第1章 11.執着と諦め
それから、エルコリッタの胸の中で泣けるだけ泣いたチロ。
エルコリッタお手製のホットミルクを飲みながら、ようやく平静を取り戻した。
「あの…エルコさんごめんなさい…。せっかくケーキ買ってきてくれたのに……」
「いいのよそんなこと。それよりも落ち着いた? ねぇ、一体何があったっていうの?」
「うん…これ……」
チロはエルコリッタに、男が置いていった書類をそっと差し出す。
「これは……えっ、まさかここに誰か来たのっ…?」
「うん…、『役所から来た』っていう男の人が…」
「ええっ?、だ、大丈夫っ?、チロちゃんっ?、何も変なことされなかったっ?」
「う、うん…。わたしが獣人だってバレちゃったけど、『子供だから見なかったことにしてやる』って……」
「そ、そう…、ならよかったけど……でも……」
(確かにこの書類、役所が発行したもので間違いないっぽいけど……、でもおかしい…。役所の人間は疎か、ここに誰か尋ねて来ることなんて今まで一度たりともなかった…。まさかっ…、その男チロちゃんと接触する目的で……。どっちにせよ、もしそれが本当に役所の人間だったとしても、それはそれで警察にこの子の情報が流れる恐れもある…。危険が及ぶ前に、早いとこ動いた方が良さそうね…)
推察を重ねた末に、エルコリッタの判断は極めて早かった。
「チロちゃん、悪いけどすぐに支度して? 明日の早朝にはここを出るわよ?」
「えっ…?、な、なんで…?」
「決まってるでしょ?、ここから引っ越すのよ。だって役所にすらここの場所は秘密にしてあるのよ? それなのに役所の人間がやって来たっていうことは、警察があなたを捕まえにやって来る可能性もあるわ。だから追手が来ないうちにさっさとここを出るの」
「で、でも…どこに……」
「それはまだわからない…。でも大丈夫よ?、前にも言ったでしょ、『これでもちゃんと稼いでる』って。数ヶ月程度は転々としながら暮らしていけるぐらいの蓄えはあるし、私の仕事自体場所を選ばないし、何とでもなるわよ。それで、また二人で平和に暮らせる場所を見つけましょ?」
エルコリッタの意志は極めて固かった。
もちろん、そこまでして自分を守ろうとしてくれている彼女の姿に、チロは嬉しさと感謝で胸が詰まる。
だがその一方で…
(エルコさん…もしかしてわたしのために自分の人生を犠牲にしようとしてるんじゃ…。そんなのだめだよ…。だってエルコさんの人生はエルコさんのものだし、それに…わたしの人生はわたしの……。そうだ…、本当はずっと心の中で思ってた……このままじゃいけないって…。言うなら…今しかないっ…)
安穏に感けて目を背け続けて来た本心に、今こそ正直に向き合うべき…。
チロは意を決して言った。
「ごめんなさい…エルコさん…。わたしがここを出ていきます…。今までありがとう…」
「えっ…」
その瞬間、エルコリッタはチロの言葉の真意を理解出来なかった。
「ど、どういうことかなぁ…、チロちゃん…。もしかして私に気を遣ってる…? 今さらそんなこと気にしないでよぉ〜…、ずっと一緒に暮らした仲じゃない。あなたがいてくれたおかげで、どれだけ助かったことか…。だからこれからも一緒に……」
「ちがうのっ…」
「……ッ、チロちゃん……」
語気を強めてエルコリッタの言葉を遮ったチロ。
初めて見る彼女の頑な様に、エルコリッタは思わず気後れした。
「わたし…、本当はずっと思ってたの…。自分が知らない外の世界が見たい…、もっと色んなことを知りたいって…。ずっとここでくらしてエルコさんに甘えっぱなしじゃいけないって…、そう思ってた…」
「なぁんだ、そんなことかぁ…。だったら私があなたを色んなとこに連れってってあげるわよ。いいじゃない、これを機に二人で世界中を回るのも悪くないわね。それに、あなたはまだ子供なんだから、むしろ大人にはたくさん甘えるべきなのよ? だから一人で出てくとか、馬鹿なことを考えるのはやめなさい」
強情なのはエルコリッタも同じだった。
「そ、そういうことじゃなくて……」
「じゃあどういうことなのっ?」
一転、チロを強く問い詰めるエルコリッタ。
彼女の声からは、何が何でもチロを手放すわけにはいかないという必死さが、まざまざと伝わって来る。
どうやったらエルコリッタを納得させられるか…。
チロはそれを言うに相応しい存在になるまで決して口に出すまいと思っていた “夢” を、早くも彼女の前で打ち明けざるを得なかった。
「わたし…、この世界を変えたいの」
「は?、どういうこと?」
「おくさま…前にいた家でお母さん代わりになってくれた人がいて…、その人に言われたの。わたしに『獣人と人間が仲良く暮らせる…そのきっかけになって欲しい』って…。そのために何ができるかなんて今のわたしにはわかんないけど…、死んじゃったおくさまが天国で笑ってくれるような生き方をしたい…。それにさっき来た男の人に、『獣人と人間は一緒に暮らせない』って言われた…。でもわたし、そんな考えに負けたくないのっ…」
「じゃあ…、チロちゃんは獣人と人間の架け橋になるような…そんな存在になりたいってこと?」
「うん」
チロはエルコリッタを真っ直ぐ見据えて強く頷く。
その気丈な様に、エルコリッタの脳裏にはチロを保護した時の、目すら合わせない怯弱だった彼女の姿が対比されて浮かんだ。
(そっか…、私よりも前に、この子に影響を与えた…この子にとって掛け替えのない大人がいたのね…。少し残念だけど…、でもきっと私なんかよりも全然立派でしっかりした人だったんだろうなぁ。それにひきかえ私は…、この子のためとか言っときながら、本当は我が身可愛さから…。この子を失いたくない…、最後まで自分の元に置いときたい……ただそれだけ…。そんなの、奴隷としてこの子の自由を奪ってた連中と同じじゃない…。それに、私がいなくなって一人残されてしまうこの子のことすら考えてなかった。そう思うと、つくづく残酷な女ね…私って……)
いつしか、エルコリッタは切なげに笑みを浮かべていた。
「そう…、そこまで大きな夢があるのなら仕方がないわね。子供の夢を応援してあげるのも大人の役目だものね。わかったわ、あなたの好きなようにしなさい」
「エルコさん…」
「でも、いくらなんでも今すぐ一人で行っちゃうのはナシよ? 今外に飛び出たところで、連中に捕まるか野垂れ死しちゃうかどっちかなんだから。今すぐ何か起こるってことはないだろうし、しっかり私と一緒に準備を整えること。あと街までは私も付いて行くからね。わかった?」
結局どこまでも過保護なエルコリッタ。
「ありがとう、エルコさん」
そんな相も変わらずの彼女に、心が救われるような安らぎを覚えたチロだった。
そうこうして、今後の準備予定について話し合いながらも、いつものように団欒の一時を過ごす二人。
ところがその時…
「ねぇ、チロちゃん。これは話したくもないし話す必要もないことなんだけど…。でもあなたが勇気出して本心を打ち明けてくれたから、私も話さないのはフェアじゃないと思って…。私の秘密聞いてくれる?」
「え、『秘密』って…?」
突如、エルコリッタは和やかな場の空気を切り替えるようして話を切り出す。
彼女の口から出た “秘密” …、それは一聞しただけでは到底理解が及ばない言葉だった。
「私…実は本当は獣人だったの」
「え……?」




