プロローグ――僕と愛猫
「……起きて下さいませ、総士郎様。……起きて下さいませ、総士郎様」
可憐だが地に根を張ってぴんと伸びている花のような、そんな耳に心地の良い声が夢現に聞こえる。
いや、確かに僕こと鳴神総士郎は、三時の惰眠を貪っている最中だったのだ。先程食べたカステエラのせいでお腹がくちくなり、床の間で眠っていたのである。
「……総士郎様、好い加減起きて下さいませ。お掃除の邪魔でございます。……もしや、わざと小梅を困らせようとしているのでございますか?」
いや、そんなつもりは毛頭ない。……ないのだが、うたた寝を邪魔される程気分を害する事はない。その事は、昔の小梅ならば十分に分かりそうなものなのだが……。
しかし、僕の閉じた瞼の向こうにいる筈の小梅に、それを理解している様子はなさそうだった。
「よう分かりました。……私も、大旦那様から屋敷の番をせよときつく申し付けをされている次第でございます。床の間付のお座敷は、お客様をお通しする大事な部屋。塵一つ落す訳にはまいりませぬ」
そう言うと小梅は、二つ折りにした座布団を枕にして仰向けに寝ている僕の背中と膝の裏に両の手を差し入れると、えいや、とばかりに抱き上げたのである。
流石に堪らず眼を開ける僕。
白い割烹着にその身を包んだおかっぱで黒髪の十代半ば程の娘が、僕の目に飛び込んでくる。
眉毛の上で真っ直ぐに切り揃えられた前髪と、大きな眼の中の幾分縦に長い瞳。小さな鼻、花の蕾のような口許。顔の各所は小作りだが、なかなか可愛らしい顔立ちをしている。だが、何よりも彼女を特徴付けているものがある。
小梅の頭の、頭頂部から指一本分を空けて左右に二つ、縁は白く、内側に向かって薄桃色をしている正三角形が、ぴんと立っている。
それはどう見ても正真正銘の、猫科動物の『耳』であった。
小梅は、鳴神家に長年住み付いていた白猫が、死後恩義を感じて人の姿となって現れた――物の怪であったのだ。
猫の物の怪である小梅は、童顔めいた容貌とあいまって普段は愛くるしい限りの存在なのだが、今の彼女の顔には全く愛嬌というものが欠如していた。
「……何でございますか? 総士郎様」
「……いや、下ろして、くれないかな……」
今年で十九となる好青年ことこの僕が、若い上に猫の耳付き女中に抱き上げられているというのは、まあ、格好良くはない。
だが小梅は、
「今の総士郎様は、私の仕事の邪魔をする大きなごみにすぎません。このままお部屋まで運び上げますので、どうか私の肩にお掴まり下さい」
全く意に介していない様子でそう言うと、大の男一人を持ち上げているというのに、小柄細腕の小梅はまったく危うげない足取りで床の間を出て行った。流石物の怪、見かけによらず大した力持ちさんである。僕の方は、男の威厳などそっちのけで落されないように彼女の肩に掴まった。しかし、小梅の肩は華奢な上に元々が猫のせいか、見事なまでにつるりとしたなで肩である。そのためしっかり掴まらないとすぐにずり落ちてしまうのだ。
そうなると、自然と必要以上に小梅に密着しなければならなくて、僕の顔の正面には小梅の横顔がある。
暫くじっと眺めていると、
「総士郎様。そんなに穴が開くほど見られては、小梅は困ります。足を踏み間違えて、転ぶ事になるかもしれません」
大きな瞳をきょろりと動かすと、そう言った。
それは甚だいかん。この体勢で廊下の床に落とされたら、衝撃と人体の神秘でお尻の割れ目が倍加してしまうかもしれない。
そんなわけで彼女の注文どおり、小梅の顔をなるべく見ないように下を向いたのだが、僕の視線の先では、小梅の割烹着のお尻のあたりから伸びている白くて長いものが一本、ぷらんぷらんと揺れていた。どう見てもそれは、猫のしっぽであった。
小梅には、猫の耳の他にも、歴然たる猫のしっぽがあるのだ。
僕はそれの毛の膨らみ具合や揺れ方の頻度から、小梅の機嫌を窺い知る事が出来る。少しの間観察したが、幸いな事に小梅はそれ程気を荒立ててはいなかった。はずであった。
「……総士郎様。鳴神家の御嫡男ともあろう方が、女の尻ばかり見ているというのはどういう了見ですか」
小梅の、鋭利な鏃の非難の矢が、僕の心臓に突き立った。
ここで本当はしっぽを見ていたのだと言っても、おそらく信用されないだろう。しかし、まさか小梅の尻を見ていたのだとも言えない。そう言ったが最後、生真面目過ぎる小梅にどんな目にあわされるか、想像するだにおそろしい。何しろ僕の父である幻九郎が、どういうつもりか小梅以外の従者をみんな引き連れて帝都へと仕事に出て行ってしまい、実質鳴神家には僕と小梅の二人しかいないのだから。
しかし、顔を見るなと言ったのは小梅である。そのため視線を泳がせた先にあったのは小梅のしっぽであり、決して僕にやましい気持ちがあったわけではない。――それでも顔を見なくて尻を見てよいという免罪符にはならないのだが。
結局、僕はそ知らぬふりを決め込んだ。
小梅は「――総士郎様」と幾分きつい口調で言いかけたが、途中で口をつぐんだ。僕の自室に辿り着いたのである。
