【3+3】
ひとつめの検証、完了。
結果は、言わずもがな。
☆ ☆ ☆
◇
つづいて、お天気情報です。
台風が近づいているようですね。
今日は気象予報士の中谷さんです。
はい。では気になる台風情報です。
台風4号は15時現在、フィリピンの東上空で勢力を強めながら北に進んでいます。中心気圧は1000ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は18メートル、瞬間最大風速は25メートル。この台風は今後、大型に発達しながらそのまま北東に進路を変え、明後日の朝から昼頃にかけて九州地方に上陸する見込みです。今後の情報にご注意ください。
……
次はスポーツコーナーです……
◇
家に入ってすぐにリモコンに手を伸ばす。テレビニュースは無音だったこの家に「生活」を連れてくる。
これは癖みたいなもので、私が家にいる間チャンネルは変えず、テレビはずっとひとりで騒いでいる。
父との二人の暮らしは賑やかさとは無縁だ。
唯一この家で喜怒哀楽を表すテレビの存在は、私が社会の中で生きて感情をすり減らしていることをちゃんと思い知らせてくれた。
制服を脱ぎ部屋着に着替えてリビングに戻った時、留守番電話が赤く点滅しているのに気付いた。
3日の日程で九州までの長距離運行から今日帰ってくる予定だった父からの、「帰るのが3日遅れる」という内容のメッセージだった。九州の近県内で効率良い積み荷の予定が立った、との事。
携帯電話の類を持たない私は、その連絡に返事をする術もない。
キッチンに進み、米を研ぐ量を一合減らすことにする。夕飯の品数も一品減らし、量も半分。
効率よくお金を稼ぐことを考えて働く片親と、効率よくお金を使わないように生活する一人娘。それが私達父子の日常で、母親のいない私と父の役割分担だった。
ひとりでは広すぎるダイニング。
ひとりでは隙間だらけになるテーブルに、ひとり分の夕食を並べる。
ひとりしか腰掛けられない所謂「お誕生日席」に、ひとりで座る。決め事ではないが、私はこの席にしか座らない。
今日もひとりでおめでとう。
昔は、私側から伸びる右の長辺に祖父母の二人、左側の長辺にお母さんと父が座っていた。遠い昔の話だ。
「いただきます」
誰もいないキッチンにそう言ってから、炊き立て一合から少しだけよそったご飯と簡単なおかずを啄んだ。
父はちゃんと食事できているだろうか。
効率の良いことばかり考えて、気付かないとお風呂にも長く入らない人だ。九州は台風が接近しているらしい。今回増やした積み荷も、天候予測で大手が断った仕事を拾ったのだろう。お金と危険度を天秤にかけ、効率から仕事を受けた。大方そんなところだ。
無事と健康を祈ると、頭の中で父の声がぼんやり響いた。あの時の言葉だ。
「結果、死んだ。それだけのことです」
祖父母はあの時、父を非難した。
人でなし。それでも夫か、と。
父の言葉に、祖父母は『愛』を感じなかったのだ。
でも私は、お母さんに対する父の思いを強く感じていた。
葬儀の出席者の誰もがお母さんを不運で不幸でかわいそうな人だったと悼む中、誰かひとりでもお母さんの勇気と行動が結果として我が子を救ったことを、客観的に示したかったのだと思う。
私がこうして、仕事中の父の無事と健康で祈るのは、私だけが父の本質を知っているからだ。
私は父とよく似ているから、口を突く言葉の裏にどういう感情が潜っているのかが、痛いほど分かる。
言う事が端的で誤解されやすいところも、引っ掛かりがあると何事も突き詰めてしまう思考も、お母さんが心から大好きだっていうことも、全部。
「アイがちゃんと、本当のこと言ったらいいと思う」
今度は頭の中で蓮太がそう言ってくる。
朝にそんなことを言われて、今日もちょっと調子が狂った。
蓮太は、そうすれば皆が私を受け入れるようになる、とも言った。そんなことで、人の心が自動開閉されてたまるか。
受け入れるのも締め出すのも、皆いつもその出入口付近で決めつけてくる。
固く閉ざした扉のドアスコープから、私を適当に面白がって見てるだけだ。そんな玄関先で私が全てをさらけ出して、剥き出しの全裸のまま「入れて」と歌っても、扉を開け放つ人は誰もいない。きっと。
ひとつだけ生じる疑問があるとするなら、私がそれを「検証したことがない」ってことだ。
◇
深夜1時。
今日はまだ寝ていない。
テストが終わるまでは、この生活は続く。
窓の外を見る。
蓮太の部屋は、今日も煌々とデスクライトが灯っていた。
ひとりだけど、ひとりきりじゃない。
「蓮太くん、アイがひとりの時は、きみとふたりになってもらえるかな?」
幼稚園への登園を嫌がり泣いている私を抱えたお母さんが、園庭で不思議そうに首を傾げているちっちゃい蓮太にそう頼んでいた。
蓮太は「……分かった!」と答えて、恐るおそる私の手を取り、「アイちゃん、行こう!」とブランコへ引っ張っていく。私はお母さんから引き剝がされる痛みを少しだけ感じてちょっと泣きそうになって。
でも、蓮太が繋いでくれた手があたたかくてちっちゃくてかわいくて、それで私は蓮太についていった。
幼稚園にはお母さんがいないけど?
