第1章 2. “影” と呼ばれし男
チロが街中のカフェで大暴れをしたその数日後…。
遅ればせながら、その報告を聞いた主人ガルヴィンは憤慨で打ち震えていた。
「おのれぇ…あの女……。公衆の面前で何てことをしてくれたのだ…。しかも俺のお得意さんにまで恥をかかせやがって……」
“実行犯” はチロだが、ガルヴィンの矛先は完全に妻セリーナに向いていた。
「もう我慢の限界だっ、今度という今度は絶対に許さんぞっ。そもそも子も産めん、口煩いだけの女などいらんのだっ。今度こそこの家から追い出してやるっ!」
「しかし旦那様…、奥様と離縁されてしまっては、奥様方のご実家との関係が……」
怒りを爆発させたガルヴィンに対し、知らせを持って来た執事兼秘書の男が意見をする。
「うぐぐぐ…、ならばどうすれば良いっ? お前、何か良い考えはないのか?」
「『良い考え』と申されましても…。ご実家の方とはすでに太い信頼関係は出来ておりますし、奥様やご実家の面子を潰さない方法を模索するしか……」
「そんなことはわかっているっ。俺が聞きたいのはもっと具体的な考えだっ。もういい役立たずがっ、出て行けっ」
執事の男を自室からぞんざいに追い出したガルヴィン。
なおも鼻息を荒くさせながら腸が煮えくり返る心地の彼だが、その時……
「お困りのようですねぇ、旦那ぁ」
「……っ?」
ガルヴィン以外誰もいないはずの室内からふと発生した、腹に一物ありそうな男の声。
その方向に目を向けると、ガルヴィンが視線を逸らした僅か一瞬の隙に、そこには一人の男が立っていた。
樹齢を重ねた杉の木のように、長身でピンと引き締まった体付き。
年齢は恐らく30代半ばで、渋みのある整った顔付きではあるが、流浪人のようなやさぐれた風貌をしている。
あたかも忍者の如く、暗々裏に登場したこの男。
ところが意外にも、ガルヴィンにあまり驚いた様子はなかった。
「なんだ “影” か…。相も変わらずの神出鬼没ぶりだな」
「へへへへ…、お褒めに預かり光栄でさぁ」
「ふん、褒めてなどおらんわ。毎回毎回鼻につく喋り方しやがって…」
ガルヴィンが『影』と呼んだこの男…、名はそのまま “影” である。
妻セリーナの実家とのコネによって、一代で財を築き上げた成金ガルヴィン。
だが、コネを振り翳すだけで全ての望みが叶うほど世の中甘くはない。
己の野望を実現させていく過程で、表沙汰には出来ない所謂 “汚れ仕事” を一身に引き受けていたのが、この “影” だった。
ガルヴィンの成功において表の立役者が妻の実家とするならば、裏のそれは彼の存在と言っても過言ではない。
そしてまさに “影” に相応しく、その本当の名は疎か一切の素性が黒く塗り潰されている。
ところでこの “影” 、普段はガルヴィンが呼び付けた時にだけ馳せ参じているのだが……
「で、いきなり現れて一体何の用だ? 今はお前にやる仕事などないぞ。先月分の報酬もしっかりと色を付けて渡してやっただろう」
「まあまあ、そうつれないこと言わないで下さいよぉ、旦那。大層お困りだろうと思って、こうやって参上したんですぜ? なんでもあの奥方様が獣人のガキを嗾けて、街中で一悶着起こしたっていうじゃあないですか」
「どこで聞き付けたか知らんが、相変わらず耳が早い奴だな…」
「へへへへ、それがオイラの取り柄でもありますからね。それでね旦那、実はオイラに一つ妙案があるんでさぁ。ちょっくらお耳を拝借しても?」
「『妙案』だと? お前がこの俺に意見するというのか…? まあいい、暇ついでに聞いてやる。言ってみろ」
「へへへへ、どうも。実はね……」
