【1+0】
「あんぱん
食べたかったなあ」
☆ ☆ ☆
あー、あんぱん食べたい。
今日も私は、あんぱんを食べたい。
否。本当は、学食内の食堂でうどんやカレーを食べたい。財布の中身がいつも豊かなら。
でも現実、毎日は無理。色々な可能性と選択肢の中から、今日も私の思考は「あんぱん」をチョイスするのだ。
もうすぐ四限目が終わる。
気持ちはあんぱん一直線。
しかしここで、今日は僅かなアクシデント発生。
授業は退屈な日本史。あと1分8秒で昼休みなのに、梶原先生は教科書の本文をつらつらと読み始めた。
ちょっとちょっと。すごい中途半端。多分この章の半分も読まないうちに、チャイムは鳴ってしまう。これは想定外。
ああ、あと58秒。
「……えー、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されて以後の幕政で力を持ったのは、久世広周と安藤……えーと安藤、の、信由の二人で……」
梶原先生は、老眼レンズ付きの眼鏡を上下に動かしながら、もたもたと教科書の文をなぞる。そんなのどうでもいい。今の私には安藤よりも、あんぱん。
私の席は、教室の後ろの出入口に一番近い角席。授業終わり、礼をするのと同時に廊下に出れば、普通に歩いても学食販売パン人気3位の『伝説のあんぱん』は、いつも二個は残っている。
これは、入学してからこの一年数ヶ月で既に検証済み。私はその二個のうちの一個とパック牛乳を購入し、大抵それをお昼ご飯に充てている。
「先生。久世安藤政権の安藤は、信由ではなくて、信正です。息子の方」
潑剌としたスポーツマン特有の通る声。
おいおい。やめてよ。
私の席から物理的に一番遠くに座ってる左端前方のあいつが、いつものようにそう指摘する。嫌味を欠片も感じさせないトーンで言葉を挿され、梶原先生は少し黙ってから、ああ、そうだったかな、と教科書に顔を近付けて確認している。
あー、万事休す。
チャイムまであと7秒。
「久世広周と、えーと、安藤信正の2人が事実上の最高権力者になり……チャイム鳴ったけどこのページ最後まで読むぞお」
空腹男子の溜め息が四人分くらい漏れ出たのが聞こえた。私はこの時点で『伝説のあんぱん』を諦める。
ああ。あんぱん、食べたかったなあ。
ふと、ここでひとつ私の中で疑問が生じる。
梶原先生は、何があってもこの日本史オーバータイムを続けるのか。時間が終わってると知りつつ続けるこの授業を、「続ける」か「続けない」かの境界とは何か。
そうだな。たとえば「大きい音」とか。
ペンケースのひとつでも床にぶちまけようものなら、大きい音が鳴るだろう。
そしたら、梶原先生の授業を続けたい想いもじわじわ削がれてしまうのではないだろうか。
疑問が生まれたら、すぐ検証。
私は、机上の隅に置かれた紫色のペンケースに手を掛けた。
「よーし。ちょっと半端だけど今日はここまでー」
しまった。疑問の脳内確認に時間を使い過ぎた。2分41秒も考えてたみたい。
検証できなかった。
ああ。検証、したかったなあ。
クラスメイトから少し遅れてやわやわと立ち上がり、礼を交わす。私が頭を上げる前に、数名の男子が私の後ろを駆け抜け、学食販売の方に飛んでいった。「やべえぞ! 売り切れる!」そんな叫びも聞こえたが、残念ながらこの時間はもう間に合わない。比較的安価で人気のパン類は、5分と待たずにいつも完売だ。
これも検証済み。きっと彼らは、割高の惣菜パンか食堂の方に流れて行くことになるだろう。
私は席に座って教科書やノートを机にしまい、かわりに出した文庫本を開いた。
お昼、あんぱんが食べられないなら、まあそれでもいいかな。となると、余計なことはしない。んー昼寝かな。でも、昼休み早々に突っ伏して寝るのは悪目立ちだ。
