#377 奇妙な客
不思議なことに、後からどう思い出してもその時のことは視覚情報として、克明に覚えているのだ。
投げ飛ばした先、轟音を立てて転がった気配を頼りに、ぼくは蟹にとどめを刺すべく駆け出す。このとき、見えなければつまずいていそうな石などを、的確に避けて走ったような記憶が確かにある。
そして、無様にひっくり返った巨大な蟹の、本当に金属でできている殻の鈍く光る質感まで、まぶたに焼き付いているようなのだ。
さて、まだ実家が破産する前、羽振りのよかった父親が何かと慶事にかこつけて蟹鍋を振る舞った影響で、没落後は滅多に食べられなくなったぼくの幻の大好物が、かつてない大きさで目の前に転がっていた。
蟹の締め方は父によく教わっていたので、ぼくはひっくり返ってむき出しになった蟹の腹筋、言わばふんどしを力任せに引き剥がし、ついでに足を一本引きちぎって、その鋭い先端を、ふんどしの付け根に突き込んだ。蟹はもだえるように巨体をしばらくふるわせ、やがて完全に動かなくなった。
……そこまでやってようやく、ぼくは目が見えなくなっていることを思い出したのだった。
その自覚と共に、それまで異常分泌されていたアドレナリンが引き、急速に頭が冷えていく。そうして研ぎ澄まされた感覚は、これまで周囲を満たしていた支配層の生物たちの活動が鳴りを潜めたことを教えてくれた。そして。
「……洞穴? それも、かなり広い……」
聴覚と同様に、皮膚感覚も拡張されていたのだろう。周囲の空気の流れを肌寒さとして、緊張感と共に無意識に捉え続けていた。……いや。
「洞穴の奧に、家屋。冒険者のための山小屋のような……保存の利く食料や調味料、穀物もある? 何だ、ぼくは、何が見えている? いや、見えていない。聞こえる、香る、触れる……どれでもあって、どれでもない……」
自分でも出所の判然としない鮮鋭な知覚は、むしろ視覚情報よりもありありと周囲の様子を、特にぼくが意識を凝らそうとした先を克明に伝えていた。しかし、集中するとひどく消耗もするようだった。喩えるなら、生物無生物を問わず周囲に存在するあらゆるモノが異常なおしゃべりで、それぞれの来し方を雄弁に語って存在を主張してくるような、そこまで以上に鋭敏で、疲れもする知覚だった。
「ひどく疲れるな。慣れるのに苦労しそうだ。そもそも、慣れていいものなのか……」
そもそも蟹との死闘を経た疲労とも相まって、その異常知覚から周囲に敵性存在がなかったことにも気を許し、ぼくは感知された小屋の方に吸い寄せられるように歩いていった。
疲れていたので、異常知覚が途絶え、ただの盲者に戻っても、障害物を的確に避け、それ以前に金属製の外骨格に覆われた超重量級の蟹の腕を一本担いだまま移動していたことに、小屋に着いてから気付いた。
「う……んんまい……!」
食料や調味料ばかりでなく、小屋には一通りの調理設備まで揃っていることが、しばらく探索して分かった。先ほどの超感覚は疲労のために使えず、文字通り手探りのために時間はかかったが、とりあえず持ち込んだ巨蟹の腕から一抱えほどの身をほじりだし、塩ゆでにするくらいはできたのだった。
長期保存できる調味料はともかく、飲用水まで備えられているということは、定期的に誰かが訪れ、補給している可能性が高い。ぼくの持っている情報からは、十中八九、総長ということになるが。
ともあれ、
「生き物の味だ。生きてるからこそ味わえる……」
これまで食べた○○の中で一番うまい、というのは月並みな表現だが、それを蟹に当てはめるのは先住世界での経済状況からおこがましい気がして憚られた。
「命の味、命を奪った味。これからまたいくら奪ってでも、ぼくは生きたい……何のために?」
現金なもので、満腹感が得られ、不思議な小屋の中で安全が確保されれば、眠気が襲ってくる。決して上等とは言えないが備え付けられたベッドに横になれば、不安とない交ぜになった思考が泳ぐ。
「……みんな無事かな。どうしているだろう……」
魔力の枯渇に失明と、自らに降りかかった災難だけで手一杯だった思考のリソースがわずかばかりでも解消されれば、真っ先に気に掛けるべきだった周囲のことにようやく思いは至る。
ただ、一応安全は確保されたとは言え、依然として難関ダンジョンの奧という、死地の中にある。
他の面々の安全については、信頼できる総長が約してくれたのだから、問題ないとは言えないまでも、自分のことに集中する時間は確保されていると考えていいだろう。
気掛かりなことは多いとは言え、久方ぶりに訪れた心の余裕に睡魔が浸潤し、泥のような睡眠へと自意識が溶かされていった。
――気がつけば森の中、懐かしさを催す大樹の根元で、シンシアの姿をした女性に膝枕されていた。