ただ与えられた仕事を忠実に実行するだけの男の提案に、ガルヴィンは訝しげに顔を歪める。
とはいえ、その申し出を一蹴する理由も特になく、とりあえずは聞くだけ聞いてみることにした。
しかし、 “影” の口から出たその内容は、ガルヴィンの怒りさえも萎えるほどに衝撃的なものだった。
「貴様っ…!、正気でそれを言っているのかっ…?」
思わず声を荒げるガルヴィンだが、“影” は飄々とした素振りで去なす。
「旦那ぁ、そんなことオイラに聞かれても困りますぜ? それが与太かそれとも真か…、それは旦那のお心一つでさぁ」
気付けば、 “影” に会話の主導権を握られていたガルヴィン。
“影” は暗に彼に決行を促していた。
『所詮道具に過ぎない』と高を括っていた男に翻弄されて、自尊心が高いガルヴィンはそれはもう面白くないだろう。
だがその一方で、“影” が出した『妙案』に得も言われぬ高揚感を覚えたのも事実だった。
それほどまでに、最早妻セリーナには憎悪しかなかったのだ。
「……本当に大丈夫なんだろうな…? 失敗は絶対に許されんぞ?」
「何を言ってるんですか、旦那ぁ。今まで、オイラが一度でもヘマしたことなんてありましたかい?」
「ふふふふ…、そうだな。ならば此度も期待しているぞ? 報酬はたっぷり弾んでやる」
「へへへへ…、大船に乗った気でいて下さいよ、旦那ぁ」
………………………
それはセリーナを巡って男二人の謀議が行われた、僅か三日後のことだった。
いつものように給仕服姿で、大きな洗濯カゴを抱えて仕事に励むチロ。
ところが…
「あれ…なんだろう…?」
チロは敏感な耳先をピクリと動かして、比較的遠方の喧騒に気付く。
カゴをその場に置いてその場に駆け付けると、そこには屋敷で働く獣人たちが集まっていた。
さらによく見ると、号泣している者、顔面を蒼白にさせている者などなど…。
それが悪い知らせによる結果であることは、幼いチロでも容易に察することが出来た。
「あ、あのぅ…、みんなどうしたんですか…?」
仲の良い獣人女性に恐る恐る声を掛けたチロ。
その女性も例に漏れずほろほろと涙が溢れている。
「うううっ……奥様が…奥様が…お亡くなりに…なられたの……」
「え……」
まだ女性の言葉だけでは、チロはそれがセリーナのことであると理解出来なかった。
自分が知らないきっとどこかの別の “おくさま” に違いないと、心の底から思っていた。
だが…
「あの奥様は俺たちみたいな獣にもあんなに優しくして下さったのに…。なんであんなに素晴らしいお方が……ううう……」
「これから俺たちはどうしたらいいんだろうか……」
「ううう…セリーナ様……」
他の獣人たちの悲しみの声が、容赦無くチロに無情な現実を突き付けていく。
(そ、そんな……なんで…どうして……)
チロは瞬く間に顔色を失い、戦慄したまま膝から崩れ落ちる。
先の女性は膝を下ろしてチロに目線を合わせると、彼女の頭を撫でながらこう言った。
「奥様はね…実はすごく重い病気だったらしいの…。でも私たちに心配させないように、今までずっと黙ってたんだって……」
(そんなっ…、だって今までわたしにはそんなこと一言も……。で、でも…、こないだのお出かけした時におくさまがわたしに言ってたこと…。もしも最後のつもりであんなことを言ってたのなら……。わたし…ちゃんと『お母さん』って言ってあげればよかった…)
セリーナとの幸せな時間がこれからもずっと続いていく…。
彼女の温もりに包まれてそう信じて疑わなかった一週間前の自分を、チロは酷く恨んだ。
「うううっ……うああああんっ……」
そのどうしようもない悔しさをあの時の自身にぶつけるようにして、彼女はただ泣き続けるのだった。