ううん。蓮太がいてくれるから、大丈夫。
お母さんが言う蓮太がいるなら、大丈夫。
昔の風景が浮かんだ勝手な過去のモノローグは、蓮太の部屋の電気が消えると同時に真夜中へ消えた。
蓮太の今日のテスト勉強はおしまい。
眠くなったんだね。
蓮太、今日もいちにちお疲れ様。
テスト、頑張ろうね。
私はもうひと踏ん張り。
再び開いた机の上の教科書から、徳川慶喜とか坂本龍馬が飛び出てくる。格好付けた木戸孝允を指でつまんで、私は知識のお夜食にした。
◇
「久しぶり。アイちゃん、和田くん」
金曜日に定期テストの日程が終わり、土日をはさんだ月曜の朝。
真中くんは、校門の脇で私たちを待っていた。「結果は一緒に見たいと思って」と、自信に満ちた表情で私たちに合流する。
並木道を並んで登校した時、緊張した面持ちだった蓮太とおかしい程に対照的で、二人の並々ならぬ努力と強い想いをそれぞれに感じた。
答案の返却の前に、今日から成績上位者が掲示板に張り出されている。
校門を進み生徒昇降口の先にある小ホールにそれはあって、ここからでももう中で生徒が一喜一憂している声が聞こえた。
「条件は、憶えてるよね?」
「はい」
「……カエデは手応えありって感じか?」
「そうだね。今までで一番解けた気がするね。和田くんはどうだい?」
「俺だって。負ける気はしてねえ。結果が全てだ」
「だってさ。楽しみだねアイちゃん」
私を間に置いて、蓮太と真中くんが何やら言い合っている。「そうですね」と呟いた私の返事はやはり今日も掻き消された。
ぽつねん。
自分が台風の目のようで、無風のまま内履きに履き替えた。
横並びになって三人で小ホールに入ると、真ん中の二年生の掲示板の前にあった人だかりが揺れた。
「学年一位が来たぞ!」
歓喜と落胆のざわめきが、その声で静寂に変わる。一位だ。私の左右どちらかが呟いた声が、私の左右どちらかの耳から聞こえた。
人だかりは次第に左右に割れ、その間を私達は進んだ。掲示板に張り出された成績上位者の一番上の方に、揃って視線を上げる。
1位 相葉アイ 898点
2位 真中カエデ 890点
3位 和田蓮太 888点
「……」「……」「……」
自己採点通りだった。
900点満点を目指したが、一問不正解。
まあでも、それを検証したかった訳ではない。
私が検証したかったひとつめは、真中くんが言って蓮太も同調してた「ひとりで勉強しても相葉アイの点数は上がらない」というのは、正しいのか否か。
ひとつめの検証、完了。
結果は、言わずもがな。
「……あ、えーと、あ、アイちゃん?」
「はい」
「……ちょっと僕、まったく整理がつかないんだけど……」
「はあ」
左の方で、真中くんが膝から崩れ落ちていく。
右の方を見遣る。でっかいのが口をぽかあんと開けて、目を見開いて固まっている。
「んーと。お先に失礼しまーす」
そんなカオスな状況は早く離脱したくて、私は二人をその場に残して教室に向かった。
◇
その日は一日中、教室が変な雰囲気だった。
教室というか、私のまわりがずっと変な感じで、休み時間の度に私の席を中心に謎の緩衝帯ができて、誰も近寄れない空気が立ちこめた。
頼みの蓮太も今日はずっと口から魂が抜けていて、授業で教師に信頼されるような存在でも無くなっていた。
全ての授業で答案の返却がされる一日だったが、私の名が呼ばれるたび教室はざわめいた。
答案を受け取りに教壇の前まで進むと、どの教師も異星人を見るように私を見る。恐怖を滲ませる人もいた。
英語の三村先生だけは、「よく頑張ったな」と私の頭を撫でてくれた。
◇
昼休み。
チャイムと同時に廊下に出て、学食販売へ向かう。
隅と際でヒソヒソと誰かが話をしている。総じて視線は私に向いていて、その多くは口を覆って笑ったり慄いたりしている。
正真正銘の「悪目立ち」が起こったのは明らかだ。検証結果に足しておかなければならない。
学食販売の壮絶なパン取り競争は熾烈を極めていた。定刻で授業が終わるところが多いのか、月曜はきまってその光景が見られた。
