黒衣の美少女
食後のお茶を楽しみながら、僕は頬杖をついて卓袱台の上に広げた新聞を読み耽っている。面白い続き物の時代小説が連載されているのだ。
「そんなに眼を近付けていると、悪くなりますよ」
食器を洗い終えた小梅が、目敏く注意の声を飛ばして来る。
急須のお茶を注ぎ足しながら、僕は「はいはい」と受け答えする。
途端に、
「はい、は一度だけで十分です。――そもそも、総士郎様には鳴神家の跡取りとしての自覚がおありなのですか?」
そう言って僕の前でいきなり正座になると、両手を膝の上に置いて居住まいを正した。彼女の頭の上にある猫の耳は左右ともぴんと尖がっており、普段は持て余し気味のしっ
ぽも一種の緊張感をはらんで直立している。
正直困った事になった、と僕は思った。夕餉の様子から小梅の気分はそう悪くないと踏んでいたのだが、父さんも他の従者もいない今を絶好の好機と感じたのだろう。
父さんはともかく、従者達は全般的に僕に甘い。
普段でしゃばる事を由としない小梅は、鳴神家の頭領にして絶対者である父や先輩格の従者達がいる手前では何も言わないが、内心僕に対して忸怩たるものがあると薄々は感じていた。
偶然小梅と二人きりになる度に小言めいた事を言われてきた僕は、勘と経験の双方で「これは長期戦になる」と悟った。
とにかく、最早新聞小説の豪胆な剣豪達に熱中している場合ではない。
僕は仕方なく正座になり、小梅に相対する。
小梅はこほんと咳払いした後、まるで教鞭を執る講師のように右手の人差し指を立てた。
「私も、あまりくどくどと申したくはございませんが、――総士郎様、今年でお幾つになられたのです?」
思わず自分の年齢を指折り数えそうになって、慌てて頭の中で暗算した。そんな子供っぽいまねをしようものなら、小梅に何を言われるか……。
「十、九です……」
素直にこたえつつ、次に来るであろう小梅のお説教に備える。
小梅は畳の目に視線を落として、長い溜息を一つ。
「昔の日ノ本では男子十五にして元服が当たり前だったのでございますよ。それを十を九つも過ぎた大の男が、それも鳴神家の総領ともあろうお方がですよ、日がな一日ごろごろとなさっていては、いい笑い者でございます」
「あのね、小梅。今は、明治を過ぎて帝和の世だよ。髷に月代で腰には二本差しの時代じゃないんだ。それに――」
その先の言葉を、きりきりと眦を吊り上げる小梅の顔を見てしまった僕は飲み込んだ。明らかに薮蛇だった。
「総士郎様! 私が申したいのは、貴方様の気概のなさについてでございます!」
「きがい?」
鸚鵡返しに答える僕に、「左様でございます!」と小梅。ずい、と僕に顔を寄せてくる。
遂に始まったと、僕は心の中で吐息した。
熱弁を振るう小梅の顔が、僕のすぐ眼の前にある。
彼女は僕の日頃の行いを思い出すかのように眼を瞑り、人差し指をふりふり鳴神総士郎の精神構造を糾弾している。
対する僕だが、小梅の説教を殊勝に聞くには限界な程に、正座をした足の裏が痺れまくっていた。
お陰で気持ちが全部足の裏に行ってしまい、小梅の説教に集中出来ない事甚だしい。そのため、小梅には悪いが彼女の型通りの精神論はすっかり聞き慣れている僕は、その大半を聞き流していた。
そんな事露知らぬ体の小梅は説教を続いている訳だが、そんな彼女の真剣な顔が何だか可愛らしくなって、僕の胸の内に悪戯心が芽生えた。
僕には、時として衝動的に行動してしまう童心、端的に言えば悪童根性がこの年齢になってまで息づいているのだ。
僕はどうにか正座のまま体を前に倒すと、首を伸ばして小梅の顔を間近にとらえる。
小梅は余程僕に言いたい事が募っていたのか、説教に身が入るあまり僕の顔と自分の顔とがマッチ一本分も隔てない距離にあるのに気付かない。
そして僕は、口唇の間から舌先を出すと、徐に小梅の鼻先をぺろりと舐め上げた。
