94話 Moonlight
彼が言った名前を何度か口の中で転がした。変わった名前ではあるが転がしていく内にしっくり来た。どこかで何度もその名前を呼んでいたかのように。しかし、目の前に居る者の顔に全く記憶がない。
「転校生のあなたがどうしてここに居るの?」
特に何かに包むことなくストレートに尚無鏡は問うた。
「今って文化祭準備前やら何やらで皆盛り上がっているだろう?その雰囲気になかなか馴染めなくてね………ここに逃げ出して笛を吹いてたのさ」
それについては自分も同感だ。この祭りの前の空気はどうしても自分には合わない。普段人と関わるようなことが限りなくゼロに近いが故に、余計に嫌悪してしまう。昨年何か途中で帰ってしまったくらいだ。
「わかる……私もそういう雰囲気苦手」
「そうなのかい?」
「そうだよ。だからここに来てるの」
「ふーん…少し似てるね、オレ達」
「そ、そうかな………」
そう言われれば似ている───────のか?まぁ、周りの空気に馴染めずにここに逃げてきている時点で似ているか。
ふと、感覚が戻り、自分の右手に重みを感じる。そうだった。これから昼食を取ろうとしていたんだった。無意識にそちらの方に視線が行ったのか、手前に居る光琅が尋ねてきた。
「もしかして、これから昼食?」
「そうだよ」
「もし阿鏡がよかったら、一緒に昼食を食べない?」
自分の性格的に、この状況できっぱりと断ってそそくさと屋上から去るなんてことはできないので一緒に食べるしかないが、その前に一つ気になるものが耳に入ってきた。昼食に入る前に、光琅の方を見る。
「いいけど……その、阿鏡って私のこと?」
光琅は笑みを浮かべながら眉を困らせる。
「なんだかこれから長い関係になりそうな予感がしてついね。もし気に障っちゃったのなら取り消すよ」
「あ、いやいや全然いいよ。まぁ私は君のことは普通に光琅くんって呼ぶかもだけど」
「『くん』は付けなくていいよ。まぁ、出会って間もない人間に気さくな感じで呼ばれるとそりゃあ戸惑っちゃうよね。それは謝るよ」
確かにそれもそうだが、何かとそう呼ばれたのが生まれて初めてだったからというのもある。
一通りの会話を終え、小さなバッグから小さな折り畳み椅子を取り出そうとしたその刹那、光琅は私の体とすれ違った。
「どこに行くの?」
「屋上は汚れている。扉の傍の空間で食べない?」
人が来ることを恐れ、この屋上にまでやってきたのだが、確かにそっちの方が汚れないし、体が風に当たることもないので冷えることが無い。何より彼も一緒。何かと安全だろうと判断し、光琅に答えた。
「そうだね。そうしよっか」
光琅はその答えを聞いて、鉄の扉をぐっと押した。光琅が扉を抑え、尚無鏡はそことすっと素早く通り抜ける。
消火栓、手摺、そして壁。その小さな空間はまるで秘密基地を彷彿とさせるものだった。日の光によって粒子は舞い上がっているものの、床は屋上より綺麗だった。尚無鏡は手摺の壁に、光琅は少しズレた反対側の壁に寄り掛かって座った。
こういう事になるのなら、もう少し手の込んだ弁当にしてくるべきだった、と思考が走り、チラリと光琅の方へ視線を向ける。
光琅の昼食もなかなかに質素なものだった。寧ろ私より寂しいくらい。対面した時、自分の身長から考えると、彼はだいたい190センチほどだろう。そんな食事で足りるのだろうか。
分けてあげるべきか………そうしたら私の昼食が足りなくなってしまう。物を乞うような様子も無いし、彼があの量でいいのならいいのだろう。
弁当の米を口に運ぶ。すると、
「そう言えば聞いてなかったことなんだけど、阿鏡ってどこのクラスだっけ?」
確かに言っていなかったなぁと、尚無鏡は口に含んでいる米を飲み込んで空となった口を動かした。
