2009年8月20日午前1時32分
「うーん。ちょっと、はしゃぎすぎたかな…」
深夜1時32分。友人との「夏のオープンキャンパスお疲れ様会」を終えた僕は、アパートまでの道のりを一人で歩いていた。
蒸し暑く、昼間にあれほど鳴いていた蝉の声も消え、街全体が寝静まる頃。頬に清涼な風が触れ、自分だけの足音がやけに遠く大きく響く。間の空いたそれぞれの街灯のわずかな明かりを頼りに、薄暗いアスファルトの歩道をひたすらに踏みつける。
まるで、この世が自分一人の世界になったかのようで、深夜だからだろうか、少しテンションが上がっていた。
「けど、就活もあるし、飲まなきゃやってられないな~」
こうやって友人の奢りに頼るしか酔う方法はない。
一応、近くて安くてうまい定食屋を最近見つけたから、健康面に関しては心配事は減っている。
ただ、やっぱりお金は欲しい。
「アキラは対人経験がなさすぎるんだよ。もっと、人に話しかけてみ?」そんなことを飲み友は言っていたが、それができたら苦労しない。
何かきっかけがあれば、あっという間に道から外れてしまうような僕にとって、対人関係は非常に頭の痛い問題だ。できる限り親しい人以外とは話したくない。いっそのこと、引き籠りたい。
「世知辛いなぁ。いつになったら好きなことができんのかな…」
誰もどうせ聞いてないだろう。そう思いながら普段はため込んでいる愚痴を好き放題に言い散らかす。
そうこうしているうちに僕は通っている大学の門の横を何事もなく通り抜けた。深夜の校舎はいかにも何かが出てきそうな陰影な雰囲気があり、とても近寄りがたい印象を持った。
___ドンッ
「えっ」
次の瞬間、何かの物音が耳に突入してきた。
重い荷物を上から落としたかのような、そんな鈍い音___瞬時に体が硬直した。
僕はすぐさま後ろを振り返ってみる。だが、そこには誰もいない。
気のせいか?そう思い、振り向き直って、再び歩みを進めようとした___ちょうど、そのタイミングだった。
___ドンッ、ドンッ、ドンッ
すぐに足を止めた。新しく音が反響し、警戒を強める脳内へと入ってくる。分からない。全く知らない音がする。
___ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ!
なんだ?どこから聞こえている?後ろにはいなかったから、こことは違う場所からか?だったら、大丈夫…
___ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ!!
いや、違う。後ろ斜めから___大学の門がある方向から聞こえてきている。
___ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ!!!
間違いなく、自分の背後からその音は聞こえてきている。
今思えば、どうしてこのときすぐに逃げ出そうとしなかったのだろうか?
音が聞こえ始めた段階で、どうして全力で走ろうとしなかったのか?
好奇心か、慢心か、ただのプレッシャーか、恐怖で動けなかったのか。
いずれにせよ、非常に愚かな真似をしてしまったということは確かだった。
僕はただの騒音だと自分を納得させようとして、もう一度、恐る恐る後ろを振り返った。
それは、夜の漆黒には決して混ざらない淡くぼやけた白だった。
見慣れた正門から出てきたそれは、人の形をしておらず、白い霧のような、祠から飛び出てきた神様のような《《ナニカ》》だった。
一瞬にも満たない0.1以下の秒数で、その姿全体を僕の瞳は映し出してしまった。
『…あぁ・・・・あぁ・・・』
ギョロリと向けられる瞳孔の開いたトンボやカマキリによく似た赤い目。果てしない穴のような真っ黒な口。上半身に集中した千手観音を彷彿とさせる無数の腕。
そして、真冬の雪のようなわずかな汚れすらない白い体。
それは絶対に人間と呼べる生命体ではなかった。
あれは不味い。
何十兆もの僕自身の細胞が、今すぐに駆けろ、死にたくなければと、無数の警告を発していた。少なくともこの世に生を受けてから今に至るまで、あんな恐ろしい異形の怪物は見たことがない。
体は一向に言うことを聞かない。
ウゴカナイ。今、自分は呼吸をしているのかも怪しい。
この圧迫感はどこかおかしい。
『あぁ・・・あぁ・・・』
ルビーにもよく似たその眼が、周囲を見渡し始め__こっちを見た。
顔がはっきりとこちらに向けられた。
『あ・・・』
そのナニカは少し驚いたような表情を見せると、次の瞬間。
ニタァとひどく歪で、邪悪な笑みをこちらに浮かべた。
走れ。今すぐに___
そう思うよりも先に体はとっくのとうに動き出していた。
跳ね上がる身体、限界まで開かれる瞼と血管が迸る目、激しく反転しグワンと揺れ動く内部。
響くはずのない合図の鉄砲音を感じながら、僕は両腕両足をめいっぱい振り回し始めた。
本能が、体の奥底が、あの謎の化け物に怯えている。恐ろしい気配を、濃厚な死の気配を芯から感じだしている。脳内が走ることのみの指令で埋め尽くされる。胃から酒が出そうになる。全身が火照る。心臓が異常なまでに騒がしい。
早く、とにかくだ。とにかく、今は逃げなければ。
後ろから人のけたたましい笑い声がする。金属と肉がぶつかる音がする。バタバタとうるさい足の衝撃も伝わってくる。何が起きているのかも全部は把握できていない。
それでも、もうすぐそこに迫ってきている。ギリギリのペースで僕は大地を蹴り続ける。
いや、どこに、どこに逃げる?
