88話 祝杯前夜、根張国
魏君と木煙を降ろし、再び進み出した馬車と牛車。揺れる感覚。ガラガラと音を立てる車輪。湿った風が頬を撫でる。
少し難しい顔をしている尚無鏡に陳湛が尋ねる。
「仙華様、どうしましたか?」
「え?ああ………やっぱりちょっと心配で…」
「あの二人ならきっと大丈夫ですよ」
「だといいのだけど………そうだ、崩星。根張国ってあとどれくらいで到着するの?」
手綱を握っている崩星は肩越しに振り向いて尚無鏡の問いに答える。
「このスピードなら、到着するのは多分日が沈む頃かな。国主や太子殿下が何て言うかわからないけど、もしかしたら祝杯は明日になるかもしれないね」
もし崩星の言った通り祝杯が明日になれば、一度ゆっくり眠れるということだ。
「正直そっちの方が助かるかも……疲れがまだ取れてないし」
「であれば私が仙華様の疲れを取って差し上げます」
「寄るな触るな近づくなっ!」
◇
だんだんと上にあった太陽が西へと沈んでいき、夜の帳が下りようとしていた。尚無鏡は荷車から身を乗り出してぼんやりと光る奥を凝視する。だんだんと高くなっていく土地、緑色に包まれた落ち着いた国、あれが根張国だろう。この速度であれば10分も掛からないだろう。
「もうすぐ着きそうだし、そろそろ準備しておこうか」
「そうですね。と言っても荷物はほとんどありませんのですぐ終わるでしょう」
「それもそうか」
乗り出していた身を元に戻してふぅと一息吐く。
今までは移動に何日か使っていたが、今回は特に日を跨ぐようなことは無かった。故に到着がものすごく速く感じてしまう。
湿っていた風は徐々に冷たさを増した乾いたものへと変わっていった。そして、
「そろそろ到着いたします!」
と前から専属御者の声が聞こえてきた。
暫く揺られた後に、遂に根張国に到着した。牛車は専属御者が管理するので崩星も国門手前で降りた。すると奥で、国主の夕剪花と話す太子殿下の夕剪平と妻の軽王桃の姿があった。何を話しているかまでは判らなかったが、話し終えるとすぐに太子殿下と妻は根張国へと入って行った。
夕剪花は二人を見送った後に、体をこちらへ向けて歩み寄ってくる。その際に、尚無鏡は彼に問う。
「あの二人はどちらへ?」
「だんだんと暗くなってきましたので、貴方達を宿泊させる部屋を用意しに行きました」
「ということは、祝杯はやはり明日行うということですか?」
「そうですね。皆様もお疲れでしょうし、本日はゆっくりと休ませるの方がいいかと思いました」
「わざわざありがとうございます」
「それではご案内いたします。私について来てください」
身を翻した夕剪花の後ろに続いて歩いていく。
尚無鏡、崩星、陳湛。根張国に入国。
「仙華様」
と、陳湛が後ろから小声で話しかけてきた。尚無鏡は振り向くことなくそれに応じる。
「どうしたの?」
「宝剣のことはどのタイミングで伺う予定なのですか?」
「そうだなぁ………」
尚無鏡は暫しの間考え込み、とりあえずの答えを出した。
「まぁ、祝杯の時でいいんじゃないかな?今は奥さんも太子殿下も居ないし、個々に話すよりかは楽でしょ」
「そうだね。雰囲気的にどうなるかはわからないけど、そこがベストだろう」
陳湛の代わりに崩星がそれに答えた。
「会話に入ってこないでください」
「どうして?権限は君にあるというのかい?」
「もちろんです」
「じゃあ何か証明できる物とかはあるかい?」
「二人とも、国主の後ろでケンカしないでよ!」
緑色の屋根が連なる道で、尚無鏡は大きく溜め息を吐いた。
石畳の道を上っていく。途中には作業している人が多く存在した。それもそのはず、根張国はお茶の産地として有名であり、様々な国に輸出されている。この国は茶の栽培に最も適している環境であり、人々は仙人の恩恵だと信じている。国に入ってからは茶葉の香りが鼻の奥をくすぐっている。もしかしたら、宮殿に入ったら最高級のお茶を飲めるかもしれない、と期待しながら尚無鏡は坂を上がっていく。そして、
「皆さん。ここが私達の住まう『翹埠城』です」
石畳の坂を上り切り、目の前にある広い空間の奥に聳え立つ立派な建物を夕剪花は指差した。「おお」と感歎の声が自然と喉から漏れ出る。深緑の屋根に白い壁と赤い柱。敷地面積だけで言えば今まで訪れた中で一番大きいのではないか?
