105話 金の剣、銀の剣
「──────ん」
体が動いた感覚が走る。つまり覚醒したということだ。
七時前。いつもより少し早い時間に目を覚ます。既に日は昇っているはずなのに空は薄暗い。ふと外を見ると空は灰色の雲で覆われていた。
ぐぐっと背伸びをする。疲れは完全に取れていないが大分マシになっている。けれど問題は陳湛の方。とりあえず彼女の様子を見て来ようと道袍に着替える。念のため水を持って部屋を出る。気配からして眠っているのだろう。
「陳湛、入るよ」
瞬間、ひやりと背に冷たい違和感。とても奇妙、だがそれを振り払って彼女の返事を待たず中に入る。
「体の調子はどう?まぁ…あれからたった数時間くらいしか経ってないからまだ全然疲れは取れてないと思うけ───────」
ど、と。そう言いかけて、
「─────あれ、陳湛?」
部屋に陳湛の姿はない。陳湛が眠っているはずのベッドには、誰の姿も見当たらなかった。冷たい違和感はこれだったのかと理解する。
朝の空気を吸いに外へ行ったのか、とも考えたが、今日は生憎の曇り。日も出ていない、湿った空気をわざわざ吸いに行くような天気ではない。
では、一体どこに──────と窓の外を眺めていると。
「え─────」
居た。いやまだ定かではない。似たような色をした服なんざ沢山ある。けれどあれは、木々の生い茂った山を歩くあれは、
「陳湛………?」
◆
日の差さない朝。遠くは白く、近くもまた霧がかかっている。
湿った空気。しかし風は吹かない。そんな天気を肌が好ましくないと言っている。
昨日─────いや、数時間前の疲れはまだ取れては無い。だが、これはしなければならないことなのだ。
狭い道がだんだんと広がっていく。上りながら、手に持っている札にもう一度目を通す。
『山の上にて待っています。ですが一人で来るように。もしそれを破られたのなら、根張国の民の命はどれほど残るでしょうか。』
もはや奇跡だろう。こうも立て続けに、国民全てが人質に取られるなんて。
「──────────」
開けた場所に踏み上がる。
前方には男、距離にして十メートル。閉じているのか開いているのか判らない目をこちらに向けるは、宝刃戯派の世話役・湛慮だ。
顔面に付いている二本の黒線の奥を凝視するように睨みつける。
「性懲りもなくまた勧誘ですか…?」
「ふっ…改めて勧誘に参上した────と言うべきですかね。陳湛様」
その声に喉を鳴らす。何か企んでいる、と踏んだ陳湛は顔を動かさずに辺りを確認する。すると辺りの木に、同じような札が何枚も張られてあるのがわかる。
「これは………」
呟きに、湛慮は懐から一枚札を取り出してヒラヒラとさせる。
「爆弾、と言っていいでしょう。私がこれを破れば、同時にここにある───いえ、根張国にある全ての札が爆発する。もちろん、これから貴方の取る選択によっては、これを使うことはないですが」
「選択?」
「そう、選択です」
湛慮はヒラヒラさせていた札をピッとズラして二枚にし、それを空中へと放る。回転した札はやがてゲートと化し、そこから二本の剣が姿を現した。ゆっくりと出てくる柄を握り、湛慮の両手には、金の剣と銀の剣が装備された。
二刀流か、と思い扇を構えようとしたが、相手の表情を見てすぐに戦いのために取り出したのではないと悟る。
奴は『選択』と言った。ならば、あの剣はその選択の象徴なのだろう。
「既に私の右手には、根張国で保管されている宝剣『薇悉』、金の剣が握られています。一方、左手には我々宝刃戯派が有している魔剣『純鈞』、銀の剣が握られています」
あの煌びやかな装飾と艶、あれは間違いなく本物の宝剣だ。私達が秋河に苦戦している間に盗られていたのか。
「それで、何ですか?その二本の中から一本を選べと?」
「いいえ。貴方が選ぶのは─────両方受け取るか、両方受け取らない、かです」
一瞬、その言葉に眉をひそめる。
「……どういうことですか?」
「もし、貴方が両方の剣を受け取らなかった場合、この二本を握る者は変わることは無く、そしてこの札達は全て爆発します。ですが、貴方が両方の剣を受け取った場合、この二本を握る者は貴方となり、札は全て回収いたします」
何を言っている。
せっかく手に入れた宝剣を自ら捨てると言うのか?