自宅は無理だ。鍵を開けようとするときに襲われる。
公衆のトイレ…だめだ。あの体からして隠れても、ドアの鍵を閉められても、強制的に引きずり出される。そもそも、公園から離れすぎている。
公共施設はこの深夜帯では空いていない。
どっかの家は、論外だ。
学校もルートが物理的に塞がれている。
ああ、本当に最低最悪だ!詰んでいるじゃないかクソがっ!?
あの地獄からの使者のような化け物の足音は一切止まる気配がない。止まれば死ぬのは簡単に想像できる。できるが、行く場所がない。
気づいた時には、街の中央にある河原の方まで僕は走っていた。
そうして、その近くを走り続けていたときだった。突如として、僕の右足に違和感が落ちる。足先を石のような、あるいは、コンクリートのようなもので強く当たったようなこの感覚。
あっ、終わった。
そう思ったときには、僕の平衡感覚が死んだ。河原の方へ、身体が浮いていく。
目まぐるしく入れ替わっていく視界、引っかからない腕、曲がり叩きつけられる足、全身に走る肉が裂かれる衝撃、唸る背骨、震動する脳内。
転んだ。この一番最悪なタイミングで。直感的にそう悟った。
辺りを大きく確認してみるが、人気はなく、真っ暗なままだ。かすかにザーザーと一定間隔で流れる川の旋律と堆積岩の削れる音がする。あとは、じめじめとした地面に生い茂る雑草達。体に触れる湿った枯草と泥。
鉄のような生臭い嫌な香り。
そこへ、聞こえてくる。機械的な規則音。
ドンッ、ドンッ、ドンッ、うるせぇな。そう悪態をついても何も起きやしない。
それから、ぐちゃべちゃと草木を踏み潰すような音も少々聞こえてくる。
心の臓が何回か大きく大きく蠢いた気がした。
嗚呼、これはやったな。
もう無理だった。先ほどまでの体感的に、明日は筋肉痛では済まないほどの苦痛が待っているだろう。まあ、明日はもう迎えられないだろうが。
それほどまで消耗しているのに加えてこの身体の傷だ。絶対に体中に傷があるだろうし、どこかの部位の骨も折れていることだろう。さっきから足の感覚も止まっている。
よって、もう動くことはできない。
___死にたくない。
死にたくはないな。
今際の際でこんなことを思ってしまう。
遅い。遅すぎる。それはねぇだろうよ、神様。
未練タラタラだ。こっちに来るなと全力で心から叫びたくても、叫ぶ気力もありはしない。
____嫌だ。こんな非科学的な死に方は。
せめて人らしく死なせてくれ。
「ふ、ふざっ…け…る、な」
精一杯の抵抗は、この一言だけ。
その瞬間、規則的な足音が止まる。
___来てしまったか。
全身にペタペタと撫でられるような気持ち悪さと戦慄が伝わってくる。おそらく、無数の手がいじくっているに違いない。足も複数動かしているようで、さっきから煩わしい。
眼前に映るのは月ではなく、赤い宇宙に覆われた黒い月のような瞳のみ。
ギョロギョロと魚のように動くそれを見ながら、身体が小刻みに震えだす。
化け物のよだれと思われる灰色の液体が、顎と首筋にぽつぽつと落ちていく。
気味が悪いほど真っ白な顔面は、信じがたいほどに醜悪な笑顔に染まっていた。
『あぁ・・・』
僕は最後の光景に、飛び散る鮮血の海を見た。