あえて持って回った言い方をしたのは、それがシンシア当人でもなく、化けて出たとかのたまう幻でもないことが、すぐに分かったからだった。
「タンハーって、言ったか。悪魔ってのは勤勉だな。夢にまで出るなんて」
シンシア当人にはない、しかし非常に男好きしそうな媚びたニュアンスの笑みを浮かべていたタンハーは、これもシンシアなら絶対にしない表情、顔を大きく歪めて悔しがるというリアクションをする。この段階ではまだ誤魔化しようもあっただろうに、ずいぶん素直な性格な気がする。
「……なぜ分かったのじゃ?」
「何故って、目が見えないはずのぼくに見えてるんだ。夢か幻術だろう? 夢なら、こうしてカマかけて間違えても恥にはならないし……って、考えてなかったのか?」
「……? お主、目が見えぬのか?」
「? お前がそうしたんだろう? 呪いとか何か、知らんけど」
タンハーはシンシアの顔を疑念に曇らせ、思案している風だ。そういう細かい表情までシンシアのものとは異なり、違う人格であることを意識させられる。
などと、どうでもいいことを観察しつつ、正直心ここにあらずだった最近の記憶を引っ張り出してみる。失明を医者に診てもらったとき、確か呪術の類ではなさそうだと言っていたような。
「……妾はそのような手は使わぬ。幻を見せる相手を、わざわざ見えぬようになどするものか。毎回こうして夢に入り込むなど、手間がかかって適わぬわ」
「……それもそうか」
タンハーの言うとおり、眼に見える光景に細工する幻術と、こうして脳内で繰り広げられる夢に侵入して細工する夢幻術とは違う技術ということだろう。肉体を動かせない隙を狙う後者の方が高度で、その分コストが高い。前者の利きをわざわざ潰すのは確かに悪手だ。だとすれば、何が原因でぼくは失明したのか。
「……ところで貴様よ、いつまでこうしておるつもりじゃ」
今さら指摘されたが、互いの腹を探る会話をしつつ、ぼくはシンシアの姿をしたタンハーに膝枕されたままだった。
「嫌なら蹴飛ばしてくれればいい。美女に蹴られるのはいわゆるご褒美だ」
亡き恋人に扮するなど、相手の心を見透かして誘惑してくるような相手だ、今さら隠す性癖などないとばかり、開き直ってみる。
すると狙い通り、タンハー扮するシンシアの顔が汚物を見るように歪んだ。シンシア本人から絶対に引き出せない表情、いわゆるご褒美だ。
「……亡き恋人の姿を真似られるなど、普通は嫌がるものじゃ。故人を、思い出を汚されるものと」
「……まあ、ね」
あまりに心神喪失状態だったので記憶に薄いのだが、こうしてシンシアの姿で幻惑されたのは初めてではない。アスタマルの丘公園で、そもそもその襲撃によって失明したと思っていたのだが。
確かに、死者を冒涜していると、もっと怒った方がいい場面なのだろうが。
「知らないだろうけど、ゲームだとこういう展開珍しくなくてさ。ヒロインに扮した悪役が、本人なら絶対見せてくれない悪い顔とか、媚態を見せてくれたりね。プレーヤーとしては憤りよりもむしろ、貴重な表情を見せてくれた感謝が勝ったりする」
「一ミリも分からん」
またゴミ虫を見るような目で見られた。そういう表情だぞ。
「蘇生の可能性に触れて、時間も経って、それなりに気持ちの整理は付いてるし……あと、どうも視覚に頼ったコミュニケーションが、この先できそうもなくてね。たとえ敵であっても、姿を見せてくれるだけで嬉しいのさ。師匠格に地獄みたいなところに単身放り込まれて、人恋しかったところだし」
「変な奴じゃな、お主」
「どうせあれだろ、短刀と印を奪いに来たんだろ」
アイテム名に従えば、薬研藤四郎と覇王印。時の墓標――ISSの残骸で手に入れた、織田信長ゆかりの品。封印が解かれたと思しきデーヴァプッタ・マーラと対峙したとき、初めて相対したタンハーたち三姉妹は、ぼくが手に入れたこの二つの宝物を奪おうとした。口調や雰囲気からも信長を彷彿とさせるデーヴァプッタにとって、重要なものに違いない。
「奪うのではない。あれらはもともと、父上のもの」
その二つの宝物、インベントリに入れてあったのだが、魔力が枯渇したおかげで取り出せなくなっていた。出せと言われても困るのだが、せいぜいすっとぼけて対話を引き延ばすことを今思いついた。寝返らせるまではできなくとも、情報を引き出すくらいはできないかと。
「どうせネリスにぶっ飛ばされて立つ瀬ないんだろ? ちょくちょく来てくれたってバチは当たらないぞ」
我ながら、死境に追い込まれて逆に気が大きくなっている気がする。振り返ってみればなかなか強気な口説き文句を吐いていたものだ。
「……変な奴じゃな、本当に」
拍子抜けしたような無表情でぼくを見下ろしつつ、結局膝枕してくれたままで、タンハーはぼくが目覚めるまで留まってくれたのだった。……返す返すも、奇妙な関係の始まりではあった。
「蟹食べる?」
「いらぬ」




