第1章 8.穏やかなる日々
ライオスから南に30キロほど離れた、国内の街フォッセル。
工業が発展したライオスに比べれば小規模な街ではあるが、鉄道駅があるおかげでそれなりに繁栄している。
さて、エルコリッタの家は、このフォッセル中心地から数キロほど離れた森の中にあった。
そんな人里離れた場所で、これまで女一人で生活していた彼女の正体とは……
「うわぁ…、本がいっぱい…」
「あら?、チロちゃん本に興味があるの?」
「はい、おくさまが文字を……あ、前に住んでいたとこで文字を教えてもらって…。だから本をいっぱい読みたいってずっと思ってて…」
「そうなの、それはとっても素晴らしいことね。実はね、私小説を書いてるの、自慢じゃないけど。これでも結構その界隈じゃ有名人なのよ。自慢じゃないけどね」
「へえ〜。わたし、エルコさんの本読んでみたいです」
「えっ…? あ、ああ…、それはちょっと…無理と言うか……。とってぇも難しい大人向けの作品だから、お子様は読めないのよ? チロちゃんも大きくなったら読もうね?」
エルコリッタが執筆しているという、“大人向け” の小説。
それはなんと男性同士の恋愛物…いわゆるBLである。
相当ニッチなジャンルであるためコアなファンが付き、価格を高めに設定しても飛ぶように売れる。
ただその一方で、万人向けの正統派の冒険作品も書いてはいるが、そっちの方はなかなか芽が出ないようだ。
ちなみに森の中では電信電話などの通信インフラは疎か、郵便物すら届かない。
そのため、出版社と連絡を取り合う場合はその都度街まで出る必要がある。
チロがエルコリッタの元にやって来て早二週間。
傷も大方癒えたチロは、自ら進んで家事の手伝いをしていた。
「へぇ〜!、チロちゃんお料理の才能あるのねぇっ。本読んだだけで、ここまで出来るなんて…」
料理本を読みながらシチューを作ってみせるチロ。
「は、はい…。おくさま…前いたところでちょっとだけ教えてもらったことがあって…。でも、一人で作ったことはなかったですけど…」
「いやいや、ただ教えてもらっただけでここまで作れるなんて大したもんよっ。私料理はからっきしダメだから…。じゃあ、これからは毎日美味しい物食べれるのね!」
まるで子供のように小躍りするエルコリッタ。
確かにこれまで彼女が作るものと言ったら、肉や魚を塩と香辛料で焼いただけのものとか、適当にトマトぶっ込んで煮ただけのものとか…。
ぶっちゃけ料理の風上にも置けない品ばかりだった。
無論、ガルヴィン邸で供されていた粗末な食事に比べたら、チロにとっては不満を抱くほどのものではないのだが…。
ただし、エルコリッタが作るホットミルク。
これだけは何故か妙に美味しかった。
(ううう…、なんだかすごく期待されてる…。でもうれしいなぁ…。わたしエルコさんに恩を返せないって思ってたけど、こんなことで役に立てるなら…。よおし、もっとお料理のこと勉強して、エルコさんによろこんでもらえるように頑張ろう!)
ガルヴィン邸での労働では決して得られることがなかった、人に喜んでもらうことへの愉しみを知ったチロであった。
またある日のこと…。
「よしっと…、じゃあチロちゃん、行って来るわね。お留守番よろしくね。って言っても、誰も来やしないんだけどね…」
リヤカーのハンドルを両手で握るエルコリッタ。
実はなんと、これからこのリヤカーを引いて数キロ離れた街まで行くのだ。
これは彼女の恒例行事、月の一度の大買い出しである。
とりあえず今荷台に乗っているのは、家の脇に設置されている蓄電器。
エルコリッタは蓄電器を2台所有しており、片方をお金を払って街で充電させてもらい、それを月一で交換しているのだ。
電気を使うのは照明の電球だけなので、一台の蓄電器で一ヶ月間持たせることが出来る。
蓄電器を交換した後は銀行でお金を下ろし、リアカーいっぱいに購入した食料品や日用品を乗せて、夕暮れ前には帰宅する。
それが彼女のお決まりルートである。
「あのぅ…エルコさん…、ほんとに大丈夫なんですか…? わたしいっしょに行きますよ?」
「ダメよぅ、もしもチロちゃんが獣人だってバレちゃったら大変なことになるでしょ? それに逃げたあなたを追って来てる奴隷商の連中もいるかもしれないんだし…。大丈夫!、いつもこうやって街まで行ってるんだから。ちゃんと美味しいお菓子も買って来るから、本でも読んでいい子で待っててね?」
エルコリッタはチロの頭を撫でながらそう言葉を残すと、リヤカーを引いて街へと出発して行った。
中肉中背の体付きにもかかわらず、荒い山道を頑強な足取りで進む彼女。
その姿を後ろから眺めて、チロはふと思う。
(本当にふしぎな人…。きれいでやさしくておもしろくて、料理以外はなんでもできて、さらにあんなにも力持ちで………あれ?、わたしエルコさんに売られそうになって逃げてきたこと話したっけ…?)
