100話 おはよう
月明りに照らされた長い通路を二人は歩く。ここは一体どこの世界なのだろうか。こんな建物は見たことも入ったこともない。窓の外を眺める。下の方では大きな火を囲んで人々が踊っている様子が映る。あれは何かの儀式なのだろうか。
ほんの少し開けた場所を通る。ふと横を見ると長く大きな銀の桶の上に変わった形の管が下を向いている。更にその上には鏡がある。自分の容姿にはあまり興味がなく、鏡などほとんど見ないが、映る自分を見て瞳の色に違和感を持つ。前に見た時は完全な赤色だったと覚えている。だがそこに映る色は橙色だった。
それがいつ変わったのか気になった。しかし今は、ここが何であるかを先に知らなければならない。
「ねぇ崩星、今私達ってどこに居るの?」
「ここは夕剪平に取り憑いた秋河が配ったお香で見せている夢境……夢の世界と呼んだ方がわかりやすいかな」
「ゆ、夢の世界!?………ってことは、私達の体は今─────」
「無防備だね。でも無防備なのは阿鏡の体だけさ」
「え……どういうこと?」
彼の後ろを着いて歩きながら背中に尋ねる。
「僕と陳湛も夢の世界に誘われたけど、自らを殺したことで夢から覚めることができたんだ」
「────ってことは、私もこの世界で死ねば………」
「僕もそう思った。でも調べてみたら、阿鏡の場合は違った。阿鏡の場合、この世界で死んでしまえば現実世界にある肉体も死んでしまう。流石は復讐鬼秋河だ。彼女だけ条件の異なる…さらにはより強力な夢境を提供するとはね」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ………それより、崩星は何で私の夢の中に来れたの?」
自分の前を歩く男は、髪を少し揺らし、僅かに肩越しで振り向いて「それは秘密さ」と微笑みながら答えた。この男はいつも何か隠している。それがこちらに悪影響を及ぼしたことは無いのであまり詰めることはないが、やはり気になってしまうものだ。現実世界に戻ったら問い詰めてみるとしよう。
二重に軽い音を立たせて階段を上がっていく。その中で、
「どこに向かってるの?」
「外さ。建物の中じゃ、少し狭すぎるからね」
階段を上がり切り、崩星は目の前に備え付けられている鉄の扉を開けた。先に広がるは針金を編んで作られた策に覆われた石でできた質素な屋根の上だった。彼が今から何をするのかはわからないが、確かにここならあの儀式を行う人等も居なければ広さも確保することができる。
夜風が通る。互いの髪を一つ一つ靡かせる。「それじゃ、ここから出ようか」と振り返って崩星は言う。
刹那、炎の周りで踊っていた者達が全て真ん中の炎の中へと飛び込んでいく。そして、数百の人間をくべた炎は大きな音を立ててこの世界を焼き尽くすかのように一気に広がっていく。
「な、なに!?」
「……これは、おそらく」
天変地異。
鮮やかだった月夜は、瞬く間にして地獄へと変貌した。中心の炎は大きさを増していき、その図体は巨大な石像にも負けないほどの大きさへと変わる。そしてそこに、睨みつける眼、この世界を食らう顎門かのような黒点がゴウッと浮き出る。
「くそ!くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそ───────くそがぁ!もう少しで、もう少しで晄導仙華を殺せるとこやったのに!邪魔ばっかりしよって!もう許せへん!完全にキレた!ここで貴様等を焼き殺してくれるわぁぁ!」
この訛った言葉、まさかコイツは秋河なのか!?
