どっちが可愛い?
待ちに待った、その日。
産後のユキが自宅に戻ったと聞き、私たち四人組はようやくお祝いに駆けつけることになった。
大学卒業後もなぜか続いている、この腐れ縁。性格も趣味もバラバラな私たちを結びつけているのは、友情というより、もはや奇跡的なバランス感覚だけだ。誰かの一言で、いつガラス細工みたいに砕け散ってもおかしくない。
私の右隣、生粋の天然キャラにして歩く爆弾、パー子(花畑)が早速口火を切る。
空気を読むという機能が標準装備されていない彼女は、今日もエンジン全開だ。
「私、正直なところ、
赤ちゃんってあんまり興味ないんだよね」
ほら、始まった。
だが、もはや誰も気にしない。
いつものことだ。
私を挟んで向かい側、ロジカル・シンキングの権化、ロンちゃん(論子)
徹底的な論理主義者で、感情論が一切通用しない彼女も、すでに臨戦態勢だった。
「パー子、その発言は誤解を招くよ。
出産祝いは社会的な慣習であって、円滑な人間関係を維持するためには、
参加することが合理的選択だから…」
この調子だ…。
まったく、この調子じゃユキの心労が目に浮かぶ。
家に着く前から、私のHPはもう赤ゲージだ。
そして、そんな二人の緩衝材兼ツッコミ役が、何を隠そうこの私、普子。このグループにおける唯一の常識人枠だと、私は固く信じている。
毎回この二人の暴走を食い止めるのが、私の役目となっている。
「ロンちゃん、もう少しオブラートに包んだ言い方はできないの?
今日はユキをお祝いする日なんだから、お祝いムードで行こうよ!」
私がそう諫めると、
ロンちゃんは眉ひとつ動かさずに言い放つ。
「感情に流されれば、判断が鈍るよ。
今は冷静に状況を分析し、合理的に行動すべき」
パー子はそんなロンちゃんの言葉など意にも介さず、
「赤ちゃん見たら、どこ行く?カラオケ?」
と、スマホをいじりながら、能天気に呟いている。
ユキの家に着くまでに、私は一体何度天を仰ぐことになるのだろう。
それでも、この退屈しない毎日をくれるのは、紛れもなくこの二人なのだ。
ただ、胸の奥で何かがざわついていた。今日のこの訪問が、ただの「いつもの一日」では終わらない。そんな、妙な予感が肌を撫でていた。
こぢんまりとしたアパートのドアに揺れる、可愛らしいベビーシューズの飾り。
チャイムを鳴らすと、満面の笑みのユキが出迎えてくれた。
「わぁ、みんな、よく来てくれたね! 上がって!」
満面の笑みで迎えてくれるユキ。
「はい、これ。みんなからのお祝い!」
「うわぁ、嬉しい!本当にありがとう!」
プレゼントを受け取るユキの笑顔にホッとしたのも束の間、パー子が叫んだ。
「そんなことより、持ってきたケーキ早く食べようよ!」
パー子の言葉に、ユキの笑顔、ぴしり、と固まる。
「……」
「少子化対策という観点から、統計的にはあと二人欲しいね。
パー子と私の分も考慮すれば、合計八人の出産を推奨したいけど」
「そんなに、産めるわけないでしょ!」
すかさずツッコんだけど、ユキの引きつった顔はもう元に戻らない。
そう、これが私たち四人組の、いつものコミュニケーションなのだ。
ダイニングに通されると、旦那さんが水槽を覗き込んでいた。隔離された容器の中、オレンジと白の小さな命が無数にふわふわと漂っている。
「うわーー、なにこれ!?」
パー子が水槽に駆け寄る。
「エメラルドパファーの稚魚だよ。三日前に生まれたんだ」
はにかむ旦那さんに、私はすかさずフォローを入れる。
「えー! フグまで! ダブルでおめでたですね!」
「オレンジと白のしましま、やば!これ、めっちゃ天使じゃん!」
パー子が稚魚に夢中になっている、まさにその時。
奥の部屋から、ユキが赤ちゃんを抱いて現れた。
柔らかな産着に包まれた小さな天使。
部屋に差し込む光が産毛を照らし、きらきらと輝いている。
その光景は、あまりにも神聖で、私の胸を静かに震わせた。
「ほら、赤ちゃんですよ。ちゃんと見てあげて?
