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久我花子:定食屋の開店前


仕込みは朝3時から夫である篤長が行う。

この歳になると朝から動き続けるのも辛いのだが、あの人はそうではないようだ。いつも朝4時半に起きる自分とは違う。

顔を洗って、簡単な朝食としておにぎりを食べて、お茶を飲んで、それから少しメイクをして、パジャマのままで作業をする。


テーブルと椅子を丁寧に丁寧に綺麗な布で磨いて、箒とチリトリで床を清掃する。玄関もだ。一つも残さずに掃除する。

出す食器も前日から用意していたものを確認して、店内が埃一つないかを必ず確認する。あと、額縁も確認しておく。色んな人との思い出を飾っている大切なもの。


大好きな息子夫婦、常連の人たちとの集合写真、愛する孫との記念写真。


どれも本当に大切なものだから、毎日、落ちちゃわないように確認する。


そしたら、ようやく手を洗って、いつもの赤い作務衣を着て、夫の仕込みを手伝う。

今日の特別メニューは特盛餃子定食だ。宇都宮や浜松にも負けない名餃子を作ってみたぞと、昨夜に夫が高々と宣言していたことは記憶に新しい。ぶっちゃけ餃子はどこも美味しいと思うのだけど。


他のメニューは、ハンバーグ、メンチカツ、コロッケ、焼き肉…大変だが、手を抜くわけにはいかない。できる限り確実に、美味しくなれと願望を込めて行う。

それが済んだら、手を洗ってから漬物や付け合わせの野菜類を切らねばならない。食器とコップの管理も忘れずに行っておく。冷房も点けておかねばならない。


すると、突然、店の扉がガララと開いた。おかしい、暖簾のれんはまだ掲げてはいないから、お客さんたちが入ってくるわけがない。それに、バイトのあの子が来るのはもう少し後のはずだ。


「あの、どなたですか…」

いぶかしみながら音のした方を振り向くと、そこには一人の青年が立っていた。

年齢は明らかに自分の孫と同じくらい若いが、前髪に白のメッシュが混じり、白い袴のようなものを身にまとっている。たしかこの服装は、神社の正装だ。表情は影で見えづらいが、間違いなく不機嫌だ。冷たく、こちらを警戒している視線。今までの経験で分かってしまう。


「…俺は万羅神社の神主の孫。綾小路正豊だ。この店に忠告をしに来てやった。」

「忠告…」

「とぼけるなよ。何年も前からアンタらが気になってしょうがなかったが、つい最近、とうとう一線を越えたな。それに、居ても立っても居られず、俺が来たんだ」


万羅神社の神主…この地域では有名な神社だ。正月には、よく夫と初詣に行っているし、大助だいすけの七五三をやったのもその神社だ。

その神主の孫がなぜここに?どういうことだろうか。


「あの、それでその、御用件は…」

「用件?そんなものは一つだ。今すぐにでもこの店を閉めろ」


その言葉を理解するのには、少々時間がかかってしまった。目の前の青年は何を言っているのだろうか。夫と一緒に長年続けているこの店を、この青年は閉めろと言った。

一体、何を言っているのだろう。


「ちょっと、そんなこと言わないでくださいよ。何なんですか、急に」

「悪いことは言わない。むしろ、今まで何故祖父をはじめ、誰も指摘しなかったのかが不思議なくらいだ。この地域のためだ。閉めろ」

「警察を呼びますよ。大体、あなたは一体何様の__」

「あんなことをしでかしておきながら!まだ知らぬふりを通すつもりかよ!?もうこっちは大方、分かっているんだぞ!?長年、俺達を欺いて!活動して!」


あんなこと…ああ、もしかして()()()()だろうが。確かにそれは非難されもしょうがない。だが、あれは必要なことだったのだ。少なくとも自分たちにとっては、間違いなく。それが、私達にとって、長年、店を愛してくださるお客さんにとって、これが最善な道なのだ。


重苦しい空気が流れる。目の前の綾小路と名乗った青年は、こちらに対してまだ鋭い眼光を向けていた。まるで、心の中の隠し事をすべて見通しているようで、ひどく気味が悪く、威圧感があった。


「…おい、お前」

そのとき、すぐ後ろから凛とした声が鼓膜を突き抜ける。

いつのまにか夫である店主が厨房から出て、綾小路に目線を合わせていた。その顔は見るまでもなく、親の仇でも見るかのような怒りの形相だった。思わずこちらもひるんでしまうほど迫力があった。


「てめぇに食わせる飯はねぇよ。さっさと帰りやがれ」

「あなたが店主ですか。なら、好都合だ。今すぐにでも、この店を閉めてください。すべての元凶があなたであることは、もうすでに分かっています」

「うるせぇ。お前の祖父に言われなかったのか?お前にそんなクソみてぇな権限はねぇだろうが。うまい飯を作って、毎日頑張ってる腹減ってるやつらに、腹いっぱい食わせてやるのが俺の仕事だ。お前みたいな店のことを全然分かってねぇ青二才に文句言われても、説得力なんてねぇんだよ。はよ、出ていけ」


その言葉に、青年は目を見開き、殺意丸出しの感情を浮かべ、嗚咽に近い声で夫を罵りまくった。

「…また、来ますよ」

そう言って、店のドアを乱暴に開き、勢いよく閉じて店から姿を消した。


「あいつ、随分前にも一回来やがったんだ。ほら、お前が茨城の実家帰ってたときだ。そのときは俺が対応しとった」

夫の顔はまだ怒りが収まっていなかったが、「けっ、あのやろう…二度来んじゃねぇ」と言うと、すぐにスタスタとまた厨房に戻っていった。

と、再び扉が開いた。


「おはようございまーす。あれ、どうしたんですか」

「あら、ダイちゃん。今日も早いわねぇ。ごめんね、ちょっと厄介なことがあって…けど、もう解決したから大丈夫よ」

「それならいいですけど…」


波乱はあったが、今日もまた少し後には、忙しい定食屋の一日が始まる。

私は気合を入れ直すために「バチン!」と頬を叩き、ダイちゃんをびっくりさせると、すぐにいつもの作業に黙々と取り掛かり始めた。


今日も、美味しいご飯が食べられる人々で溢れますように。



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