【5÷1】
純んだ気持ちは
私みたいな奴には、概して優しくない。
蓮太にあてられて
自分が粉々に壊れそうで、怖いんだ。
☆ ☆ ☆
普段より27分も遅く家を出る。
徒歩で遅刻せず学校に着くには、多分ジャストタイム。
テスト期間で朝練の無い蓮太に昨日は家の前で会ってしまったから、今日はいつもよりだいぶ遅らせたのだが、甘かった。
「よお」
「……遅刻するよ?」
「ぎりぎり大丈夫だろ」
きっとかなり待っていただろうけど、蓮太は嫌そうな顔ひとつせず片手をあげる。
「……待ってる意味無い」
「そんなこと無えって。テスト勉強の話できるだろ。それに」
「それに?」
蓮太の前を私が通るタイミングに合わせて、彼も学校へ向きを変える。並んで歩くと、あらためて蓮太の長身に気付かされた。
蓮太のことは幼稚園から知っているけれど、私の印象は「隣りのちっちゃい蓮太」だった。
年度の初めの日に生まれた私と、年度の終わりに生まれた蓮太。同い年だけど約一年も生まれた日には差があって、身体の大きさも約一年分ずっと私の方が大きかった。
両極端な私達なのに、蓮太はいつ私より大きくなったのだろう。
「その……アイ、大丈夫かなって」
「何が?」
「いや、昨日の昼休み、カエデの奴がさ。あいつデリカシー無いっていうか」
「ああ。別に気にしてない」
「……そっか」
「うん。そう」
少し横を見上げながら答える。
蓮太は私に上体ごと向けて見下ろす。
安堵の滲む溜め息が、並木道への入り口で朝に溶けた。
「……蓮太は私を気にしすぎる」
「だってさ、あいつ、アイをかわいそうとかさ。何も知らないくせに」
そもそも、私と蓮太は根本的に真逆の人間なのだと思う。対照的で、違う世界を生きている。
性別も性格も、血液型も身長も、席順も何もかも。そう言えば五十音順でも、苗字も名前も「あ」から始まる私と、五十音の殆ど最後に始まる和田蓮太は、あからさまに一番端と際にいる。
ここまで真逆だと、心に持つ感情とか怒りポイントとか、互いから遠く乖離してくるのは必然なことなのかもしれない。
「そんなに怒らなくていい。真中くん、悪気は無かったって言ってた」
「は?」
「ん?」
「カエデと話したの?」
「ああ、うん」
「いつ」
「えっと、昨日の放課後」
「あいつ……」
そっか。私と話しちゃダメなことになってたんだっけ。
「んーと、とにかくさ、ほんとに大丈夫だから。気にしないで」
心なしか、歩く速度に焦りが出た。悠長に話してる場合ではないかもしれない。
並木道の登校の生徒の数がまばらになって、これは遅刻のデッドライン上の時間のようだ。
「アイが大丈夫ならいいけど……でもな、ああいう時は、アイがちゃんと本当のこと言ったらいいと思う」
「……何の話?」
歩幅の広い蓮太と違って、私は小走りで校門へ向かう。遅刻をしたことはないからよく知らないが、私たちの学校は時間になると校門の門扉を閉めて遅刻者を炙り出す。十数メートル先で、生活指導の先生が門扉に手を掛けているのが見えた。
「だからさ、私は『かわいそう』なんかじゃない!ってさ。そう言えばいいんだよ」
「え? 何言ってんの?」
「家族もちゃんといて、ご近所付き合いもちゃんとやってるってさ。小さい頃の事故で母親はいなくなってしまったけれど、けして『かわいそう』ではないんだって。こうして俺もいるんだし……。ちゃんとそう言えばいいんだよ」
「ちょっと何言ってるか分かんない。それ言って、何か変わる?」
小走りなんて、無駄なエネルギー消費の極致だ。日頃の運動不足の八つ当たり込みで、ちょっとイライラした。
「変わるさ。本当のことを言って分かってもらえたら、誰もアイを『かわいそう』なんて思わなくなるよ。きっと分かってくれる。アイは全然変な子なんかじゃないって、皆んな受け入れてくれるようになるさ」