みんなにご挨拶」
ユキはそう言うと、赤ちゃんの小さな手を優しく握り、
私たちに向かって振ってみせた。
「わぁ、可愛い!ユキにそっくりね!」
私が言うと、ユキは「ありがとう!」と嬉しそうに微笑んだ。
パー子はフグの稚魚に夢中で、赤ちゃんには一瞥もくれない。
一方、ロンちゃんは、赤ちゃんをじっと観察している。
「出産という極めて困難なプロセスを完遂したこと、賞賛に値する。
啼泣も活発。健康状態は良好のようだ。おめでとう」
「……うん、ありがとう」
ユキが、ふと我に返ったように言った。
「あ、ごめんね。ケーキとお茶、用意するね」
「私がやるよ。ユキは座って休んでて」
キッチンに立ち、ケーキを皿に取り分けながら、私は静かにため息をついた。
(まったく、パー子は空気を読まないし、
ロンちゃんは論理で人の心まで解剖しようとするし……)
冷蔵庫からミルクティーを取り出し、ポットに注ぐ。
(仲良し四人組、だなんて。
よくもまあ、こんな奇跡的なバランスで成り立っているものだ……)
ティーカップの数を数えていると、リビングから微かに赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
(それでも。今日くらいは、穏やかに過ごせるって、思ってたんだけどな)
私がケーキとお茶をテーブルに並べ、
みんながフォークを手に取った、まさにその時だった。
「ねえ、これ言ったら怒るかもしれないけど……」
私の手が止まる。
「パー子、待って。お願いだから、何も言わないで」
だが、もう遅かった。
「フグの赤ちゃんのほうが、ぶっちゃけ可愛くない?」
シン―――……。
その瞬間、旦那さんを含め、その場にいた全員の空気が凍りついた。
ユキの顔から、すっと表情が消え、口元が微かに引きつるのが見えた。
「まず分類学的に、魚類に“赤ちゃん”という呼称は、適用されない。」
ロンちゃんが冷静に指摘する。
「そういう問題じゃない!」私は叫んだ。
「……あ、あはは……」
ユキは笑っていたが、その顔は明らかにひきつっていた。
(ああ、どうしてこの子たちは、こんな残酷なことを言えるんだろう。
せっかく、可愛い我が子に会いに来てくれたっていうのに……)
心なしか、ユキの腕に抱かれた赤ちゃんの体が、わずかに強張ったように感じられた。
「赤ちゃんを『可愛い』と思う感情は、
血縁関係か社会的な刷り込みによるものだよ」
ロンちゃんが眼鏡をクイッと押し上げ、冷徹に分析を続ける。
「純粋な見た目の魅力で言えば、人間の赤ちゃんが持つベビーシェマは
本能に訴えかけるが、客観的に『可愛い』と感じるかは別問題だしね。
むしろ少数派。だから、パー子の『フグの方が可愛い』という発言は、
お世辞抜きの本音の可能性が高い。
ユキが動揺しているのは、母親としての期待と、
その事実とのギャップに戸惑っているからだろう」
「ロンちゃん!もういい加減にして!!」
自分でも驚くほどの大声が出た。
「ユキは今、赤ちゃんを産んで、寝る間もないくらい大変なの!
それを『合理性』だの『ベビーシェマ』だの、
そんな言葉で切り捨てないでよ!」
パー子もロンちゃんも、鳩が豆鉄砲を食らったように私を見ていた。
「……私だって、いつも仲裁ばっかりで、もう疲れたのよ。
たまには私の言うことも、聞いてよ……」
胸の奥に、ずっと澱のように溜まっていた
何かが、涙となって滲み出た。
「え、でもフグの赤ちゃん、ほんとに可愛いじゃん?」
悪びれもなく言うパー子に、ユキがひきつった笑顔で絞り出す。
「……う、うん、フグも、可愛いよね……?」
その目は一瞬、水槽の旦那に向けられたように見えた。
旦那が、水槽から顔を上げて無理に笑う。
「ハハ、どっちも可愛いよ。うちはフグも赤ちゃんも、どっちも宝物だから!」
その言葉が、かえって場の空気を重くした。
ユキはどこか寂しそうに赤ちゃんを抱きしめると、
ケーキには手を付けず、そっと奥の部屋へと消えていった。
その背中には、言いようのない疲労と、
小さな怒りの炎が揺らめいているように見えた。
旦那さんもその場の空気に耐えられなくなったのか、
「少し外の空気を吸ってきます」と言い残し、
逃げるように家を出て行ってしまった。
静まり返ったリビングで、突如、ロンちゃんが口を開いた。
「この論争に決着をつけるには、第三者による客観的な評価指標が必要のようだ」
「……ねえ、もうやめない?」
声が震える。
「なんでこんな日に、
競争みたいなことしてるの……」
私だって、今日を心から楽しみにしてた。
ユキの赤ちゃんに会える日を。
なのに。
「ユキと赤ちゃんに会いに来たんでしょ?
