第1章 4.怒りと恐怖
とうに日付を回った、真夜中のガルヴィン邸。
曇天で月明かりが遮られ、ガス灯の灯りが周囲を頼りなく照らす中、ここ本館の一室だけは電灯の灯りが燦々と輝いていた。
その部屋にいたのはガルヴィン当人、そして草臥れた風貌で陰険な笑みを見せる男… “影” だった。
「此度はよくぞやってくれた、“影” よ。流石の仕事ぶりだな」
「へへへへ、どうも。ただオイラといえども結構苦労したんですぜ?、傷一つ残さずに仕上げるっていうのはね。それにしてもあの奥方様、大した御仁でしたぜ? オイラという “死神” を前にしても、泣き喚いたり命乞いをすることもなく、最後まで毅然としてましたからねぇ。あれがもしも男に産まれてりゃあ、大層な大物になってたでしょうに。もったいねぇことで」
「ふん、あの女の話はやめんか、忌々しい…。ところで、事後処理の方も抜かりないだろうな?」
「旦那ぁ、オイラを誰だと思ってるんですか。オイラ医者はもちろん、警察や役所のお偉いさんにも伝手を持ってるんですぜ? 死因偽装なんざ朝飯前でさぁ」
「そうかそうか。セリーナの奴め。調子に乗ってこの俺を甘く見るからだ。あの世で自分の行いを精々後悔するんだな、ふははははっ」
セリーナの葬儀から数日間程度は喪に服して悲しみを装っていたが、ここ最近は上機嫌な高笑いが止まらないガルヴィン。
彼の机の上には、タバコの吸い殻で満杯の灰皿が置かれていた。
実はセリーナが嫌煙家であったため、これまで人前で喫煙することを自粛させられていたのだ。
今や一日過ごす度に寿命を一日減らす勢いで、ガルヴィンは重度のヘビースモーカーとなっている。
というわけで、今この室内も煙とヤニの臭いで充満していた。
「ところで旦那ぁ、ちょいっと窓開けませんかい? 流石にこの部屋空気が悪いですぜ?」
「ふん、男のくせに女々しい奴だな」
“影” に室内の換気を促されて、ガルヴィンは渋々部屋のカーテンと窓を開ける。
ところが…
「なっ、何だっ、お前はっ…!?」
窓を開けた先に立っていたのは、肌着姿の獣人の少女…チロだった!
「なんでっ…、どうしておくさまをっ……」
思いがけず、セリーナの死の真相を知ってしまった彼女。
憤激でギュッと握り締められたその小さな掌は、小刻みに震えていた。
そして…
「うあああああっ!」
「……ッ!?」
ついに激情を抑え切れなくなったチロは、窓枠越しのガルヴィン目掛けて飛び掛かる。
距離にして僅か数メートル…、ましてや獣人として敏捷性に長けたチロだ。
この距離から襲われれば、凡人のガルヴィンなど避けるは疎か、防御の構えを取ることすらも儘ならないだろう。
しかし、憎き仇に手が届く…その刹那…!
「……!?」
突然、割って入るようにしてチロの視界に飛び込んで来たのは、もう一人の怨敵… “影” だった。
“影” は窓枠を飛び越えるチロの腕と肩を掴むと、そのまま彼女を外へと投げ飛ばす。
一方のチロ、胴体ごと地面に叩き付けられる寸前で、宙でその柔軟な身体を翻し着地する。
決してこれまで訓練経験があるわけではない。
彼女の獣人としての潜在能力が、自身の危機の瞬間に思いがけず発揮されたのだ。
最愛の人を殺されたチロの怒りは、これしきのことで衰えるはずがない。
すぐさま体勢を整え直し、戦う姿勢を示そうとするが…
「……ッ」
片膝をついてチロが前を向いたすでにその時、彼女の視界は “影” の脚で遮られていた。
だが、チロにとって衝撃的だったのは、自身を凌駕する “影” の身の熟しではなかった。
(な、なに……この目……)
チロを見下す “影” の顔は、普段ガルヴィンの前で見せる飄々とした面相とはまるで違っていた。
これまで幾多の人間を殺めて来た背景をまざまざと物語るような、そんな人として温度が微塵も感じ取れない冷酷な眼光。
それはまだ10歳そこらの少女の胸に、根源的恐怖として刻まれる。
「あ……あああ……」
無尽蔵に湧き出ていたはずの怒りが、見る見るうちに枯れ始めていく。
いつしかチロは、脚すらも竦んでその場から動けなくなってしまった。
するとその時…!
