1話 仙華釈放、取り戻す旅へ
この光景は、今でも深く覚えている。
目の前には紅蓮が広がっていた。全てを燃やし尽くす焔が、私を、辺りを、完全な焦土にせんと、ごうごうと唸っている。
されど、凡そ人間ならば耐えられぬ熱波を、黒い外套を翻す一人の男が防いでいた。
「───────────」
笛の音が聞こえる。火が滾る音をも消し去る華麗な音。私はその音に耳を奪われ、徐々に足元から崩壊を始める男に目を奪われていた。
嫌だと言った。
失ってほしくないからだ。この身ならば何度でも失える。だが、その男はそれが利かない。故に、その崩壊は私にとっての絶望でしかなかった。
彼は私の為だと言った。
そんなものは関係ない。失ってしまうのであればそんなことしなくていい。私がそう叫んでも男はそれを止めなかった。
やがてそれは、最後の小節へと差し掛かる。男は奏でながら、自死と言う崩壊へと歩んでいった。
「───────────」
これは随分と前に、耳にした曲。だが私はその名前を彼からまだ教えられていない。男はそれを、こちらではなく正面を向きながら、その曲の名を口にした後に灰燼に帰した。
───────これは貴方へ贈る讃頌の籟、仙華頌籟────と。
◆
『晄導仙華』
それは嘗て、匠歩国と言う国の民に信仰されていた仙人の名前だ。剣術に秀でており、人々を光ある方へ導いていた。だが彼女は、災厄とも言える戦いが巻き起こった際、仙界[雲の上にある仙人の世界]の禁忌を二つも犯し、人界[人間の世界]に多大なる影響を及ぼした。
一つ。自身が仙界の使者であると人界の民に明かしてはならない。
一つ。仙界の力を人間に与えてはならない。
仙界の禁忌を破ったものは当然死刑が言い渡される。だが彼女へ言い渡されたものは、死刑ではなく石蔵に一千年間の禁錮だった。その結果も相まって、仙界では彼女の名を知らぬ者は一人として居ない存在となった。
そこから彼女の仙声[人々が仙人を信仰する声、信仰度のこと。多ければ多いほどその仙人はより強い力を発揮する]は地の底の底まで落ち、釈放される頃には、仙界で最も落ちこぼれた仙人と化してしまっていた。
◆
「尚無鏡様。現在貴方の仙声は0です。全くありません」
嘗て晄導仙華と呼ばれていた仙人である尚無鏡は、一千年という刑期を終えて釈放されるや否や、下頼殿[仙声の低い仙人をサポートする組織が集う場所]に勤めている思子宗という女性から突き刺さる真実が浴びせられた。鋭い眼光と眼鏡の反射に少し気圧されながら、尚無鏡は頭の後ろを掻いて答える。
「それはもう先刻承知で……何かどーんとデカい、いっぱい徳を積める依頼とか来ていませんか?」
「尚無鏡様、お忘れですか…?徳というものはそう簡単に積めるものではないのですよ」
「ですよね………」と、がくっと両肩を落とす。
何故徳を積まなければならないのか。それには理由がある。
一つは、全く名の通っていない仙人はただ座していたところで信仰されるわけがないからである。故に自らを自らが布教しなければいけない。人界へ赴いて、事件解決や商売芸能、また道士として自分を観に祀ったりなどをして信徒を獲得しなければ徳も詰めず、仙声向上にも繋がらない。
そしてもう一つ、これが一番重要なこと。特殊な例を除き、一定期間の間仙声が低い状態が続いた場合、四将軍と呼ばれる仙界の東西南北を統べる四人から追放を言い渡されてしまう。つまりこの身は仙人ではなくなるということだ。
仙人でなくなるだけであるならまだいいが、追放された場合、今まで生きてきた年数が一気に押し寄せてくる。百ほどしか生きられない人間の身に、神速の如き速さで老化すれば確実に死に至ってしまう。
なのでそれを回避するために、できる限り早く徳を積んで仙声を上げたいと尚無鏡は思っている。その時、
「────失礼」
と思子宗はこちらに一言言って、通筆書[特殊な巻物。開くと対象の相手と会話することができる仙人の連絡用端末]を開いて目を通し始める。読み終わるや否や「なるほど」と呟いて再びこちらに視線を向ける。
「尚無鏡様。たった今、南将軍から貴方へのご依頼をお預かりしました」
「南将軍から?と言うか彼は今どこに?てっきり石蔵の扉を開ける者は彼だと思っていたのですが……」
「南将軍は今、臥薔国の誕主宴[国主の誕生を祝う祭り]に行っており仙界には居ません。それ故に、私がお迎えに上がりました」
「なるほど…そういうことでしたか。それで、南将軍からは何と?」
「冰有国の民が頻繁に祈祷をしているのがわかり、何か異常があったのではないかと南将軍は考えられました。なので将軍の代わりに赴いてほしいとのことです。もし受けてくださるのであれば、この信徒達の奉納はその数に拘わらず、全て貴方の仙声として捧げられます。いかがでしょうか」
冰有国。確かこの国も南将軍を信仰していたな。ということは、この依頼で発生する報酬はとんでもないことになるのではないか?