リミット4秒前に、並んで校門を通過する。セーフ。
息を整えるひと呼吸目でチャイムが鳴って、テスト勉強で寝坊した生徒たちの断末魔が、閉められた校門の外から聞こえてきた。
「……除数1の割り算」
「え?」
「……だから、除数1の割り算と一緒」
「何?」
全然息の乱れない蓮太に、少しいじわる。
絶えだえの呼吸はなかなか治らない。
「はあ……変わらないよ? たぶん。除数1の割り算みたいなものでさ、計算してる風で結局答えは何も変わらないんだよ」
むっつりと答えるけれど、蓮太は私に向いて真面目な顔をする。
「そんなことないって。試したことあんのかよ」
検証、したことはないけど。
でもきっとそうだ。
疑問にも思ったことは……ない。
「……変な子、って言ったでしょ」
「あ」
これまでも、本当の意味で蓮太を正面から真っすぐ受け止めたことはない。不器用でも、いなして躱してよけてきた。純んだ気持ちは、私みたいな奴には概して優しくない。蓮太にあてられて、自分が粉々に壊れそうで、怖いんだ。
教室に着くまで、蓮太は「ごめん」とか「そんなつもりじゃ」なんて弁解していたけど、私は繰り返し「怒ってない」と答えるだけ。
今までと、私達は何も変わらない。
乗数1の掛け算。
シーラカンス。
as it is。
昔から、何も変わらないよ。
あの日よりもずっと前から、私は。
◇
奇跡的に時間通りに終わった梶原先生の日本史の授業だったが、私はあんぱんを買い損ねた。廊下に出ようとした時、その廊下から真中くんが私をたずねてきたからだ。
「アイちゃん、こんにちは」
「……」
「約束は守れよカエデ」
真中くんの挨拶が終わる前に、教室の真逆から移動してきた蓮太が釘を刺した。「はやっ」と苦笑いしながら、真中くんが両掌を突き出す。どうどうどう。真中くんが、落ち着けという感じのジェスチャーで蓮太を宥めた。鼻息の荒い長身の蓮太を、上手に躱している。
「分かった分かった。じゃあ、これからは和田くんに話すよ。テスト終わるまでは。だから、アイちゃんは聞いてて?」
「何言ってんだお前」
「アイちゃんに話し掛けるなって約束はしたけど、アイちゃんに話を聞かすな、なんて約束はしてないよね僕たち」
「は?」
「してないよね?」
「……してないけど」
ふふん、と鼻を鳴らして、真中くんは昨日のように私の前の席に跨った。
「ところで和田くん、アイちゃんのテスト勉強のことなんだけどさ」
明らかに私の目を見て話し掛けてくる真中くんと、苦虫顔で真中くんを睨みつける蓮太。
地味な私の目の前で繰り広げられる豪華で珍しい光景に、教室中が見て見ぬふりのまま興味津々なのが手に取るように分かった。
「僕は勉強が得意だ。点数も取れる。そしてアイちゃんは、これまで点数が取れなかった。和田くん、君がそばにいてもね。どうだろう? 放課後だけでいい。僕がアイちゃんに勉強を教える時間をくれないか?」
「アイに話し掛けない約束はどうした」
「そのままで構わないよ。僕が一方的に話す。アイちゃんは聞いてるだけでいいんだ。心配なら和田くん、君もそばにいればいい」
やっぱりぽつねん。
私のことを話している筈なのに、置いてけぼりにされた。
あー、あんぱん食べたい。
「勉強なら俺がアイに教える。今までもそうしてきた」
「じゃあ聞くけど、アイちゃんにちゃんと勉強教えた?」
「……いや、今までは聞かれたこと無かったし」
「ほら。ちゃんと教えないと。ひとりじゃ点数上がらないだろ」
「む、無理矢理教えるのも迷惑だろ」
「あ……あのさ!」
不毛。
とりあえず制止。
当事者が取り持つ、謎の和平交渉。
「えーっと、勉強は私ひとりでやるので大丈夫、です」
沈黙が生まれた。
まるで私が空気読めてないみたいになってるけど、ちょっと待て。そもそも勉強教えてほしいなんて、私はひとことも言ってないのだ。
