。バスケットボールのざらついた手触りがよみがえり、陸人は奥歯を噛み締めた。

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