67話 争奪戦、宝剣は虹を突く
屋根に着地して目前を睨む。奥へ疾走する黒衣の人影が一つ。木煙はその大泥棒の影の軌跡をなぞるように追いかけ、足に力を思い切り入れて向かいの建物の屋根へと一気に跳んだ。しかし、
「く──────!」
その隙間は大きく、短い助走での飛び越えはやや無謀であった。木煙は足から着地をする代わりに、懸命に伸ばした両手で向かいの屋根の縁を掴んだ。
危なかった……せっかく陳湛が屋根に上げてくれたのにそれを無駄にするところだった。
両腕に力を入れて屋根によじ登る。その様子を見ていた崩星は、温帆寧を追いかけながらこちらに声を掛けた。
「大丈夫ですか!?」
「あぁ、なんとか……先に行っていてくれ!」
先手は託されたか、崩星は猛然と走り始める。建物の間を跳ぶと同時に、腰に携えている剣を鞘から抜いた。着地と同時に、反対側の腰に巻き付けてある鉤縄を柄頭に引っ掛けた。そして剣のついた鉤縄をビュンビュンと回しながら追跡する。あの俊敏な泥棒にとってこれは致命傷にはならないかもしれないが、牽制程度にはなるだろう。そして、このような地形なら──────
崩星は溝が迫り来る途中で、掴んでいた縄から手を離す。すると、回っていた剣が風を切り裂きながら大泥棒目掛け飛んでいく。流石に、自身を狙う猛犬を彼が気付かないわけがない。剣尖は完璧なまでに彼を捉えている。されど、温帆寧はヒラリと回避して、隣の建物の屋根に移った。剣はそのまま屋根に虚しく刺さる。
だがこれで──────
「はっ!」
崩星は両手でしっかりと縄を握って、目の前に来た溝へと飛び込んだ。温帆寧はその様子を確認して「下から追いつく作戦か」と心の中で呟いた。
しかしそれは間違っていた。次に彼の姿を見たのは、下ではなく上だった。崩星は下に行ったのではく、縄を使って勢いを付け上方向に飛んだのだ。しかし、剣が屋根に刺さった程度で固定することができるのかと思い、先ほどまで自分の居た場所を確認すると、そこには剣を固定している土の塊が存在していた。なるほど、術色か。
ゆっくりと昇る太陽に重なる崩星がこちらに飛んでくる。だが、今の彼は丸腰だ。頼れる武器は己の拳と足しかない。故にリーチがない。であれば、自身の術色である黒を展開すれば確実に逃げられる。
そう考えた温帆寧は即座に黒衣を漆黒の煙で包み込む。この隙に下に降りて別の逃走経路を─────────考える隙などなかった。黒煙の中を走る温帆寧の体は、強烈な風を感じた。瞬間、自身を隠していた煙は破裂した風船の破片ように飛び散り、視界の端には翠色の渦を目の前にした崩星の姿があった。
どういうことだ。先ほどのアレを確認した時は黄の術色だと錯覚していた。しかし、今彼の目前で放たれようとしているソレは翠の術色だ。剣を固定したのは別の人間なのか…それとも、この翠の術色を使っている方が別の人間なのか……
困惑するその1秒は、崩星にとっては大きすぎる隙だった。目の前にグワングワンと存在感を放っている風を、崩星は思い切り叩き壊した。刹那、砕かれた風の玉は爆発し、互いの体を後方に吹き飛ばした。爆風は打撃のように強く、温帆寧は羽織っている外套と携えている宝剣が宙へと投げ出された。
「しま──────っ!」
必死に手を伸ばすが、宝剣はだんだんと彼の傍から離れていく。やがてその手に納まったのは自身の漆黒の外套だけだった。
「頼んだ!」
崩星の叫びに陳湛と復帰した木煙が反応、裾を靡かせながら風と同化するようにジャンプを続ける。しかし、その進行は阻まれる。
二人の体目掛け、土の入った袋が下方から飛んでくる。木煙と陳湛はバランスを崩して下へ落ちてしまった。溝に落ちる際、投げ込まれた場所を一瞬だけ確認した木煙は言葉を吐いた。
「っつ……あのクソマッチョめ…」
投げ出された宝剣は、どこへ向かうか。それは、最悪の目の前に流星のように落ちてきた。カランカランと甲高い音を立てながら、その足元まで滑って行く。
「やはり、この宝剣を手にするのは俺だということだ」
猛明胡は滑り来る宝剣を急いで拾い、一目散に逃走を始める。それを援護するように、周りの黒手党の下っ端も同じ方向に走り出す。走り出した下っ端達は、猛明胡を捕えようとする巡守隊の行く手を懸命に阻む。
このまま進めば地下街への入り口がある。もしそこへ入ってしまえば、見つけることは難儀となるだろう。墨走国の地下街は色んなものが売っている故に道がかなり多く存在している。物も多ければ人も多い、更には日の当たらない場所ときた。黒い服を身に着けている猛明胡にとっては最高の隠れ場所だ。
このまま地下街で堪えれば、典礼は終わり、結界は解除されるだろう。解決してからの解除は不可。結界の展開時間は決まっており、また短期間の発動は術師の体力が持たない。
地下街の入り口まで残り三百メートルを切った。入り口付近や道中の乱入は、下っ端達が邪魔をしていて不可能。やはり運命は彼を味方している。宝剣が自分の手元に来ることも運命。数時間後に結界が解除されることも運命。そして、地下街に続くこの道に古びた仕立て屋があることも、運命──────瞬刻。