「是非!これが完了すれば私は──────」
「あまり浮かれないように。そもそもこれを完了できたとて、その仙声は将軍のお零れ、貴方への信仰ではございません。ですので、それが終わっても人界で徳を積まなければならないことには変わりません」
「うっ………」
まぁ、薄々わかっていたことだ。絶望しても仕方がない。
そう思うと同時に姿勢を正す。
「では今から冰有国に向かいます。ありがとうございました」
思子宗に拱手し下頼殿を出ようと後ろを向いた時、背後から咳払いが聞こえた。
「何も武器を持たな状態で行くつもりですか?」
あ─────
言われて初めて気付く。さっきまで石蔵に居て鈍った感覚、そして今までは腰に剣を携えて当たり前の生活だった。故に、今自分が丸腰なことをすっかり忘れていた。
顔に熱が奔る。
「もし、妖鬼[死霊が骸に取り憑いたり、過去に恨みを持つ者が死することで生まれる肉を食らう怪物]と対峙したらどうするつもりだったのですか?」
「あはは…これは失敬。では私の剣がある所へ案内してくれますか?」
だが、思子宗は顔を横に振る。
「申し訳ございません。貴方の剣がある場所を知っているのは将軍等のみですので、私は案内することができません。ですが東将軍から貴方へと品を受け取ってあります」
東将軍から?…違う所属区域を統括している将軍から貰うのは初めてだ。
思子宗は棚の引き出しから黒い弓を取り出す。
「剣ではありませんが、これを持っていってください」
「ありがとうございます」
弓を受け取る。手にした瞬間、通常の弓とは違った重さが腕に伝わってくる。弓自体は初めてではない。だが、いきなりこう高級感のある弓を持たされては心が落ち着かない。
壊したら、どうなっちゃうのかな────────
「それに大変申し訳ないことを言いますが、今の貴方は仙声がないのでたった一人で人界を歩く、ましてや将軍の依頼を受けるのは極めて危険です」
仙声は民の声、即ち仙人の力の源。それが全くない私が人界に降りたとて、戦闘技術は体が覚えていても力の差で敗れ、仙界に無様な姿で戻されるだけだ。
「では、どうすれば……」
「ご安心ください。どこからそれを聞きつけたのかはわかりませんが、匿名で既に一人、この依頼の手伝いをしたいと申し出ている武官がいます。今は少し手が離せないそうなので人界での合流になります。が、これでもまだ安牌とは言えません。せめてあと二人は欲しいですが……」
尚無鏡が口を開く。
「なら、以前私に仕えていた三人の中から二人を選べば─────」
「あの御三方は貴方が石蔵に入った瞬間から将軍等の命によって独立しています。故、以前より声を掛けることは困難でしょう」
そんな予感はしていた。そう簡単な話は無いなと思っていたが、言われると余計に効く。頬を掻き、溜め息交じりに言葉を出す。
「で、ではそのまま募集を続けてください。決まり次第人界へ送ってくれると助かります」
「ではそうさせていただきます。それと───」
思子宗は通筆書を尚無鏡に渡した。
「連絡する際はそれをお使いください。では、くれぐれもお気を付けて」
「はい」
思子宗に拱手し、今度こそ下頼殿を後にする。そしてそのまま仙界の最南端を目指して歩く。仙界の端には人界へ降りるための場所が東西南北と四つある。その内の一つが下頼殿の少し先にある。しかし、久しぶりに歩くせいか少々遠く感じてしまう。
仙人だから、体が衰えたというわけではない。感覚、心が衰えた。
周りを見渡しながら歩く。仙南域 [仙界の南エリアのこと]は特に変わっていない。けれど、懐かしくも真新しく感じてしまう。千年の暗闇からの解放。色々と感覚を狂わせる。
前方には雲海。そして白い外套を揺らす風。
深呼吸をする。
「よし─────」
一歩、前に出た。そしてすぐに重力によって下に引っ張られる。
迫る雲海。体を貫かんとする風。
千年前もこうして風を受けながら人界へ降りたっけ。
遠い過去に浸る。自分と仕えていた武官三人でこの空を浴びた。その記憶が雲を通してみる地上のように薄く脳裏に蘇る。
それも刹那の間。すぐに雲海を突き抜ける。と同時に──────
「!─────」
目前に黒い亀裂が現れた──────
過去にそのまま浸っていればそれを認識することはできなかっただろう。
このまま行けばそれとぶつかると瞬時に理解した。落ちているから止まる、だなんてことは絶対にできない。
尚無鏡は精一杯力を込め、何とか触れないように体を傾ける。
寸前。
結果的に亀裂にぶつかることなく、落ちる体とあの亀裂は上下にすれ違った。
あれは一体何だ?仙人の術か?否。そんな術は見たことないし、仙人が仙界へ帰る際は、幕下[将軍の配下の者]が人界にいる仙人に転移陣[仙界へワープすることができる小エリア]を送ることになっている。
さらに数秒後に、
『尚無鏡様、聞こえますか?』
思子宗から貰った通筆書から本人の声が聞こえた。袖の中、さらにこの豪風の中でもしっかりと声が聞こえるとは思わなんだ。
袖から通筆書を取り出す。書を開けば相手の顔や状況もわかるが、今はそれどころじゃないので開かずそのまま声だけの会話をする。
「どうしたんですか?」
『良い知らせと悪い知らせがあります。良い知らせは、貴方に協力してくれる武官が二人名乗り出てくれました』
幸先が良い。申し出てくれた人が誰であれ感謝しかない。安心して人界で活動ができる。
「それで、悪い知らせは?」
『先ほどまで貴方を禁錮していた石蔵が崩壊しました』
よろしくお願い
もし、いいなと思ったら☆欄にて応援していただけると幸いです。
励みになります!