一番気配を消せるのは、本を読むこと。教室内で絶妙な感情の熱と無関心さを醸す、最善の行為。結論にはまだ辿り着けない仮説だが、検証した結果で限りなく有力な推論、だと思う。
「アイ。昼は? 食わねえの?」
っと。こうなると話は別。
私に話し掛ける男子生徒、約一名。いつものあいつ。幼馴染み。統計的に客観視して見れば、たぶんイケメンの部類。教室に残っている女子が少なからずこっちを見てる。仮説どころか、これでは定義そのものが崩れる。
「……あんぱん、買えなかった」
「買いにも行ってないのに?」
教室の座席で言うと対角線の一番遠くから来て、どうしてそんなことを聞きに来るのか。座席の距離感と私への観察力が、見事に反比例している。
「授業、長引いたじゃん。だから買えないよ」
「分かんないよ。今日はまだ売ってるかも」
表情を変えずに答えたのに、蓮太は表情をいちばんの笑顔に変えて幼馴染みの腕を掴む。
「いい。あんぱんはきっと無い」
「いいから。あるかもしんない」
「蓮太ひとりで行ってきなよ。私はいい」
じっと蓮太の顔を見ながら、答えを重ねる。誰のせいであんぱんを諦めたのか、と、それは言わない。伝わったのか伝わらないか、蓮太は私の腕を離して顔を少し曇らせながら「わかった」と言って廊下へ出て行った。
ぽつねん。
でも、蓮太が居なくなった私の方向には、クラスの女子達の視線だけが残る。嫉妬とか敵意とか、そういう灰色っぽい感情を孕んだものをこめかみのあたりに浴びる。あーあ、悪目立ちが過ぎる。
クラスの王子が謎に構う地味な女を、女子は視線とコソコソ話で殴り付ける。んー。私はまだこの時間の最適解は見出せていない。私は何もしてないし、蓮太が悪い訳じゃない。家が隣同士で、たまたま長い付き合いの幼馴染みを気に掛けてくれてるだけ。たぶん。
もう。点Pが不安定で、検証ができない。
いじめられるわけでもないし、私は気にしてない「てい」で文庫本を読み続ける。
「……出たよ相葉アイ。スカしちゃって」
「あいつ、和田蓮太の何なの?」
「幼馴染みらしいけど、なんか怖いよね」
「蓮太くんと釣り合わなーい。ムカつくよな」
はいはい。
充分過ぎるくらいに耳に入る雑言は、明確に目的を持っている。矢印の方向は、巡り巡って私だ。
疑問。
毎日少しづつ勢いを増すこの妬みや嫉みの類が何の反応を見せない私への当て付けだとして、最も少ないエネルギーでそれを劇的に変えられる方法は?
空腹で少々心が逆立っている今日の私は、それを検証する事にする。普段の私なら、きっとそんなことしない。胃袋の偉大さを思い知る。
文庫本に視線を置きながら、黙考。分析。
そうね。ターゲットはあの3人グループかな。一番声が大きいけど、喧嘩するような勇気はないミーハーな小集団。小さいピンクの弁当箱を中心に、私への悪口をおかずにしているだけの子達。
よし。検証。
私は顔の角度は変えず、視線を文庫本から3人グループに移しそのまま睨みつける。少し間を置くと、彼女達の動きの硬化が確認できた。
面白い。
私はそこから、左の口角だけを目一杯引き上げる。唇の先からギリギリ歯が見える程度に開いて、フッと少しだけ息を吐いた。
「……きも……」
3人グループは、視線を中央のピンクの弁当箱に移し、俯いて押し黙る。ヤバいってアレ、とか小さく話す声が聞こえるのを確認して、私は文庫本に視線を戻した。
検証結果。
あのタイプは、サイコを気取れば駆除できる。
うーん。
少しだけ、らしくない事をしちゃったな。
悪目立ちした後は、絶対に何かあったりする。嫌だなあ。極力無駄なく生きたいだけなのに。
蘇った教室の静寂を打ち破ったのは、駆けて教室に戻ってきた蓮太だった。
「アイ、サッカー部の後輩がたまたま買ってた『伝説のあんぱん』分けてもらったぞ。一緒に食べよう!」
どうでもいいけど、「一緒に」が余計だ。
ターゲット・オン。
色んな照準が、また私達に集まる音が聞こえた気がした。