134話 千年分、尾を飲む蛇
瞬間、膨大な赤い渦が巻き起こり、その真紅の風を纏うその剣に、八色の光が突き刺さる。僅かに上半身をぐらつかせた隙を逃さず、光琅は右手の剣で薙ぎ払い、続けて体を貫いた。
バッ、と血が飛び散り、交錯した光琅の肌に冷気を残した。そのまま全力で疾走を続け、すれ違うと同時に振り向く。
そこでこの視線が捉えたのは──────流出した血液をズルズルと引き戻し、何事もなかったかのようにこちらに振り向く聶情の姿だった。その身体を包む黒い長袍には、傷一つ残っていない。
どういうことだ?魔剣の覚醒で、彼に再生能力でも与えられたのか?いや、あの傷の治り方は異常だ…………何か、時間が戻ったような、そんな感覚が現れた。
「───────────」
違和感と嫌な予感が走った。あの数瞬以降、アイツの姿を見ていない。オレの分身を飲み込んだ後にオレに追撃をせずにどこへ行った?
索敵する。目前の聶情に注意しながら赤蛇を瞳で探す。その時、地面に薄く揺らめく影が描かれているのがわかった。形は輪。それがうようよと禍々しく蠢いている。ゴクリと喉を鳴らしながら恐る恐る頭上を見上げた。すると、
「…………なんだ、あれは」
そんな情けない声が喉から出た。自分の頭上には、自分の尾を飲んでいる聶情の赤い布・斬蛇が浮遊しながらゆっくりと回っていた。
「貴様も知っての通り、あれは斬蛇だ」
「何で自分の尾を、食べているんだ……?」
「あれが───────斬蛇の真の力であり、おれが軒轅を打ち倒した技だ」
あれが聶情が軒轅を倒した技…………。
斬蛇を見上げている光琅に、聶情は続けて言った。
「あれは蛇輪………始まりも終わりもない…永遠、無限、再生、循環。貴様の力を吸収し、あれは存続される。そしておれが奴を斬らない限り、おれ達が立っているこの場所は永遠に包まれる。そして次第に貴様の精神はその無限の地獄に吞み込まれていくのだ」
「その為の結界か………師匠達の声や横槍で目が覚めないように──────」
なるほど。そういう仕組みなら、聶情が軒轅を討ったのも頷ける。あいつはさっきオレに究極の魔剣を持たせた。その時に、途轍もない力が流れてきた。あれが長時間続けば自我は崩壊してしまう。故に持久戦だったのだろう。外傷は治せど、精神の破壊は戻らないということか。
ならこの状況はかなりまずいかもしれない。大技を放てば、あの赤い渦に吸い込まれ養分とされる。そしてこの無限の空間の解除方法は聶情が斬る以外はない。なら黒い亀裂で外に出ればいいと考えるが、どうやらこの結界では使えないらしい。使おうとしてもそれがこの結界内に出現することはなかった。
覚悟を決めるしかないようだ。無限に呑み込まれないよう、しっかりと自我を持って、この剣戟に挑む──────!
瞬刻、光琅が踏み込んだ。先ほどのように術色を使用した攻撃ではなく、己の力による攻撃を繰り出す。一歩を踏み切り、光琅はあらん限りの意思を込めた斬撃を聶情の脳天目掛けて振り下ろした。大気が灼け、白く輝いた。刃が生み出す光のあまりの眩さに、空の色すら彩度を失った。
降り注ぐ絶対的な死を見上げながらも、聶情の表情はまるで動かなかった。せいぜい見ることしかできないくらいの、超速の一撃だったのだ。いかなる反応も、対処も不可能なはずのその刹那、黒い布に包まれた聶情の体が、鮮血を噴出しながら肩口から下に裂かれた。
だが、斬り裂かれた体は、先ほどのようにズルリと戻っていく。
「これが無限だ。貴様がおれに傷を付けようが、おれが貴様に傷を付けようが、溢れ出た臓物と血は戻り、裂かれた傷は修復される。だが、そこに痛みが伴わないわけではない」
「じゃあ、お前は──────」
「ああ………今にも気絶しそうな痛みだ。だがな、この一千年の恨みに比べれば腕に針を刺す程度でしかない。だが、貴様はそれに耐えられるか────!」
瞬間、聶情が距離を詰め、赤い剣を振り下ろした。あまりの速度故にそれに反応することはできなかった。ずちっ。という湿った音が響き、跳ね上がった長剣が光琅の腕をその付け根から斬り離した。