闘技場のように広い場所を突っ切るように進む。城の敷地ってことは、ここは闘技場というわけではないだろう。何か儀式を執り行う場所なのだろうか。
翹埠城に向かっているその時、城の入り口の扉が開き、そこから太子殿下である夕剪平が姿を現した。
「爸爸!三人分の部屋の用意が今終わったで!浴場の方もいつでも使えるで」
「うむ、わかった─────そういうことなのでこれからそれぞれがお休みいただく部屋と浴場の場所をお教えします。ついて来てください」
夕剪親子と共に翹埠城の中へと入って行った。
内装は思っていたよりかはシンプルなものだったが、埃の一つもないほどに清掃されている。派手な装飾を施さなくとも綺麗にさえしていればそれだけで輝かしいものとなることは間違いない。
夕剪花は立ち止まって右に続く通路へ指を差す。
「あの奥に見える扉の奥が浴場ですのでご自由にお使いください。それでは階段を上がってお部屋に案内します」
木の軋む音を立たせて階段を上がっていく。案内されたのは三階。いくつもの部屋が連なっている。扉の間隔は広く、部屋に入らずとも仲が広いことが確認できる。
「ここの三つの部屋であれば好きに使ってくれて構いませんので。夕飯の時間になりましたらお呼びします」
「国主様、案内感謝します」
尚無鏡に続いて二人も拱手をし、夕剪親子を見送って三人は扉の方を向く。
「さて………誰がどこにする?」
「私は仙華様の隣で構いませんよ」
「それは絶対に避けたいんだけど」
「なら、僕が真ん中の部屋で寝よう」
「ダメです」
「何故?」
まずい………また止まらない言い合いが始まってしまう。かくなる上は────
「いいよもう……私が真ん中でいいよ」
「仙華様に感謝してください」
「それは君の方じゃないのかい?」
「もうケンカはやめなさぁぁぁぁい!」
◆
「あぁ………疲れた…」
天井付近に備え付けられている小窓から夜空を眺めながら肩までお湯に浸かった。頭の芯が痺れるような心地よさに身を委ねる。
国主達と夕食をいただき、浴場は最初に崩星が使用、次に陳湛に使用させた。つまりあいつは来ない。一人でゆっくりする時間が設けられたのだ。まぁ、もしかしたら私の部屋でスタンバイしている可能性もなくはないが、入浴の邪魔をされることは少なくとも無いだろう。
「あぁ………」
口から溜め息が漏れる。
顔の下にある水面を眺めながら、それを掬って顔にバシャリと浴びせる。滴る水滴を手で拭いながら、ポツリと独り言を漏らす。
「なんであの二人ケンカしちゃうのかな………」
「それはあの人が仙華様に馴れ馴れしいからです」
ん!ま、まさか……この聞き馴染みのある声は──────
浴槽に張るお湯を揺らしながら入り口の方を勢いよく向く。そこには、自分の前に入浴したはずの陳湛が立っていた。それも何か忘れ物を取り来たような恰好ではなく、一糸纏わぬ姿である。
思わず、
「ち、陳湛!?何でここに居るの!?」
と叫んでしまった。すると彼女は、
「湯冷めしてしまったのでもう一度入ろうかと」
「あんたバカじゃないの?」
言い訳にしてももっと良いのあっただろ!重要な情報を手に入れたとか、宝剣がどうとか!
澄ました顔で一歩一歩と近づいて、タオルを浴槽の縁に置き透明なお湯の中に裸身を沈めた。数度小さなバウンドをして尚無鏡の方へと近寄る。
「そこでストップ!」
「もし嫌だと言いましたら?」
「殴るに決まってるでしょ」