「――ひゃん!」
背中に雹の一欠けらを放り込まれたような悲鳴をあげ、小梅はそのまま後ろにひっくり返った。
僕が思わず笑いの吐息をもらすと、すぐさま起き上がった小梅は瞑っていた両の眼を見開いて、驚きで一杯になった顔を両手の甲で擦り上げている。その所作はまさに猫だった。
「ななな、何を小梅になさったのですか! 総士郎様!」
本当に驚愕した顔をしている小梅に向かって、何故だか妙に稚気が込み上げている僕は、再びぺろんと舌を覗かせて見せる。
小梅は僕に顔を舐められたという事を理解したのか、一瞬で顔を真っ赤にすると、
「そそそ、総士郎様! 婦女子の顔を舐め上げるなんて、破廉恥極まりません!」
そう言って、烈火の如く逆立ったしっぽを膨らませた。
だが、今日の僕はどういう訳か小梅への揶揄の矛を収めるつもりが毛頭沸いて来なかった。鳴神家の広い屋敷に今は小梅と僕しかいない事が、心理作用に何らかの影響を与えているのだろうか。
「だけど小梅だって、昔は僕の顔を舐めた事があるじゃない。――ざらざらしてたけど」
僕の口から滑り出た言葉を耳にした途端、小梅の顔がきょとんとなった。
それから、僕の言葉を理解したのか、怒りとは違う理由で顔を赤くした。
「そ、それはまだ私が、己の領分を知らずにした事で……」
俄かにそわそわし始めた小梅は、僕から視線を逸らすと言い訳めいた事を口の中でもごもごさせている。
小梅のお説教に対して珍しく形勢逆転出来た僕は、胸のすくような痛快さを感じながら、そっと我慢に我慢を重ねた足を崩す。
小梅は尚も「あ、あれは尊敬の印のような」とか「子どもの時分の事ですし」とかを口にしていて、僕が楽な恰好をしている事に気付かない。
僕は僕でにやにやしながら小梅の言い訳を聞いていたのだが、その時きぃん、と澄んだ鐘の音のような音がした。
「――これは、総士郎様」
「妖払いの結界が鳴ったね。誰か家に来たみたいだ。それも、狐狸の類じゃない。結構なお客さんだ」
鳴神家では、普段は妖払いの結界を張るような事はしない。
元々父が人間以外の方面にも顔が広く、それこそ数多の物の怪や妖魅、地方の土地神、水神、山神が時折我が家を訪れる事がある。その際、妖払いの結界によって門前払いして気分を害させたのでは、相手の格によっては後々面倒な事になるので、基本的に鳴神家は余程の事がない限り結界を張らず、どんな来客者に対しても門戸を開いている。
しかし、今回父自身が長期の外出という事で、鳴神家に居残るのが僕と小梅のみという事を配慮したのか、防衛の意味合いを込めて一定以上の格の者に反応するような結界が張られているのだ。
「誰だろうね。父さんに馴染みの方々には前もって不在だって事を報せているから、遠方からのお客かな」
そう言って僕は膝を起こす。
「わ、私が見て参ります」
緊張感を滲ませた小梅が、幾分声を裏返らせながら立ち上がろうとするが、それを僕は手で制する。
「一応、今は僕が鳴神家の頭領だからね。若輩者だけどそれなりの挨拶はしておかないと」
僕は若干の当て擦りも含めて両膝立ちの小梅にそう言うと、立ち上がって一歩を踏み出そうとする。が、内心僕も緊張していたらしく、まだ痺れの取れていない両の足をすっかり忘れていた。
そのため僕の脚は自分の体重を支える事が出来ず、ぐにゃりと膝から崩れるように倒れてしまった。
前方、倒れ掛かる僕を、驚きのあまり丸く見開いた眼をした小梅の方に。
「うわわ!」
「総士郎様!」
小梅が咄嗟に両手を伸ばすが、倒れ掛かる勢いに乗った僕の体重を支えるには彼女の体勢が悪かった。
僕と小梅がもつれ合うように畳の上に転がる。
ずずっ、と左の頬が畳と擦れて焼けるような痛みを覚えるが、それ以上に身体の大半で感じた小梅の柔らかさが意外だった。
