99話 POST HUMAN
布の山に腰を掛けたまま動けない尚無鏡の前に立ち、無言で見下ろしてくる春山の目には、見たことのない逸脱した光が渦巻いていた。唇を僅かに開き、虚ろな呼吸音を漏らしながら、春山はブレザーの前ポケットに右手を差し込んだ。中で何かを握り、抜き出された手のなかにあったのは、奇妙なモノだった。
全長は約20センチ。ソレは艶のあるのプラスチックでできていた。空いている手で反対側を握り、シャッと音を立ててプラスチック部分を取り外した。先ほどまでプラスチックだった部分は金属へと変貌した。あれはペーパーナイフだ。刃渡り約10センチのペーパーナイフが春山の右手に握られていた。
春山は、ゆらりとナイフを握った右手を動かし、ぐっと尚無鏡の首筋に当てた。氷にも等しい冷たい感触に全身が総毛立つ。
「………春山?」
強張った唇を懸命に動かしてどうにか声を出したが、その言葉が終わらない内に低い囁き声が耳に送られた。
「動いちゃいけない、声も出しちゃいけない………もし、それを破ったら…解かるよね?」
首筋から広がる冷感が、手足の先端にまで浸透する。そこがジンジンと痺れるのを意識しながら、尚無鏡は彼の言葉を処理しようと、必死に脳を働かせた。
春山は私のことを殺すと言っているのだ。言うことを聞かなければ、手に持ったナイフで刺し、私の生命活動を止めると──────などと考えながら平行して、何かの冗談だよね?と頭の片隅で喚く声がした。されど、私の口はただ貼り付けられたテクスチャにでもなってしまったかのように動くことはなかった。
押し当てられた金属の感触は、これが何らかの冗談やドッキリであるという可能性を切り裂く冷酷な硬度と温度を持っていた。
薄暗いせいでよく表情の見えない春山の顔を、私はただ見上げることしかできなかった。すると、顎が僅かに動き、抑揚のない声が流れ出した。
「大丈夫だよ、無鏡………怖がらなくていいんだよ。これから僕達は一つになるんだ。僕の愛を…とびきりの愛を、全部あげる。そしてその一番気持ちいいところで、そっと、優しく、殺してあげるから………だから何も心配なんてない、心配しなくていいんだ………俺に、任せてくれればええ」
言葉は全く理解できなかった。人の発音する言語に似た響きを持つ新たな言語であるようにすら思えた。
ナイフを押し付けたまま春山は左手で尚無鏡の右肩を強く掴んだ。そのまま力任せに布の上に押し倒すと、自身もそれに乗り尚無鏡の太腿に跨る。その間も彼は、譫言のように呟き続けていた。
「安心して……無鏡を独りにはさせないから。僕もすぐに行くからさ。二人で新しい世界に生まれ変わって、結婚して───共に暮らそうや。一緒に生活して、子供も作ってなぁ………」
完全に常軌を逸している春山の言葉を聞きながら、尚無鏡は麻痺した思考の一部で微かな違和感を覚えた。しかしそれは、恐怖と嫌悪によって上書きされた。制服の上から腹部に触れられ、二度三度指先を下ろしてから掌全体で摩り始めたのだ。そして春山の左手が、ブレザーとシャツの下端を掴んで捲り上げようとした。尚無鏡は反射的に右手を動かしてそれを防ごうとした。途端、一際強くナイフの腹が押し付けられた。
「動かんといて、無鏡。この世界の、最後の思い出は……綺麗なものにしようや」
体を竦ませた尚無鏡の右手を元の位置に戻させ、再びブレザーとシャツを脱がせ始めた。布の端が胸を通り過ぎ、首元に達した須臾の間、ナイフが離れて今度は剝き出された脇腹へと押し当て、尚無鏡の両腕を上げさせる。その下は、黒のタンクトップ一枚しか身につけていない。
「ぃ、や………」
春山の視線は、薄い布地を押し上げる膨らみへと間近から注がれ、尚無鏡はそこに物理的な圧力を感じた。何かブツブツと言葉を繰り返しながら、左手を伸ばし、尚無鏡の胸の側面を撫でた。食い縛られた歯の隙間と鼻から荒く空気が吐き出され、その生暖かい感触を胸元に感じた瞬間、今までの倍以上もの生理的嫌悪感が全身を貫いた。
暫く布の上を蠢いていた春山の手は、ついにタンクトップの中に潜り込ませてそれを一気に首の下まで引っ張り上げた。素肌が剥き出される感覚に、圧倒的な恐怖の中にも耐え難い羞恥を感じ、尚無鏡は強く目を瞑ると顔を背けた。舐め回すように肌へ向ける視線は、小さな虫が歩いているかの如く。様々な感情が混じり、湧き上がり、涙に形を変えて目尻に浮かんだ。
「もう……僕のものなんだ………俺ガ───僕のなんだ」
毒々しい赤い舌が長く伸び、涙の粒を絡め取る。瞬間、尚無鏡の心を黒く深い絶望の潮が満ちる。五感の全てが意味を失い、世界が遠ざかっていく。
全身の力が抜けた。焦点を失ってぼやけた視界の中に、覆いかぶさる彼の両の目だけが黒い孔のように浮かんでいた。指先がス──────と冷たくなる。末端から体と意識の接続が切れ、魂が縮小していく。
刹那に、その失った感覚を通り越す記憶の音が流れ込んできた。それは柔らかく、そして温かかった。乾き切った唇を動かして、自分にも聞こえない声でその音の主の名前を呼んだ。
「光琅──────────」
助けて──────その願いは次第に、来ないでという願いへと変わっていた。
抵抗の跡もなく、無様に犯され、殺された私を見られたくなかった。
もう間に合いそうにない。だから、私一人で───────────
また、一人で行くのかい?