私が輪の最後に参加する前に『伝説のあんぱん』は売り切れていて、仕方なくコロッケパンを手に取ろうとした時、学食の浅沼さんに声を掛けられた。
「相葉さん見たよ! 頑張ったね! はいこれご褒美!」
陳列棚の下から『伝説のあんぱん』を3つ出し、袋に入れて手渡してくる。サムズアップした浅沼さんから「私からの奢り!」と言いながらぐいっと胸元に預けられて、私は深くお辞儀をして教室に戻った。
パック牛乳をまた買い忘れたが、これ以上まわりから尖った視線を浴び続ける勇気は無かった。
検証結果に付け足す波及効果がデカ過ぎる。
◇
教室に戻ると、今日一日緩衝帯になっていた私の席に隣接する場所に、蓮太と真中くんが居た。
いつかのように、前の席に後ろ向きに跨る真中くんと、今日は私の左の席に腰かけている蓮太。「あ、ども」。私は小さく会釈をして、席についた。
「……あのさ、アイ?」
「ん?」
「……どういうこと?」
「どうもこうもないけど。あ、二人ともあんぱん食べる?」
ビニール袋からガサゴソと2つ取り出して、それぞれに手渡す。
不意打ちだったかうっかり受け取ってしまった二人は、我に返って「いやいやいやいや」とあんぱんを左右に振って私にツッ込んできた。
「じゃなくて! あのさあアイちゃん」
「はい? 食べないですか? せっかく貰ったのに」
返してもらおうと手を伸ばしたけれど、返してはくれないみたい。ちっ。
「そんなことじゃなくてさ! アイちゃん、学年1位だよ1位! 分かってる?」
「ありがとうございます」
「あ、おめでとうございます。じゃなーい! そうじゃなくて!」
不意に完成したノリツッ込みはどうでもいいが、これは今日も気軽にあんぱんを食べれない流れなのか。
緩衝帯の外の興味津々の熱が以前よりも熱々なのを、こめかみのあたりに感じた。
「アイ。なんで今回満点なの?」
ちょっと生気を取り戻しつつある蓮太が、真剣な顔で私に尋ねる。
「満点じゃないよ。1問だけ解けなかった」
「充分凄いって。いきなり凄過ぎるんだよアイちゃん」
「ありがとうございます」
「あ、おめでとうござ…」
「どうして今までちゃんと解かなかったんだよ。毎回赤点ギリギリの生徒が、いきなり学年1位だぜ? 誰だって驚くよ」
不意に完成しかけた天丼が成立しなかったのもどうでもよくて、蓮太の真面目な問い掛けと茶化された真中くんの泣きそうな視線を受けて、私はちょっと居ずまいを正した。
「今までもちゃんと解いてたよ私は。前も言ったんだけど、点数を上げることに興味が無いっていうか。今まで、点数をたくさんとるための勉強をしたことが無かったの。そういう検証に必要性を感じなかった。ただそれだけのことです」
言ってみて、口調がお父さんみたいだなと思った。やっぱり父子なんだな。今も痛感してるよ。端的に言うと共感って得られないね。
「それにしたって……」
「そういうテスト勉強しなくてもさ、ギリギリ赤点をまのがれることとか、進級することとか、最寄りの高校に合格することととか、最低限の最適な努力で出来てきたから。悪目立ちしたり、余計なエネルギーを使ったり、そういうのが無駄に思えて……嫌なんだよね」
「ちょ、ちょ、ちょーっと待ってアイちゃん!」
ほらね。端的に言うのがいけないと思って補足しようとしても、はじめの印象が強すぎるとその効果は薄い。
いつかの検証は、こうして活きてくる。
「アイちゃん。君はこれまでも、やろうとすればいつでも簡単に点数を取れたってこと?」
教室が息をのむ。
こういう時は、どう答えるのが最適解なのか。
あーもうめんどくさい。
やっぱり悪目立ちするのはエネルギーの無駄だ。
とりあえず正直に答える事にした。
「……はい」
ざわっと音が鳴った。
教室が呼吸を始める。まじかよ、どういうこと、信じられない。蓮太も真中くんも、あんぱんを持ったままあんぐりと口を開けた。
「定期テストって出題範囲が示されてますから。その範囲をさらって一周勉強すれば、大体頭に入ったっていうか。それだけのことなんですけど……」