顔のすぐ近くには小梅の黒髪があって、それが自分の顔が映るぐらいに艶やかで、そこから漂う匂いは、まさに名の通りに花の香のようだ。
そんな事をぼんやりと考えていた僕の右の肩口辺りから、
「そ、総士郎様! 総士郎様!」
くぐもった小梅の声が聞こえた。
「ん? あれ?」
僕は畳の上に転がったまま、何かがおかしいことに気付く。
僕は小梅に向かって倒れた訳で、その僕は今、小梅の頭を自分の右肩と腕、更に左腕を回してがっちりと抱えている訳で……。
「い、息が、総士郎様、こ、小梅、小梅の口を塞いでおいでです!」
「ああ、ごめんごめん」
僕が少し身体を横にずらして腕の力を緩めると、酸欠のためか顔を真っ赤にした小梅が現われた。突然の事で、彼女も自慢の怪力を使えなかったのだろう。
「大丈夫? 何だか僕、咄嗟に小梅の事を組み伏せちゃってたみたいだけど」
小梅は首筋に片手をやると、少し具合を確かめながら、
「平気でございます。いきなりの事で驚きはしましたが、総士郎様が私の頭を庇って下さったお陰で他に怪我らしい怪我は」
そこまで小梅が口にした時、突然彼女の表情が固まった。そして、まるで何かに引っ張られるかのように、この部屋と廊下を隔てる障子に顔を向ける。
まさか、もう家の中に上がり込んだのかと思った次の瞬間、何の音もなく障子の向こうに人影が映った。
小梅が慌てて立ち上がろうとする暇も与えず、からりと軽快な音と共に障子が開かれると、そこには僕の、おそらく小梅も見知らぬ一人の少女が立っていた。
歳の頃は十七、八であろうか。
白磁のような肌の白さと、氷のような美貌が真っ先に眼を引いた。
白い額に筆で刷いたような眉。切れ長の双眸。
つんと高い鼻梁に、無駄な肉のない頬。
唯一口唇の色素だけが薄かったが、それが逆に世俗離れした高貴な雰囲気を齎していた。
また、彼女の肌の色とは対照的なまでに黒一色で統一された喪服のような洋装に驚いた。
上は黒のブラウス、下も同色のスカートで、両の脚の先を包んでいるのは、足袋ではなく艶めいた黒い絹のストッキングである。
と、どうして僕がハイカラな洋服について知っているかと言うと、ちょっと小梅には見られたくない雑誌の中に出ていたからである。
襟元を飾るブローチまで黒い少女は、長い黒髪を微かに揺らして、僕と僕の腕の中にいる小梅を一瞥した後、
「失礼。火急の用で参ったのですが、御頭首は不在のようですね。それでなくば、若い殿方が物の怪の女中相手に情事に耽るなんて事はありませんから」
氷片が舞っているかのような冷たい口調でそう言うと、「どうぞ、お続けなさいませ」と、からりと障子を閉めようとする。
僕は呆気に取られながらも少女が口にした「ジョージ」の意味を図りかねていると、小梅が凄い勢いで立ち上がり、閉めかけられた障子に手をかける。
「何ですの?」
閉めようとした障子で顔半分を隠した少女が無表情で問うた。一方、小梅の表情は分からないが、彼女の感情を反映してか、しっぽがぱんぱんに膨らんでいる。
「何が『何ですの?』ですか! 大体貴女、無断で鳴神家の屋敷に上がり込むなんて、どういう神経をしていらっしゃるのかしら!」
慇懃だが舌鋒鋭く小梅が言うと、
「だから、先程失礼と申した筈ですが? それとも、そこの殿方との睦み事を見てしまった事も謝れば宜しいのですか?」
冷え冷えとした顔と口調で少女が応える。
途端に、小梅の首の後ろが赤く染まるのが見えた。
「むむ、睦み事ですって!? だ、誰がそんな!」
思わず口篭もってしまう小梅。
成る程。漸く僕も「ジョージ」の意味を理解した。まあ、見ようによってはそのように見えなくもないか。
と、そんな事を考えている場合じゃない。
小梅が我を忘れて、今度は両手をかけて障子を開けようとしているのだ。
どうも先程から一枚の障子を通して、少女と小梅の力のせめぎ合いが行われているようだ。
