89話 想い、眠癒香炉
「殴られても構いません」
「抵抗はしてくれ」
心地良さから来るものとは全く逆の溜め息が零れる。尚無鏡は近くまで来た陳湛の顔を見ながら問いかける。
「ねぇ……馴れ馴れしいってだけでそんなに嫌いになるほどなの?もっと何か別の理由でもあるんじゃないの?」
「──────」
沈黙。
立ち上げる湯気の奥で、濡れた毛先をくるくるとしている陳湛が居るだけ。顔の火照りは、湯の熱さからなのか、恥じらいからなのかはわからない。
「………何か答えてよ」
「そんな恥ずかしいこと………私にはとてもとても──────」
ネッシーが水面から顔を出すかのように、お湯の中から拳をゆっくりと上げていく。それを見た陳湛は小さく溜め息を吐いて答える。
「わかりました…言います……」
妙に空間が緊張する。
尚無鏡はゴクリと生唾を飲み込む。
「私……仙華様のことが、好きなのです…」
「─────────」
なんとなく、何を言われるのか察していた。もしかしたら、別の何かがあるのかもと思っていたけど、そんなものは特になかった。
唇を尖らせながら告白した陳湛は、お湯の中で左手を動かし、尚無鏡の右手を探り当てるとぎゅっと握った。
「本当なんですよ?私─────」
お湯とは異なる温もりが手に奔る。薄く細い手からはとくんとくんと脈が伝わってくる。尚無鏡は鼻から溜め息を吐いて握られた手をお湯の外へ持ち上げた。そしてそのまま、陳湛の手の甲を自分の唇へと近づける。
「せ、仙華様……!?」
流石の陳湛も驚いたのか、身を動かしてお湯を揺らす。濡れた手の甲に尚無鏡の唇が一瞬だけ触れる。そして、
「────これで満足?」
「へ─────?」
尚無鏡は握られた手をスルリと抜いて、ザバァと音と波を立てて立ち上がる。
「好きなのは全然いいんだけど、崩星はもう仲間なんだからちゃんと仲良くしてよ?手の甲にキスまでしたんだからね。いい?」
陳湛は目をぱちくりさせたまま動かなかった。尚無鏡はそのまま浴槽の外に足を出してお湯から完全に上がる。軽い足音を立たせながら尚無鏡は浴場の扉を開けて静かに出て行った。
唇が触れた手の甲を眺める。今も尚触れられているような感覚が残っている。その場所に、
「──────」
自分の唇をそっと重ねる。
数千年と生きてきた中で、彼女の体は触りまくっていたものの、間接であっても接吻はしたことはなかった。故に、一線を越えたと陳湛は感じている。
やがて自分の手の甲から唇を離し、伸ばしていた足を折り曲げて膝を抱える。
私は本当に、あなたのことが好きなんですよ………例え、これが報われないものだとしても、私はあなたを愛し続けます。
◆
「ふぅ……いいお湯だった。あまりサッパリした気はしないけど…」
何千年と共に居る陳湛ではあるけれど、そういう部分が今まで出ていなかった故に彼女がどういう感情でいるのかがあまりわからない。崩星からは特にそういう雰囲気は感じられないし………いきなり馴れ馴れしい知らない人が居るのってそんなに嫌悪するものかな?寧ろ共通の友達ができて盛り上がると思うんだけどなぁ。まぁ崩星も崩星で陳湛に突っかかる癖があるから百彼女が悪いわけではないのがまた……崩星とはどれほど居られるかはわからないけど、時間が解決してくれるだろう。
そう思って、真ん中の部屋に入る。
墨走国で選手に手配された宿泊施設にも負けないほどに大きなベッドが目に入る。煌びやかな金糸の装飾が施された天蓋、長椅子に長テーブルと一人が使うにはあまりにも豪勢且つ広い部屋だ。ゆっくりと休めるのかもしれないが、気が落ち着くまでには少し時間が掛かりそうだ。
その時、コンコンと扉をノックする音が部屋に響いた。始めは崩星か陳湛のどちらかかと思ったがすぐにノックした者の正体が判明した。
「尚無鏡さん!今部屋に居りまっか?」
太子殿下・夕剪平だ。
椅子に座ろうとした体を巻き戻すかのようにして曲げた腰を伸ばし、「はーい」と返事をしながら歩いていき扉を開けた。