暗闇の奥底に居る私の感覚に、かの声が問いかける。
また?私は、生まれてからずっと一人だよ?何にも恵まれず、何も得られない、ただの人間。
本当に?
本当だよ。私はこれまで、一度たりとも──────
瞬間、闇へと沈み、冷え切った背中を温もりが包み込む。そして香る、どこか懐かしい香り。覚えている。しかし、それが何であるかは未だ出でず。
再び、温もりが現れる。今度はそれが右手を包む。硬く、努力が染みついている手の感覚。覚えている。しかし、それが何であるかはまだ出でず。
もう一度、温もりが現れる。今度は左手。細長くも、そこにはしっかりと力が宿っている手の感覚、しかし、まだ──────
それでも、君は独りの人間だと言うのかい?
違う────私は───────────
尚無鏡は闇の底でゆっくりと目蓋を開けた。目前には、白く、華奢で、しかしどこか力強い手が差し出されていた。体を包む温もりは、気付けば既に自分の中へと入り込んでいた。
動く。確かにこの手は自らの意思で動く。それを理解して手を伸ばし、差し出された手を握る。差し出した主は微笑みを浮かべると、体を引っ張り上げた。唇が動き、短く、そしてはっきりとした言葉が響いた。
帰ろう、師匠。オレが、皆が待ってる─────
体は闇を高速で突き抜け、遥か水面に揺れる光を目指して上昇する。
◇
ガッという音、目を瞬くと同時に、尚無鏡は闇に葬られた意識を取り戻した。圧し掛かっていた男が倒れ、朱い泡沫が降りかかる。尚無鏡は体を起こして、物言わぬ者、そして自身の状態を見つめた。
プリーツの施された黒い布は捲し上げられており、下着であろう白い布は既に剝ぎ取られていた。そして男も下半身には一糸も纏っていなかった。想像したくないが私の体を貫く寸前だったのだろう。男の後頭部には剣が一本刺さっており即死だった。剣は頭を完全に貫いている。
ゆらりと、奥の方で影が揺れる。私は焦って下の布で体を隠す。すると、
「────阿鏡、助けに来たよ」
その大きな影から聞こえるのは、私のよく知るあの少年の声だった。
「崩星!」
尚無鏡は彼の名を呼びながら立ち上がり、身にまとっている黒い服を直してこの薄暗い空間から体を出す。
しかし、この瞳に飛び込んできた人物の見た目は、頭に疑問符を浮かばせるものだった。確かにあれは崩星の声だった。聞き間違えるはずが無い。されど、目の前に立っている男は崩星と似て非なる見た目をしていた。
髪の色は彼と同様に茶色に赤いメッシュが入っているが、片目を隠すほどに前髪は長く、右に垂れた髪は三つ編み、また後ろ髪は結われておらず長く垂らしている。黒い衣を羽織り、中に着ている赤い服は絢爛豪華。だが、こちらに向ける微笑みと瞳は間違いなく彼のものだった。
「えっと………崩星、だよね?随分とオシャレだね」
「そうかい?それより、早くここから出よう────着いて来て」
崩星は外套と髪を翻して部屋の外へと向かって行く。それに続くように尚無鏡もこの薄暗い部屋の出口へと足を踏み出す。