………………………
それから、さらに時は過ぎて2ヶ月後…。
チロはもうエルコリッタの妹も同然に、彼女との共同生活を楽しんでいた。
ちなみにエルコリッタ、先の買い出しとは別で、執筆した原稿をライオスの出版社に郵送するために街へ出ることがある。
そして今日がその日。
「エルコさんまだかなぁ〜」
エルコリッタに買ってもらったフリルが付いた愛らしいエプロン姿で、彼女の帰りを待ち侘びるチロ。
食卓にはポークシチューに二人で釣った鱒のムニエル、家庭菜園で採れた野菜とお手製ドレッシングのサラダ。
あれからさらに料理のスキルを上達させたチロが、腕によりをかけて作った品々だ。
エルコリッタが顔をぱあっとさせて喜ぶ瞬間が見たくて…、チロの尻尾もウキウキと踊る。
するとついに…
チリーンッ…
(帰って来たっ!)
玄関のあまり意味がない呼び鈴が鳴って、チロは居ても立っても居られず飛び出す。
ところが…
「おかえりなさーぃ……ええっ…また〜?」
「うえ〜いー、帰って来たぜいっ〜ひっく…」
なんとエルコリッタ…、泥酔状態で帰って来た。
当然のことではあるが、共同生活も長くなれば相方の悪い部分を必然と知ることになる。
そしてどんな聖人であろうとも、欠点の一つや二つはあるものだ。
エルコリッタの場合、その一つが酒癖の悪さだった。
実は以前、チロの前で醜態を披露したことがあった。
それ以降、家での飲酒は極力控えていた彼女だが、やはり街へ出ると誘惑が多いのか…。
今日は出版社からの振り込み日ということもあって、少々ハメを外し過ぎたようだ。
それでも、この状態で迷わずにちゃんと帰宅出来るのは、流石と言ったところか。
「うえぇ…飲み過ぎたぁ…。チロちゃーん、お水ちょうだーい…」
「はいはい…」
呆れ顔を浮かべながらコップを渡すチロ。
あれだけ楽しそうだった彼女の尻尾もすっかり萎えてしまった。
とはいえ、こんなエルコリッタに心底幻滅したかといえば、必ずしもそうではない。
何故ならば、母リオラにしてもセリーナにしても、今までチロの側にいた大人たちは皆手本となるようなしっかり者ばかりだった。
今、こうして目の前にいる悪い例の大人を見て、彼女はどことなく新鮮味を覚えていたのだ。
(ふふふふ…、なんかこんなダメなエルコさんもかわいいかも……)
エルコリッタを介抱しながら、チロには子供ながらに微かな母性が芽生えるが……
「ごめんねぇ…チロちゃん……。こんないっぱい作ってくれたのに、食べられそうにな……うっ…」
「ううん、いいよ…。ほんとは残念だけど…、また明日の朝あたためて食べよ?」
「ううう…チロちゃんマジ天使っ……。だーいすき〜っ!」
「ちょ、ちょっとぉ…、耳はやめてよぉ〜……」
「よいではないかぁ、よいではないかぁ……うへへへ…ふわふわすべすべ……うっ…やばい……ヴォエエぇっ……」
「……ッツ!?」
ご満悦にチロの猫耳を弄るエルコリッタは、不意の嘔気に耐え切れずその場で盛大に戻した。
「もうっ〜!、やっぱりなしっ〜!」
……………………
そんなこんなで翌朝の食卓にて。
エルコリッタはげっそりと消沈した顔で、冷め切った昨日の夕食を一人侘しく食べたのだった。