「このクソガキがぁっ…!、死ねっ!」
パンッ!
「うぐっ…!」
激昂したガルヴィンは懐から拳銃をさっと抜くと、躊躇なくチロを目掛けて発砲した。
興奮状態のあまりに手元がぶれたのか、狙いは外れて弾丸はチロの太腿を掠る。
「チッ、仕留め損ねたかっ…」
ガルヴィンはすぐさま銃のリボルバーを回すと、今度こそチロの急所に照準を定める。
(ううう…、お母さん…おくさま……)
激痛の中で、チロの脳裏には母リオラやセリーナと過ごした優しい記憶が、走馬灯のように過っていた。
(いや……、こんなとこで…死にたくない……)
最早どうにもならない、味方も誰もいない一人ぼっちの状況で、心の声とは裏腹に死を覚悟したチロ。
ところが…
「お待ちくだせぇ、旦那っ。このガキを殺っちゃあいけませんぜっ」
なんとガルヴィンの蛮行を制止しようとしたのは、“共犯者” であるはずの “影” だった。
「どういうつもりだっ、貴様っ? まさかお前ともあろう者が、情に絆されたわけではないだろうなっ?」
「馬鹿なこと言っちゃあいけませんぜ、旦那ぁ。ただオイラが言いたいのは、今このガキを殺っちまったら、後々面倒なことになるってことでさぁ」
「どういう意味だっ? こいつはさっきの話を聞いているんだぞっ。このまま生かしておくわけにはいかんだろうがっ」
「まあまあ落ち着いてくだせぇ、旦那。こんな獣人のガキの与太話なんざ真に受ける馬鹿なんていやぁしませんって。このガキは前の奥方様からえらい可愛がられていたが、奥方様が亡くなった途端冷遇されるようになった。それを逆恨みして主人を襲った…、こんな感じの筋書きがありゃあ十分でさぁ。それよりも、獣人奴隷は役所の獣人戸籍によって管理されていて、その殺生も法によって厳しく禁じられている…。それは旦那もご存知でしょ? もし今このガキを殺っちまったら、その後始末は旦那が思ってる以上に厄介ですぜ? それに今の騒ぎを聞き付けて、もう間も無く誰かしら駆け付けて来るでしょうしね」
獣人戸籍…、獣人奴隷の計画的な使役運用のために、彼らの個人情報の一切が登録管理された台帳である。
“影” に諌められて、ガルヴィンはさり気なく銃口が熱せられたままの拳銃をテーブルに置いた。
「ならばどうするというのだ? まさかこのガキをこのままこの家に置いておくつもりか?」
冷静を取り戻したガルヴィンに問われた “影” 。
彼は由有り気に、ニヤリと口角を歪める。
「なあに、簡単な話ですよ。“殺す” がダメなら売っちまえばいいんでさぁ。ちゃんとした手続きを踏めば、獣人奴隷の売買は可能ですからねぇ。実はね、オイラのちょっとした知り合いの富豪に、ちょっくら特殊な嗜好をお持ちな御仁がおりましてね。その爺さんは幼女好き…、しかも人の子ではなく獣人の子がいいらしいみたいで…。幸いこのガキは見てくれも悪くねぇ。きっと高値で買ってくれますぜ? 法を犯さずこのガキを始末出来て、しかも小金も手に入る…。我ながら、一石二鳥の妙案だと思うんですがねぇ」
「ふん、まるでお前の掌で踊らされているようで気分が悪いわ。だがまあいい、俺もいい加減興が醒めた。お前の好きにしろ」
……………………
それからすぐに、騒ぎを聞き付けた使用人たちがぞろぞろと駆け付けて来た。
負傷したチロはそのまま彼らに連れて行かれる。
だが、すでにその時には “影” は忽然と姿を消していた。