「どうかしましたか?」
「二人にはもう渡してんけど、これ────眠癒香炉っちゅう代物で、これ焚いて寝ると前日の疲れがどっと抜けるんやで。もし焚き方がわかれへんかったらここで俺が付けましょか?」
「いえ、お香は何度かしたことあるので自分でできますよ。わざわざありがとうございます」
「せやったら、俺はもう寝ますわ。朝起きたらビックリすると思うで?」
「太子殿下がそこまで言うのなら期待できますね。では、おやすみなさい。良い夢を」
そう告げて、受け取った眠癒香炉を持ったまま一礼して扉を閉めた。
しかし豪華な香炉だなぁと目線の位置まで掲げて眺める。ふと、ひやりと背筋が伝う。今ここで手を滑らせてしまえば確実に終わると。
ベッドの傍に備えてある小さな机の上にそっと奥。これで何か事故が起きない限り、眠癒香炉が床に落ちて壊れたりすることは無いだろう。
カパッと、眠癒香炉の蓋を開ける。中には根張国の紋章の形をした香炉灰が敷かれてあった。素材が特殊故か、既にここまで香ってきている。鼻の奥をくすぐるような香りに尚無鏡はくしゃみをしてしまう。
あまり直接嗅がない方がいいかもしれないと思い、鼻を擦りながら尚無鏡は眠癒香炉の蓋を元に戻す。カチンという音が鳴ると同時にぐっと背伸びをして上着を取り除く。部屋に用意された寝巻に着替え、大きなベッドへと身を沈める。
驚いた。ここまで勢いよく飛び込んだというのに埃が立たないとは。きっと相当手入れしているに違いない。
滑らかな布地に手と足を擦る。ふと、瞼がだんだんと重くなっていくのがわかる。柔らかなベッドに寝転がったせいだろうか。とにかく、この瞼が完全に閉じてしまう前に香炉灰に火を点けないと。
一度寝た体を起こして、眠癒香炉の蓋を開けて灰に火を近づける。ジッと、灰の先端が黒く焦げ、細い煙が一筋上る。先ほど直接嗅いだ時とはまた違う香りが漂い、ほんの少し体が安らいだような感じがした。
そのまま蓋をして再度ベッドに寝転がる。
刹那、帳が下りてくる。本当に疲れが溜まっていたのか香炉の効果なのかは定かではない。だがしかし、それを解明するために抗うという意味もない。今はゆっくりと休ませてもらおう。二人も、もう寝ているのかな──────
尚無鏡の意識は、深い深い闇へと沈んでいく。
崩星も、陳湛も、根張国の国民全ても………夢という闇へ溶けていく。たった一人を除いて──────
◆
「フ~ン♪フフン♪フンフ~ン♪」
静寂に包まれた根張国に愉快な鼻歌が聞こえる。静寂に包まれた翹埠城に軽快なステップが響く。
上着を締めていた帯を解き、脳天で髪を束ねている金具を外し、白い服と灰色の髪を揺らしながら階段を上っていく。
「ホンマにキツかったわ。何で飯食う時もこの帯してないとあかんのやねん。あースッキリしたわ」
首を左右に、骨を鳴らしながら上りきる。
「しっかし、太子殿下ちゅう肩書はくっそ便利やな。俺が何言うても首を縦に振って喜んどるもん。全員に渡した眠癒香炉の中身が、俺の骨灰とも知れへんでなぁ……クカカ…この俺の魂をこの世から完全に消せへん限り、吸うた者は全員、そこが夢の中と気付かず一生夢の中や。例えそれが、仙人やろうとな」
ニタニタと笑みを浮かべながら沈黙の廊下をゆらりと歩く。そして、真ん中の扉の前まで辿り着く。二時間ほど前にも訪れた場所。取っ手に手を掛けて扉を開ける。国、城と同様に静まり返っている部屋。故に尚無鏡の寝息がよく聞こえてくる。
「ようスヤスヤと寝てられるなぁ。まぁ、起きんのは無理か────時間もあるし、先に強姦すか?一番多く骨灰を入れているとはいえこいつは一応仙人やしな……確実に首を飛ばしてからでもええか。ほな、さよならや……晄導仙華。千年の恨み、死んで償えや!」
懐に忍ばせていた短剣を取り出し、尚無鏡の無防備な首目掛けて、青々と冴え渡る刃を躊躇いなく振り下ろした。