真中くんが乾いた唇を閉じて、こくんと喉を鳴らす。反復で開けた口から「天才だ……」と漏れた。
「どうして黙ってたんだよ」
蓮太が静やかに聞いてきた。
ざわめきの抜けない教室で、私にだけ聞こえる声量だった。
怒っているわけでもなさそうだけど、何となく寂しそうな目をしている。
「黙ってたっていうか。検証もしてないことを言えないよ」
「でも、いつでもやれる自信はあったんだろ?」
「やれなかったかもしれないし。それを証明するのが検証だから」
「今まで勉強を聞かれなかったのは、その必要が無かったってことか」
「うーん、そうだね。でもそれは、『聞かなくても分かるから』っていうんじゃなくて、『聞いてまでして分かる必要性がないから』ってことなんだけど……」
「うん、なんとなく理解はできるよ」
「嘘をついてたわけじゃないの、許して」
「許すもなにも。よく考えてみたら、アイは研究者の娘だもんな」
両掌を上に向け首を竦める蓮太は、とりあえず事実を受け止めてくれたようだ。
長年の仲だ。
関係性は何も変わらない。
今までも、これからも。
√1=。
カブトガニ。
和田蓮太。
「それより蓮太? 結果が全てだって言ってたけど? 私が1位じゃなかったら、1位は真中くんだったってことなんだけど?」
「……えっ! あ、いやぁ、そう、だなあ……ははは」
「蓮太ー?」
そんなやりとりを耳で捕捉した真中くんの意識が、異世界から戻ってくる。
目に輝きが戻ったあたりで「そそそそそうだよ!」とソの音階で発声してきた。
「アイちゃん! 僕は和田蓮太に勝った! 僕と和田蓮太の点数勝負は、堂々の僕の勝利だったわけで! 分かるかい?」
「『条件は憶えてるよね?』って朝言ってきたのは、真中くんですよ?」
「え、いやあ、だから」
「条件は、真中くんが1位をとったら、じゃなかったかなあ?」
蓮太が「そうだぞカエデ」と茶々を入れている。私が1位をとらなかったら負けの勝負だったのに、3位の蓮太はケラケラと笑っている。
「分かった分かった、分かったって。……でもさ、僕、今回はこれまでも含めて過去最高点の合計点数だったんだよね。結局1位はとれなかったんだけどさ……」
「そっか。いっぱい頑張ったんですね。真中くん偉いね」
少しだけ気持ちを込めて労う。
(そして蓮太を軽く睨む)
あんなにもエネルギーを使うテスト勉強を、真中くんも蓮太も毎回やってテストに臨んでいる。私には絶対に出来ない。検証がかかっていなければ。
「うん、ありがと。だからさアイちゃん。友達からでいいから、これからも仲良く付き合っていってもらえないかな? 話し掛けない、とかそういうのナシでさ、本気の本気で」
真中くんも、どこかスッキリした表情に戻っていた。
この人はきっと、自分に正直に生きてきた人なんだ。明け透け無くどこか無邪気で、小憎たらしさと愛らしさが同居している人。
思わず無思考で「うん」と返事をしそうなのを慌ててやめて、熟考の末に答えた。
「それは、後々ちゃんと恋人になる前提で、ってことだよね? もしそうなら、返事は……私に最低もう二日だけ時間をください」
真中くんと蓮太が、同時に「えっ」と反応する。99%断られると思っていたであろう真中くんの表情が晴れ、蓮太の顔に薄い雲がかかった。
「アイ、またお前は何を…」
「蓮太、今日放課後ちょっと私に付き合ってもらえる?」
苛めようとする蓮太を一瞥してから、私はそう言葉を被せた。
完全にあんぱんを食べ損ねた。間もなく5限目が始まるのに、私の空腹は満たされなかった。
ひとつめの検証は、派生した影響が大きい。腹の虫が和音になって歌ってる。その名曲のタイトルはさしずめ「あんぱん食べたい」。
「私と、ふたつめの検証に付き合って欲しい」
「ふたつめの検証?」
「うん、お願い」
台風一過は綺麗に晴れ渡る。
まわりの雲を、台風が根こそぎ吸い込んでいくからだ。
私はその台風の目をきつく瞑り、ふたつめの検証の前に深く祈りを込めた。