「部屋まで運ぶ」と言った手前、小梅は僕を降ろす気が全くないようなのだが、彼女の両手は僕を抱き上げているために塞がっている。
立ち往生する小梅の額に、どうしたものかと縦じわが一本刻まれていた。
埒があかないと察した僕は、小梅に抱かれたまま片腕を伸ばして襖を開けた。小梅と視線が合うと、僕の手を借りた事が不服なのか、少し頬を膨らませている。いや、無理だろう。それとも、足で開けるつもりだったのか。
四畳半の僕の自室には既に、ちゃんと布団が敷かれていた。
「ここまでする事はないのに」
存外丁寧に彼女の腕から下ろされた僕は、振り向いて小梅に言う。僕の偽らぬ気持ちだ。
「……御休みになられるのでしたら、ご自分のお部屋でなさって下さいませ」
小梅は素っ気無く言うと、部屋を出て行こうとする。
その時、僕は思わず口を開いていた。
「……今日の夕食は、秋刀魚にしてくれないかな? ちょっと、食べたくなった」
瞬間、小梅のしっぽがぴん、と棒のようになった。更に、小梅の頭頂部の猫耳が、ぴくぴくぴくと忙しげに動き始める。
僕にそれを見られるのが余程恥かしいのか、頭に両の手をやって猫の耳を覆い隠してしまう。すると今度は、しっぽの方が喜び一杯にうねうねと揺れ始めた。慌ててしっぽを押さえようとすると、今度は耳がぴくぴくぴく……。
これにはどうしようもないらしく、小梅は頭頂の猫の耳と腰のしっぽを同時に相手をするという珍技を披露しながら、僕の部屋の前から足早に去って行く。
僕は布団の上で胡座をかいて吐息を一つ漏らすと、今日の夕餉の光景を想像した。
猫舌である小梅の皿には、おそらく秋刀魚の刺身が乗るだろう。対面に座る僕の前にはほこほこと湯気が立ち上る焼いた秋刀魚。
たまには小梅と二人きりで食事をするのも悪くないな、と僕は思い始めていた。
日が沈み、茜色の空が徐々に藍の色へと変わる頃、今日の夕飯となった。
僕は炊き立ての白米が山をなしている茶碗を小梅から受け取ると、もう一方の手に持っている箸で、小皿に乗せられている沢庵を一切れ口に入れ、もそもそと御飯を掻き込んだ。
漬け加減が絶妙な沢庵の塩っぱさが米特有の素朴な甘味に溶けて、僕の食欲を増進する。瞬く間に、茶碗飯に盛られた米の山が半分になった。
「もう少し、穏かに食べられませんの?」
卓袱台の対面に座る小梅が、白米の湯気の向こうで非難めいた顔をしている。
「まるで、誰かに追われているかのようです」
「……そうかな」
そう言って、大根の味噌汁を一啜り。小梅はと見ると、僕の予想どおり、秋刀魚の刺身をやや不調法な手付きで食べている。流石に、頭から手掴みでかぶり、という訳には行かないらしい。
「何を、じろじろ見ていなさるんですか?」
顔は秋刀魚の白身に向けたまま、眼だけを動かし上目遣いで僕を見る。元々眼が大きいので、結構怖い。どうも彼女は僕に対してだけ、女中であるという自分の身を失念するようだ。まるで、不出来の弟についつい世話を焼いてしまう姉のように。
「手がお留守ですよ。総士郎様が所望なさったのですから、身が熱い内にお早めにお食べ下さいませ」
「……はいはい」
半ば零すように答えた僕は、熱々の秋刀魚に箸の先をぷすり、と突き刺す。
秋刀魚には良く火が通っていて、少し焦げ目の付いたぱりぱりの皮を裂いた途端、内側から煙るような湯気と共に、秋の到来を嬉しくさせる香気が立ち上った。
僕は四角皿の角に盛られた大根おろしの小山を箸で一摘みすると、秋刀魚の上に乗せてその上に醤油を垂らして行く。
芳しい香りはさらに濃密さを増し、僕の鼻腔を擽る。日本人である事に感謝。
と、大根の酸味が鼻をついたのか、「くしゅん」と小梅が口許に手を当て横を向いてくしゃみをした。
「あ、ごめん」
思わず謝る僕に、小梅は目尻に浮いた涙を拭いながら「構いません、早くお食べになって下さい」と言った。
頷いた僕は、ほこほこの白身を口の中に運ぶ。
見た目に反さず、口許に溢れ出す秋刀魚の脂分は程よい熱さと相俟って、唾が湯水のように湧いてくる。もしゃもしゃと噛み締める度に秋刀魚の旨味が口内一杯に広がり、飲み下すのが勿体ないぐらいだった。
小梅の「早く食べろ」という意味がよく分かった。これは確かに、焼き立てが一番美味しい。
御飯を掻き込んで、味噌汁と一緒に喉に流し込む。小梅が溜息をついたが、僕は一切構わなかった。
「……お味は、如何ですか?」
小梅が、もりもりと夕餉を口に運んでいる僕に訊ねてきた。見れば彼女は四角皿の角に箸をおいて、僕を見ている。その瞳に緊張と真剣な光を見て取った僕は、お茶を一口飲んだ後、
「とても美味しいよ。どうもありがとう」
と応えた。
瞬間、小梅の猫の『耳』と『しっぽ』が、同時にぴくぴくうねうねしたが、
「それは、ようございました。……総士郎様のお茶碗、空のようですね。お代わりなさいますか?」
そう言ってきたので、僕は空になった茶碗を小梅に手渡した。
返って来た茶碗には、白米がこんもりと急勾配の山をなしていた。