「クラスは4だよ。光琅はどこ?」
「オレは2だから少し離れてるね……もしよかったら、遊びに行ってもいいかな?」
「この時期は無理かなぁ。文化祭準備前で色々と委員会とかもあるだろうし」
「それもそうか─────ねぇ阿鏡、もう一個あるんだけど食べる?」
そう言って、彼が今食べている物と同じ物を差し出してきた。流石の私も腹はこれで満たせられるので、
「ありがとう。でも私はこれでお腹いっぱいになるから大丈夫だよ」
そんな周りが聞いたら楽しそうに感じない会話と昼食を終えて、立ち上がろうとしたその時だった。
「ッ─────!?」
何かが切れたかのような一閃。視界、耳にノイズが入った。目の辺りが熱くなり、それは頭痛へと変貌していった。とても立ってはいられない。遠くから光琅の心配する声が聞こえる。しかし、それに応えることなどできるはずもなく、私の意識は闇へと葬られた。
◆
「───────」
目が覚める。視界には数多の罅が入ったようなタイルを並べた天井。薄橙色をした厚手のカーテン。その外側で低い唸りを上げながら吐き出している音がする。おそらく空気清浄機だろうか。
瞬刻、薄橙色のカーテンに人影が一つ現れる。保健室の先生かと思ったが、ここの学校の保健室を担当している人は女性、目の前に映っているシルエットは明らかに男性のものだった。今は授業中のはずだ。一体誰が──────と、
「……大丈夫、無鏡?」
この聞き馴染んだおずおずとした声に、何でここに?と少し体を震わせた。
閉まっていたカーテンがシュッと開く。そこに立っていたのは背の低い、痩せた少年だった。未だゆとりのある制服姿。やや伸びすぎの前髪の下、睫毛の長い目には気遣わしそうな光が浮かんでいる。薄く、高い鼻梁と細い顎の線は、整った顔立ちといえないことも無いが、肌の色が青白いほどに薄く、どこか病的な印象がつきまとう。
尚無鏡は、この少年の名前を知っていた。この人生で最も会話したであろう存在で、古くからの付き合いだ。
少し重い体を起こしながら、尚無鏡は極僅かに微笑み、答えた。
「大丈夫。ありがとう春山───でも何でここに?」
春山は、頭を搔きながら笑った。
「昼休みに無鏡が倒れたって聞いてさ……居ても立っても居られなくて、先生に具合が悪いって言って授業を抜け出してきたんだ。別に具合はどこも悪く無いんだけどね。保健室の先生が居なくて助かったよ」
「──────────」
尚無鏡は少々呆れて、短く首を振った。
「………よくそんな真似ができたよね」
再び尚無鏡が微笑むと、春山も一瞬笑みを見せ、すぐに心配そうな表情に戻った。
「無鏡、こういうこと最近よくあるの?」
「いや、今日が初めて…だから頻繁に起きることはないよ」
「それは安心した」
小柄な少年は笑った。
春山は、夏休み前まで尚無鏡のクラスメートだった。だった、と言うのは、二学期以降学校には偶にしか来ていないからだ。噂で聞いた程度なのだが、春山は、所属したバスケットボール部で上級生や他クラスの生徒からかなり酷いいじめにあっていたらしい。体格が小さく、また家が裕福であるということで、格好の標的と見られたのだろうか。金銭の要求も飲食や遊興代の建て替え払いなどの形で、馬鹿にならない額の被害があったようだ。もっとも、春山から直接その話を聞いたことはない。
春山は保健室の椅子を拝借して、私が寝ているベッドの横に座った。すると、
「あの、無鏡……ちょっと聞いてもいいかな?」
と深刻そうな顔をさせながらこちらを見て尋ねてきた。そんな表情をしているもんだから、ゴクリと喉を鳴らして声を出す。
「ど、どうしたの?」
「……あの、背の高い人って、無鏡の何?」
別角度からの質問に、尚無鏡は目をぱちくりさせてしまった。