「何を企んでいるのですか…?」
「何も企んではいませんよ。ただ、勧誘の際、言葉だけでは足りないと思いまして。それならば是非、身を以ってこの魔剣を体験していただこうってだけです」
「魔剣…偽物ではないですか」
「魔剣が偽物だなんて関係ありません。一番重要なのはその中身、そして使用者なのですから。それに、この選択にはあの方の許可もいただいておりますので」
「あの方─────それは軒轅と言う人物のことですか?」
陳湛の言葉に、金と銀を持つ狐は甲高い口笛で返す。
「もう軒轅様のことまで知っているとは…流石としか言えませんね。さて、貴方はどちらを選択しますか?私はあまり気が長くないので、すぐにお答えいただけると幸いです」
目前を見る。
第一、この国中にばら撒かれた爆発性能を持つ札が全て回収され、且つ宝剣がこちらの手に渡るのであれば両方の剣を受け取る以外の選択肢はない。だが問題はその後だ。あの疑似魔剣の力がどれほどこの体と心に影響を及ぼすのかわからない。
しかしこれはチャンス。上手くいけば、偽物の魔剣の情報を得られるかもしれない。魔剣の弱点、それがわかるのなら───────
以前、東の将軍幕下である飛川はこう言った。「疑似魔剣を持つ彼等は無意識に強大な力に呑み込まれている」と。しかし、私は晄導仙華へ忠誠を誓い、仕えている武官だ。常にあの人を想えば、あんな偽物に呑み込まれるわけがない。逆に私がコントロールして見せる。もちろん、物が物だけに何が起こるかわからない。最悪の場合に備えて、覚悟だけでもしなければ………。
「どうしましたか?このままでは貴方の答えは『受け取らない』になってしまいますよ?もしかして、この魔剣を恐れているのですか?心配はいりませんよ。貴方であれば、すぐに使いこなせ、満足いただけるでしょう。そして、その選択によってこの国を救うことができる」
肩を竦める。
随分と古典的な煽り文句ですね。ですが、そんなことを言わずとも……私の中には既に答えが出ている。
「はぁ……これはお手上げですね。ここの国民と一緒に死ぬか、その魔剣を取るか。二つに一つ。私は──────」
◆
山の中を駆け抜ける。音が連続する。これが自分の口から出ているのか、木々のざわめきなのか判断が付かない。いや風は吹いていないのだからこれは自分の乱れた呼吸だ。
「陳湛、どこ……?」
「師匠、本当にこっちなのかい?」
「こっちなはず……あれは、確かに陳湛だった」
土の道で足を止める。切らした息を整えて尚無鏡は彼女の名前を叫んだ。その瞬間、木霊が答えたかのように、遠くから返事が届いた。
「ここですよ、仙華様」
二人はその方向に体を向ける。目の前にある人の背丈ほどの大きさをした岩の後ろに人影が現れる。間違いなく女性。そしてあの声は、
「陳湛………」
姿を現す。彼女の格好は至って何も変わっていない。しかし、何かを背負っている物に結ばれている紐が谷間に食い込もうとしている。ふと視線を奥へやると、黄金の剣のような物を背負っている。尚無鏡は尋ねる。
「陳湛、その背負ってる剣って?」
「先ほど宝刃戯派の湛慮と会いまして、その際にこの国の宝剣を取り返したのです」
宝剣を取り返した!?ということは、タイミング的に私達が秋河の相手をしている間に盗まれたのか。しかし、それはもうこちらの手にある。
一瞬、喜ぼうとした感情は抑えられた。振り返る。陳湛は過去に、湛慮という人物から宝刃戯派への勧誘を受けている。思考の後にゴクリと喉を鳴らす。
「湛慮って確か……………勧誘は、大丈夫だったの?」
「はい、問題ありません。ですので──────私と戦ってください、仙華様」
そう言って、逆手に握り袖に隠れていた銀の剣が露わになる。一人は目を大きく見開いて、一人は眉をピクリと動かした。
あれって、まさか……宝刃戯派が持つ物と同じ、偽物の魔剣…?
「陳湛……あんたその剣………」
詰まりながら問う尚無鏡に、いつものように、何もなかったように、陳湛は優しく微笑んで返した。
「雰囲気、変わってますか?ですが安心してください。私は何一つ変わっていませんから。これは大事な実験────そして挑戦なんです。どうかご協力をお願いします、仙華様」
瞬間、湿った空気に冷ややかな感覚を送る風が、一回だけ山に吹いた。