「ぐ、があぁぁぁ!」
体の重心が狂い、よろめいた光琅は地面に転がった己の左腕を踏みつけながら大きく跳んで距離を取る。左肩の傷口から振り撒かれた血が、白い岩板に深紅の弧を描いた。剣を咥え、右手を傷口にかざしながら、光琅は全速で思考を回転させた。その間にも、結界内で発動した斬蛇が、出血を体内に戻り腕を再生していく。
斬られた腕は元通りになったが、切断時の痛みは残っている。歯を食いしばらなければ意識が遠のきそうだ。鞭を打て。意識を覚醒させろ。しかしどう対処する。術色などの概念的攻撃は赤霄の力によって吸われ、斬蛇の養分になるだけだ。ならばこの剣技で─────と言いたいが、例え剣戟を抜けて体に傷を与えたとて、痛みは走れどこの空間に居る限り体は何度でも再生される。
どう決着をつければいい…………。
「痛いか?だがまだだ。こうやって貴様と殺し合うのを実に千年も待った。まだ折れるなよ…少なくとも千年分は、まだ──────!」
間合いを詰める。
最小限。いや、最大効率の剣、と言うべきか。光琅は今繰り出された聶情の剣技を、そのように感じた。まるで、そこに居るのが彼でないようにも見えるほどに、この剣技は今までとは別物だった。
まず、ほとんど足が動かなかった。踏み込みも、回り込みも、ごく僅かに地面を滑るだけで行われている。更に、攻撃に際しても予備動作が無いに等しい。空中にだらりと掲げられた剣が、突然ぬるっと最短距離を飛んで来た。つまり予測が不可能に近いのだ。故に光琅は、聶情の決して素早くも力強くもないこの攻撃に、五回までもただ退がることを強いられた。
そして、五回で充分だった。鬼将としての戦闘経験から、予兆のない聶情の剣技ですらも間を盗み、反撃に転じた。
「シッ─────!」
付き合ったわけではない。が、最低限の気合と共に、上段斬りを聶情の六撃目に合わせる。強く歪んだ金属音を、青い火花が彩った。敵の水平斬りを、全力の斬り降ろしが抑え込み、押し返した。
大した抵抗もなく、ぐぐぐっと刃が沈んでいく。聶情の長身が、くにゃりと撓む。光琅は、少しでもダメージを蓄積させるためにこのまま肩から腹まで斬り下げてやる、と練り上げた心意を刀身に注ぎ込んだ。崩星が黒と金の光でそれに応える。聶情の赤霄を、断ち割らん勢いで押し下げていく。
瞬間、聶情の剣が怪しく輝いた。紅色の燐光がその厚みを増し、そしてそれは竜巻のように奔流を巻き起こす。
まさか、これは──────!
光琅は押し上げていく剣を離し、この身も彼から遠ざける。
間違いない、あれは喚依・赤霄。だがあの一連の流れであいつは何も言葉を発していない。まさか無詠唱?口に出さずとも、あれをノーモーションで放つことができると言うのか……。
息を整えて敵を睨む。
奴は一体何を吸収しようとしたのだ………?オレは今術色などの攻撃は行ってなかった。だと言うのに、奴はあれを発動した──────
「一つ聞く。その炎の渦は、どこまで吸収できる」
「おれが選択したモノ全てだ。術色であればそれを飲み、技量であればそれを飲むだけだ……」
なるほど、これで確信が付いた。あの覚醒した赤霄と言う魔剣は、斬撃、刺突、火炎、凍結、激流、旋風、土柱、光線、黒煙に加え、その敵対する本人の技量に対しての吸収が可能となっている。最早鍔迫り合うだけでこの場を支配している斬蛇へ力を送ってしまうことになる。
体力を多く持っていかれるとはいえ、連続発動は可能。故に攻撃が許される箇所は聶情の体しかないだろう。天上の蛇を斬ろうとしたところで、どうせ奴は防ぐ手段を持ち合わせているだろう。
やはり、
「ハァ!」
その『痛み』の蓄積で敗北させるしかないか。
腕を限界まで引き絞り、地を蹴り飛ばして絶殺の剣尖を聶情へと突き立てる。されど、構えは違えど向こうも同じく、跳躍するようにこちらへ向かい、掲げた剣を振り下ろす。
「──────────」
「───────………」
交錯の瞬間、朱色に染まった刃に撫でられた光琅の右肩から、抉られるように外套と筋肉が消滅し、ぶしゅっと鮮血が飛び散った。