「な──────!」
古びた仕立て屋の横を通りがかったその時、その建物の戸を破壊しながら地下街に向かう猛明胡の体を何者かが殴り飛ばした。爆発音にも似た衝撃に、巡守隊はおろか黒手党でさえも動きが止まってしまう。煙に映る大きな体。しかし、晴れると同時に衝撃的な姿が視界に叩き込まれる。
首無しの騎士。正確には頭の無いマネキンだ。しかし、皆が知っているマネキンには程遠いほど体格がよく─────いや、そもそもマネキンは独りでに動いたりしない。あれは一体何なのか。
これを隙と見たか、疾風の如く猛明胡が落とした宝剣を温帆寧がすぐさま拾い上げ、再び建物の間をすり抜けて行った。
「……あ、くそ!待ちやが──────」
大泥棒の背中に叫ぼうとした須臾に、大きなマネキンが視界を支配した。頭の無いマネキン。金色の刺繡が入った赤い布を着ており、見える素体は甲冑のように複雑。左肩には、子供が縫い合わせたような拙い布が掛けられていた。頭が無いのにも拘らず、もの凄く悍ましい視線を感じる。圧巻されて動くことも喋ることもできない猛明胡の首をマネキンはぐっと握りそのまま持ち上げる。藻掻く猛明胡の元に下っ端達が一斉に駆け寄る。
刹那、マネキンを囲むように下から激流が吹き上がった。打ち上げられた者、阻まれた者、老大が囚われた水の壁をただ見ることしかできなかった。
「か、は────き、貴様は…何なんだ!」
首を絞め持つマネキンは、口がないというのに声を発した。
「言っただろう。お前を呪い殺すと」
「ま、まさか……お前は──────」
首を絞める力が強くなる。されど、焦り始めた猛明胡は絞める腕を両手で強く握り、地に着いていない足はジタバタと暴れている。
「わ、わかった!お前の欲しいものなら何でもやる!何だ!?言ってみろ!金か?権力か?女か?何でもくれてやるから今は見逃してくれ!見ろ!俺の手元には宝剣もない!それで十分だろう?今見逃してくれれば後でいくらでもこの命をくれてやる!だから今だけは、今だけは殺さないでくれ!頼む!お前であれば裏社会を統治できるだろう!支配できるだろう!何もかも自分の思うままにできるだろう!何も悩みを抱えることなく素晴らしい人生を歩めるはずだ!だから、た…助けてくれぇぇ…!」
「さっきから何を……思っていないことを一生懸命喋っているんだ?ここは懺悔室ではないぞ」
「ひ、ひぃ……ガ、やめ────」
「─────ここは、お前の死に場所だ」
グキッという生々しい音を立て、猛明胡の動きは停止した。懸命に命乞いをする頭、絞めさせまいと力を入れていた腕、ジタバタと暴れていた足はだらんと下に垂れる。白目を向いた死体から手を離し、どさっと鈍い音を立てて地面に落下した。同時に下っ端達を阻んでいた激流も止む。目の前の開かれた舞台に皆驚愕する。
下っ端達は叫びながら立ち去ろうとしたが、老板を失った彼等はやはり脆弱であり、苦戦を強いられていた巡守隊は簡単に捕まえることができた。目的を達成したマネキンは、黄昏るように青空を仰いだ。
「お前には、感謝をしなければならないな。ありがとう、紅意段────」
◆
体格のいいマネキンの乱入により、奪われた宝剣を再び手に入れることができた。皆はあちらに気を取られている。今のうちにできるだけ離れてやり過ごさなければ。そう思考した瞬間、背後から人の気配を感じた。それも二つ。
「──────!」
振り向いた先には、温帆寧に勢いよく向かって来る陳湛と木煙の姿が確認できた。いつものように回避しようとしたが、不運にも場所が悪かった。場所は少し開けており、すぐに登れる壁はなかった。加えて二人は翠の術色、つまり風の力を使って勢いを付けているので回避はほぼ不可能。一か八か賭けるほどの余裕は今の温帆寧にはなかった。
途端、彼の脳裏にかのアドバイスが蘇る。選択している余地はなかったか、温帆寧はその言葉の通りに宝剣を西と東の壁を繋ぐ虹のようなアーチに向かって思い切り投げた。その行動は予想外だったか、二人は目線で剣を追いながら懸命に突っ込む体を停止させる。
何度か回転し、やがて宝剣はアーチの側面に深く刺さった。あそこまで一気に跳ぶには結構な体力を消費してしまう。と思った陳湛の目にある人物が映り込む。
「僕に任せて!」
崩星だ。彼は「念のためにここに残る」と言って同行を拒んだ。しかし、その判断は正解だった。崩星は鉤縄を駆使し、窓枠や突出した部分を利用して壁を登りアーチの根元に辿り着く。そしてそのままアーチの上を駆け上げる。だんだんと緩やかになっていき速度がついてきた瞬間、目の前から一人の男が歩いてきた。互いに姿を確認し、その場に停止する。
崩星の居る丁度反対側に居る男も足を止める。毛先にはくすんだ桃色、背中には赤い剣。間違いない、彼が宝刃戯派の一人である赤霄だ。そして、我々の真下にある雲鋒館から籠った声と大歓声が聞こえてくる。
『これより、嵐流青舞滝典礼の決勝戦を開始する!』