どっちが可愛いとか、もうどうでもいいじゃない……」
私は、ただみんなで笑って、この日を終えたかっただけなのに。
「え、じゃあさ、AIに聞こうよ。AIって、絶対正しいんでしょ?」
パー子の突拍子もない提案に、私は耳を疑った。
「え!?ちょっと待って。なんでそうなるの!?」
「いいじゃん、やってみようよ。面白そう」
「って言っても、赤ちゃんの写真がないでしょ」
「写真はっけーん。赤ちゃんが生まれた家には、
写真立てが飾ってあるのがお約束じゃん!」
パー子がリビングの棚から、にこやかに笑う
赤ちゃんの写真を見つけ出した。
「フグの稚魚の写真も確保した。
では、これより公平なるAIジャッジを開始する」
ロンちゃんが水槽の稚魚をスマホで撮影。
リビングに置かれたタブレットを操作し始める。
やがて画面に、それぞれのAIによる回答が表示された。
■ChatGPT
「どちらの存在も、生命の輝きに満ちており、非常に魅力的です。
人間の赤ちゃんは成長と未来の可能性を、
フグの稚魚は水中の生命の神秘を象徴しています。
どちらが『かわいい』と感じるかは、
個人の価値観や感性に深く依存する問題です」
パー子
「なにこの優等生コメント。つまんない」
ロンちゃん
「社会的バイアスを考慮し、中立性を保った無難な回答だね」
普子
「うんうん、AIだって、そう言うよね!」
■Gemini
「フグの稚魚は、その鮮やかな色彩によって高い視覚的刺激を与えます。
一方、人間の赤ちゃんは、顔の黄金比により、
本能的な保護欲や『かわいさ』の感情を誘発します。
どちらが優れているかは、その『使用目的』によって判断が異なります」
普子
「『使用目的』って何よ!」
パー子
「え、赤ちゃんって、何かに使えるの?」
ロンちゃん
「合理性を突き詰めれば、その結論に至るのは必然だよね」
■GROK
「フグのストライプは確かに派手で映えるけど、
赤ちゃんのほっぺの破壊力は最強の癒しだろ!
……ってか、赤ちゃんにフグメイクしたら、バズるんじゃね?(笑)」
パー子
「GROK、超ウケる!」
ロンちゃん
「このAIは、論理的思考能力が著しく欠如しているようだ」
普子
「SNS映えで物事を判断するな!」
私がツッコんだ、その時だった。
――ギィ……
奥のふすまが、きしむように、ゆっくりと開いた。
部屋の空気が、張り詰めた糸のように緊張する。
凍てつくような冷気が、じんわりと肌にまとわりついた。
「……お待たせ」
ユキの声は、氷のように冷たく響いた。
彼女の腕には、白とオレンジのストライプ模様のロンパースに身を包んだ赤ちゃんが抱かれている。
そして、赤ちゃんには、まるでフグの模様を模したかのような不気味なメイクが施され、貼り付けられたキラキラのシールが、異様な光を放っていた。
ユキは、亡霊のような足取りで、ゆっくりと私たちの方へ歩み寄る。その瞳には、普段の柔らかな光はなく、底なしの闇が宿っていた。
「パー子が、フグのほうが可愛いって言うから……
赤ちゃん、もっと可愛くしてみたんだけど、どう?」
ユキの目は、笑っていなかった。
息を飲むことすら忘れ、私たち三人は、ただその異様な光景をなすすべもなく見つめる。
パー子が引きつった笑いを浮かべる。
「え、なにこれ、めっちゃ怖いんだけど……!?」
「か、感情的反応を誘発する戦略としては、ゆ、有効だが……
倫理的には、も、問題があるのでは……」
いつも冷静沈着なロンちゃんも、明らかに動揺している。
「ユキちゃん、ちょっと、落ち着いて……!」
私は唇をかみしめながら、かろうじて声を絞り出した。
胸の中で、怒りと悲しみと後悔が、ぐちゃぐちゃに渦巻いている。
「……ほんとはね、私が一番、楽しみにしてたんだよ。
あなたの赤ちゃんに会えるのを……。なのに……!」
私の震える声に、ユキの目に、ほんの一瞬、動揺の色が浮かんだ気がした。
だが、もう遅い。
ユキは赤ちゃんをぎゅっと抱きしめ、囁いた。
その声は静かだったが、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを含んでいた。
「これで、論争は終わり、かな?
もう誰も、私の赤ちゃんを、バカにしたりしない……よね?」
ユキは、私たち全員の顔を、ゆっくりと、一人ずつ見渡し、さらに強く念を押した。
「ね?」
フグ風のメイクを施された赤ちゃんは、キラキラのシールを異様に輝かせている。
その小さな黒い瞳が、私たちを吸い込むかのように、じっと見つめ返していた。
「じゃあ、みんなで――うちの『フグより可愛い』赤ちゃん、
ちゃんと見てくれる?」
「は、はい……」
パー子は言葉を失い、青ざめた顔で震えている。
ロンちゃんは震える手で眼鏡をかけ直し、
その論理的な思考回路が完全に停止しているようだった。
私は無理に笑顔を作ったが、背筋を駆け下りる悪寒は、
家路につくまで消えることはなかった。
ダイニングの水槽の中で、エメラルドパファーの稚魚たちが、
そんな私たちをずっと見つめていた。
まるで、この惨劇のすべてを知っているかのように。
――何も言わず、ただ、
静かに見つめていた。
それが、この世の何よりも怖いことだと、私は思った。




