#8 覚醒のとき
「危なくなったら、逃げて」
震える声を絞り、後ろにかばっていたネリスに言う。
せいぜいかっこつけたセリフを吐いて、自らを奮い立たせる算段である。
震えてまともに力が入らない足を叱咤し、くだけそうになる腰を強いて前に進め、決してかっこいいとは言えない及び腰の姿勢で、それでもどうにか、前に進む。
かっこ悪くていい。もし結果を残せなくてもいい。
ぼくが憧れる生き方は、ここで諦めることではない。
主力の四人の傍を通り抜けると、それぞれに驚きの表情でこちらを見上げていた。
そして、誰よりも前に立って、ドラゴンを見上げる。
思い出すのは前の世界で見ていた、猛獣使いの仕草だ。
まだ酪農が順調だった頃、父に連れられていったサーカスで初めて見た。
鞭を片手にライオンや虎などを相手取り、生身のまま向き合って一歩も引かない雄姿。
フィジカルでは敵うはずのない相手に、威厳と胆力だけで相対し、圧倒していた。
覚悟さえ決めれば、できないはずはない。そう言い聞かせなければ、一瞬で倒される。
恐れるな。隙を見せてはいけない。
冷や汗にまみれた手で鞭を取り、地面に打ち付ける。
乾いた大音響が弾け、ドラゴンの巨躯が、わずかに動いた。
殺傷力だけで考えれば、有効な武器は他にいくらでもある。だが、叩かれて痛いという感覚を与えるだけならば、鞭ほど優秀なものはなく、加えて感覚の鋭い野生動物の耳には強烈な刺激を与える音を発する。故に、テイマーには最も適した武器が、手元にはあった。
胸を張って毅然として立ち、真っ赤に燃える瞳を真っ直ぐに見返す。
これから、決して逸らしてはならない。
どう見ても相手の方が大きくとも、自分の方が大きいとまず自分自身に錯覚させる。
こちらから手出ししてはならない。ボクシングで言えばぼくがチャンピオンで、ドラゴンが挑戦者だ。
物理的にはまったく逆でも、自然界の立場ではそうであると、自分に、相手に、思い込ませる。
低いうなり声を上げながら、ドラゴンが鋭い鉤爪を備えた前肢を振り上げる。
喉から悲鳴が飛び出そうとするのを努めて飲み込み、すかさず鞭を振るった。
再び大きな音が響き、ドラゴンは慌てて脚を引く。
大丈夫だ。ハッタリは通じている。しかし、決して油断してはならない。隙を見せた瞬間に、今度こそあの爪に切り裂かれる。
「下がれ」
言いながら一歩、二歩と、進み出る。
矮小なはずなのに少しも自分を恐れない人間に、ドラゴンは最大限の警戒を払う。野生の本能が、無意識に自分より上にその人間を格付けしようとしている。
「下がれ!」
もう一歩前に出ると、それに合わせて、ドラゴンが後ろに引いた。
後方の仲間達から、驚きの声が上がる。
あるいはそれで、ドラゴンの緊張の糸が切れたか。
やぶれかぶれにも聞こえる咆吼を轟かせながら顎を開き、長い首を引いて、ブレスの予備動作に入った。
「止め!!」
左手を突き出して開き、精一杯の虚勢で龍の瞳をにらみ付け、最大限の力で鞭をしならせる。
巨体に見合わず、小動物のようにびくりと恐怖の反応を示し、甲高い悲鳴のような声を龍は上げる。
ブレスの予備動作は軽く火の玉をはじけさせただけで、霧消した。
恐怖と焦燥に駆られたその仕草に、もはや王者の威厳はなかった。
左手を前に出したまま、さらに前に出る。
それに合わせて、いや、それ以上の速さで、ドラゴンは後ずさる。
そのペースをわざと乱すタイミングで、立ち止まる。
左手を横に振り抜く。
「去れ」
しばらく低くうなっていたのは負け惜しみか、精一杯の虚勢か。
やがて遠吠えのように長い咆吼を轟かせると、ドラゴンは長大な翼を閃かせる。
嵐のような暴風を巻き起こしながら羽ばたき、巨体を宙に浮かせた。
もう一度、啼く。
すり切れるようなものかなしさを秘めた咆吼を残しながらドラゴンは背を向け、やがて飛び去っていった。
その姿がはげ山の向こうに消え、羽ばたきが聞こえなくなったところで、ぼくは両膝を地面に刺すように、倒れ込んだ。
「……すごい」
「あれが、ファッシネイション……」
称賛よりも、畏怖に塗りつぶされた声が、後ろから聞こえる。
ずっと詰めていた息を荒く吐き、ともすれば過呼吸を起こしそうになるところを、努めて整える。
……乾ききった喉を少ない唾液で潤しながら仰向けになると、すぐ側に、カラスのものか、黒い羽根が落ちているのが目に留まった。ここまでカラスか、それに似た黒い鳥など見たことがないので、魔物のものかもしれない。何かしらの霊力でも帯びているのか、薄青く光っている。
拾い上げ、星明かりにさらして観察しようとしたところで、賑々しいほどの星々が夜空に輝いているのに気付いた。
――オリオン座が、あった。