「……あー、えーっとさ、アイちゃん?」
「はい」
「……アイ。今まで通りじゃ点数上がらないんだって」
「それで?」
「アイちゃん、今まではギリギリ大丈夫だったかもしんないけどさ、いつか本当に赤点とっちゃうよ?」
「たぶん大丈夫、だと思います」
「……」
呆気にとられる、を見事に具現化してしまう。引き攣ったような笑顔で固まった男子二人の様子を見てから、私は恐るおそる聞いてみた。
「あのー、お昼のパン買いに行ってもいいですか?」
「ちょ、ちょっと待ってアイちゃん」
真中くんが我に返った。立ち上がろうとした私の両肩を抑え、席に座らせる。
「話を変えよう。テスト勉強を一緒にするのは諦める。だけどさ」
蓮太の方に顔を向けて、不敵に話し始めた。
身構える蓮太を見上げる角度を緩くさせながら、真中くんのスイッチが入った音が聞こえた。
「やっぱり不公平だと思うんだ。僕だけアイちゃんと話せないのは。和田くん、テストが終わるまで、君もアイちゃんと話すのをやめてほしい」
「は?」
「それで、もし僕がテストで学年一位をとることができたら」
視線が舞い戻ってきた。
「アイちゃん、一位になったら僕と付き合ってほしい」
教室がざわめき、再びの蓮太の「は?」は掻き消された。
傍観者が目撃者になり、たまたま居合わせた幼馴染みは第一発見者になる。
「カエデお前突然何言って」
「本気だよ。まどろっこしいのはやめた。和田くんよりも僕がアイちゃんにとって有益な人間である事を証明できればいいんだ。これはひとつの検証だよ」
「……検証……」
いっぱい勉強して、テストで良い点数を取ること。それに結果を求める理由を作り、意味を持たせること。なるほど。検証する必要性が、できた。
「どうだい? アイちゃん。この条件で、約束してもらえないかな」
何か言いかけて言葉が出ない蓮太を右手で制しながら、真中くんが微笑んで私に問いかける。
固唾を飲んでいる教室に、私は三文字だけ言葉を流し込んで、学食へひとり向かった。
「いいよ」
◇
「アイ! お前何考えてるんだよ! 俺はあんな賭け認めないぞ!」
下校路の並木道を過ぎたところで、蓮太が私に話し掛けてきた。
『私と話さない協定』を見届けていた生徒がまわりにいないところを見計らって、私に問い詰めてくる。
「何って……認めてもらわなくても」
「カエデは今まで学年一位とったこともあるんだよ! なんであんなに簡単に条件飲んじゃうんんだよ……」
「まあ、別にいいかなって」
「よくねえよ! ……ああいうのはちゃんと考えて返事しないとダメだろ」
怒ったり落胆したり心配したり。外国の変面みたいに移り変わる蓮太の百面相は、家の前に着くまで続いた。
「簡単に決めた訳じゃないよ。蓮太と真中くんのおかげで、私にもやらなきゃいけないことがあるって、気付いたから」
「え?」
今朝の蓮太の言葉。
お昼の真中くんの言葉。
私の、確かめなければいけないこと。
いつまでも向き合わないわけにはいかない。
疑問が生じた。
私ならどうするべきか。決まってる。
「んー。それにさ、蓮太だっていつも学年上位じゃん」
「は?」
「だから、蓮太が真中くんより良い点数とればいいんじゃない?」
「……そんな簡単に行くかよ」
「自信、ないの?」
「そういうわけじゃないけど」
「話し掛けない協定があるんだし、私のこと気にしないで勉強すれば、蓮太なら真中くんにも勝てるんじゃない?」
「アイ、それって……」
四軒目と五軒目の間で、私は今日も蓮太に手を振る。
「私は、私で……」
二人で帰った下校路も、こうして一人になる。
そう。除数は「1」だ。何も変わらない。
でも、「1」が少しでもその値を狂わせたら、どうなる?
「私は私で、検証することが『二つ』できたから」