小梅は、大の男の中でも長身の部類に入る僕を難なく担ぎ上げるぐらいの力持ちだが、その小梅と力比べをしても何ら顔色を変えないこの少女は相当のものである。
いや、今この家に張られている妖払いの結界を難なく潜り抜けている時点で、とんでもない格がこの少女にはある。
「ちょっとちょっと小梅、落ち付きなって」
僕も立ち上がると、尚も障子に手を掛けたままの小梅の肩に手を置いた。手の平越しに、小梅の華奢な肩の感触が返ってくる。
すると、漸く我に帰った小梅が障子から手を離して、俯きがちに下がると居間の隅で正座になった。
来客者として少女を迎えるつもりのようだが、当の少女が気分を害してなければよいのだけど。
少し面倒な事になったかなと思っていると、少女の瞳がこちらに向けられた。
蘇芳というのか、黒味を帯びた深い赤の眼が僕を見据える。到底人では辿り着けぬ、闇と神秘が溶け合った眼をしている。何より凄まじい美人だ。目の前にしているだけで迫力がある。
僕は少女の直視に、背中に冷や汗が浮かぶのを覚えながら、咳払いを一つ。
「――我が家の女中が起こした非礼の程、誠に申し訳ありませぬ。しかし、貴女様のご来訪の旨は存じ上げておりませぬ故、何卒ご寛恕下さいませ」
僕だって、一応はこれぐらい言える。大体、こっちだって何も父さんから聞いていないのだから。
少女は尚も障子で顔を半分隠したままだったが、
「貴方様は、鳴神家の御頭首の御子息とお見受けしますが」
切れ長の瞳を少し上目遣いにして、少女は言った。
元々類稀な美人なのに、ちょっと媚びを含んだようなその顔は反則だ。
そのお陰で、自分の立場も忘れて、心が少しときめいた。
しかし間髪を入れずに、
「総士郎様。鳴神家の総領としてのお役目、果たしなさいませ」
小梅の言葉が、矢よりも早く僕の耳に飛んで来た。
思わず僕が後ろを振り返ると、小梅はぷいと横を向いていた。
その横顔が、普段とは少し違う事に僕は気が付き、そして驚いた。
小梅、涙ぐんでる。
僕が止めたとはいえ、障子を舞台にした力比べでむざむざ引き下がるしかなかった事がそんなに悔しかったのか。
ともあれ、柑橘類や酸味のある食べ物を嗅いだ時以外に初めて見る小梅の涙ぐむ顔に冷静さを取り戻した僕は、
「ええと、僕、いや、私は鳴神総士郎ですが、只今父幻九郎は所用で出かけておりまして、留守を任されております。さて、貴女様は何用で当家に参られたのですか?」
一応それらしい事を口に出来た。
すると少女は、障子を開けて僕と真正面から対峙し、
「私の名は紐結纏。紐結の名、ご存知ありません?」
そう言う少女――紐結纏の周囲に、真冬の大気を彷彿とさせる冷気が降りたような気がした。
これが本来の彼女の姿なのだろう。
突如として恫喝めいた覇気を放つ彼女に反応して、妖払いの結界が騒然と鳴る。
至近距離で無数の鐘楼が鳴り響いているかのようで、鼓膜、いや五感そのものがどうにかなってしまいそうだ。
足場が急に泥に変わったかのような感覚に、僕は上体が崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。だが、視界の四隅は既に暗く縁取られており、徐々に視野を狭めて行く。舌に軽い痺れを感じる。何かを掴もうと振るう腕が、まるで自分の物ではないかのように不確かで、腕を振り回す度に弾性を失った筋肉が無理やり引っ張られるような感触がやけに生々しかった。
そして、目の前が墨汁のような黒に塗り潰される一瞬前に小梅の声を聞いたような気がしたが、それも薄れ行く意識の中では急流に投じた小石のように、その存在を微塵もなく失っていった。
そう言えば僕は、一つ大切な事を忘れていた。
目の前にいる少女が、害悪をなす者かそうでないかを判じる手段が何もない事を。