睨みつける焔は思念体にも見える。されど、我々に振り撒く熱は本物だ。確実にここで殺すと伝わってくる。
今の私はよくわからない服を着ており、武器何て物もない。
瞬間、
「え───────」
崩星が尚無鏡の体を抱き寄せた。驚愕のあまり一度引き離そうとしたが支えている腕は全く動かなかった。
「ちょ、な、なに………?」
「危ないから、そのままでいて─────」
怨恨の炎が迫り来る中、彼はそう一言囁いた。
ダメだ……こんな大きな炎、防ぎようがない。
そう思考した刹那、目前にまで迫っていた炎は何かによって弾き飛ばされて後退していく。更に音が重なる。尚無鏡は首を動かして、何が起こっているのかを確認する。
剣だ。それも直剣。
直剣が辺りに創り上げられ、それが数多に展開していく。そしてその全てが矢となってあの炎を砕きに掛かっている。そう、召喚されているのではない、創り上げられているのだ。
「な、なんや……なんなんや!」
「どうした?焼き殺すんじゃなかったのか?」
煽る声に応じ、また一本剣が創られる。鍛造が終わったのが、ギラリと輝きを走らせて剣はそのまま必殺の速度を以って叩き込まれる。
「………ガッ!」
炎に命中し、光が焚かれる。
同時に、ほんの微かだが記憶が蘇る。しかし、追い打ちをかけるかのように放たれる雨。微かな欠片を紡げと言わんばかりに雪崩込む。
「───────」
自分は見たことがない。ただ、あの赤から単語を耳にしただけ。『創造』という鬼の将を。
自分は見たことがない。嘗て剣を教えていた弟子の一人と同じ名を持つ人間を。
あの夢の世界で、食事を共にし、札遊びをしたのは紛れもなく彼だ。つまり私を救うべく、その世界の住人となって来ていたということだ。
彼は教えてくれなかった。何故私の夢の世界に干渉できているのかを。
縛られた暗闇の中、一度だけ考えたことがある。原初の妖鬼が落とした三つの種。それを人間が取り込んでしまえばどうなってしまうのかを。
彼は、その名でなくあの名を名乗った。助けるために来た人物が、私のことをそう呼んだ。
そう、つまり答えはここにある。
今私を抱き寄せて、創造した数多の剣で炎を退けている者は、そう─────
「光琅……」
一瞬、支えている手に力が入る。だがそれはすぐに引かれ、変わらない笑みをこちらに向けてきた。
「どうしたの?師匠?」
瞬間、落雷にも似た音が後方から響き渡る。振り返るとそこには、人界へ向かう途中で目の前に現れた黒い亀裂がそこにあった。
全て、全て理解した。その瞬刻に目頭が熱くなった。
ふわりと二人の体が宙に浮かび、後方にある黒い亀裂へと引っ張られていく。そのまま暗闇へと引きずり込まれていく。
「逃げるんか!また貴様は逃げるんか!貴様には、それしか能があれへんのか!この卑怯者がぁぁ!」
響く怒号に、笑いながら答える声がした。
「それはお互い様だろ?お前だって、一国の太子殿下の肉体に乗り移って逃げたじゃないか?だが、一つ言っておく。これは逃げじゃない、向かっているんだ。現実世界であんたを殺すために向かっているだけにすぎない。震えて待っていろ─────」
言い終わると同時に、黒い亀裂は重々しい音を立てて、砕けるガラスが逆再生されるように閉ざされた。
◆
「ほんまにしつこいやっちゃな………ええ加減諦めろや。なんぼほど足掻いたって、俺がこの体から出ることなんてあれへんのや…」
「いいえ、諦めません……必ずあなたを、ここで消滅させる………」
「彼女の言う通りだ。これ以上、お前を生かすわけにはいかない」
奴のやることは薄々わかっていた。国民に手を掛けると見せかけて、遠回りの後に尚無鏡を殺そうとしていた。だが、こうして接戦している今、奴がいつ国民に手を出してもおかしくはない。
この十数分、夕剪平の中から秋河を引き出す方法は見いだせずに臍を嚙む。自分は仙人の身でありながら、妖鬼に乗っ取られた人一人すら救えない。
あの日から独り立ちし、どれだけ仙声を重ねようとも結局はあなたには及ばない。故に、あなたをまた、頼るしかありません、仙華様─────
瞬間、翹埠城の方からバッ!と破裂するような音が響き、そこから何かが高く、高く空中へと飛び上がるのが見えた。崩星、陳湛、そして秋河が見上げる中、黒い影は一抹の朱光を迸らせた後、数多の火矢をこちらに向かわせた。
「ちぃ……っ!なんや!?」
炎と煙を立たせ、その者は二人に背を向けて、ザァ────と音高く両脚で着地した。背中を包んで大きくたなびく白い道袍、揺れる艶やかな黒髪、透き通る漆黒の弓。その特徴を、二人はよく知っていた。
今宵ここに、眠りから覚醒した晄導仙華・尚無鏡は、ゆっくりと肩越しに振り向くと、陳湛を、そして少年を見て、太々しくも微かに含羞のある笑みをニッと浮かべた。
「ごめん、遅れた──────」
「いえ……全然ですよ、仙華様」
そして─────パールのような瞳を持つ少年に、ルビーからトパーズに変わった瞳を向けて声に出した。
「おはよう、光琅」
微風に揺れる、真ん中で分けられた前髪。穏やかな笑みを浮かべる唇。その唇が動き、あの声が私を呼んだ。
「ああ────おはよう、師匠」




